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旭川幸之丞

旭川 幸之丞(あさひかわ ゆきのじょう、1905年8月18日 - 1978年1月31日)は、北海道上川郡(現:北海道旭川市、出生地は富山県下新川郡(現:富山県魚津市))出身で、1930年代から1940年代にかけて活躍した大相撲力士である。本名は宮坂 幸吉(みやさか こうきち)。1905年8月18日、富山県下新川郡(現:富山県魚津市)で生まれる。2歳の時に家族で北海道上川郡へ移住し、1921年の夏に友綱の一行が巡業で北海道へ来る際に、先乗りとして一足先に北海道へやって来た同郷の立浪親方(元小結・緑嶋)に見い出され、立浪部屋へ入門した。1922年1月場所で初土俵を踏み、1927年5月場所で新十両昇進を果たすが、ここから幕下との往復が5年以上繰り返されることとなる。1932年1月場所は自己最高位である西十両筆頭で迎えるはずだったが、同年1月6日に春秋園事件が勃発した。天竜三郎・大ノ里萬助などの幕内上位で活躍する力士が主謀者となって多くの力士が日本相撲協会を脱退したが、師匠の立浪が「お前ら十枚目のくせに、革新団や新興団に加わるとはとんでもない」と部屋の関取衆に対して目を光らせていたため、協会に残ることにした。東京に残った旭川は、編成がやり直された同年2月場所の改正番付で東前頭3枚目まで一気に昇進し、幸運な入幕を果たした。ちょうど1年前は幕下へ陥落していた時期だったことから周囲から幕内で苦労するかと思われたが、色白の小兵ながら手取り型で、右四つからの投げや肩透かし・叩き込み、さらに足癖や三所攻めなど変幻自在の多彩な取り口を繰り出すだけでなく、不得意である左四つに組まれた場合は右腕で相手の首を巻き、腰を落として踏ん張りながら防御する取り口を見せて上位を苦しめ、10年間に渡って幕内に定着した。特に、右上手の半身から一瞬の隙を突いて放たれる独特の出し投げは強烈で人気があった。部屋の弟弟子で「立浪三羽烏」と称された双葉山定次・羽黒山政司・名寄岩静男には参謀役としても働いた。新弟子時代の双葉山に対してはよく胸を出し、周囲からは「双葉山関を強くしたのは旭川関あんたですよ」と評されていた。1937年5月場所では1場所だけながら関脇へ昇進するなど幕内上位で通用する力量を身に付け、1938年1月場所千秋楽では男女ノ川登三を破って金星を獲得しているが、律儀な性格ゆえに、双葉山が立浪と不仲になったことで双葉山相撲道場を設立した際は、双葉山と立浪の板挟みとなったことに責任を取ろうと割腹自殺を図るまでに発展してしまったが、幸いにも発見が早かったために未遂で終わった。1942年5月場所を最後に現役を引退し、年寄・玉垣を襲名後は立浪部屋付きの親方として後進の指導に当たったほか、日本相撲協会の理事・監事を歴任し、停年まで2年以上を残して1968年1月場所を最後に廃業した。1978年1月31日、糖尿病と腎臓疾患のため、東京都町田市内の病院で逝去。享年72。

出典:wikipedia

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