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カミノテシオ

カミノテシオは日本の競走馬。稀代のアイドルホース・ハイセイコーの同期で、第70回天皇賞優勝馬。名前の由来は 冠名「カミノ」に、イタリアの天才ブリーダーとして知られるフェデリコ・テシオからの「テシオ」。前年の優駿牝馬(オークス)をカネヒムロで制するなど新進気鋭の若手騎手として期待されていた岡部幸雄が騎乗してのデビュー戦を、後方待機策で2馬身半差という内容で快勝し、早速素質の高さを見せた。この年戦績は5戦2勝と、翌年のクラシック有力候補としては悪くない成績を残している。翌1973年、当時の関東ナンバー1騎手・加賀武見を鞍上に迎え、この年の緒戦・京成杯を1番人気で優勝し重賞初制覇。この年のクラシック戦線の主軸の一頭としてシーズンを迎えることとなった。ところが、この年のクラシックは大井から移籍してきたハイセイコー一色状態であり、3番人気で挑んだ弥生賞ではハイセイコーの4着。さらに競走中に球節を傷めてしまったことが災いし皐月賞は7着と敗れ、さらに 東京開催のオープン戦優勝を経て挑んだ東京優駿(日本ダービー)ではレース直前で出走取消となってしまった。この故障のためカミノテシオは1年以上をその回復に費やした。1974年7月に復帰を果たしたカミノテシオは、勝利は掴めなかったものの復活の兆しを見せ、古馬最高のタイトル天皇賞制覇を目指すこととなった。この年の天皇賞(秋)はハイセイコーが鼻出血によって出走取り止めになったものの、17頭の出走馬が顔を揃えた。レースは最後の直線でダービー2着のイチフジイサミとの競り合いを制し、悲願のタイトル奪取を果たした。しかし、その後は球節炎の悪化により成績不振。天皇賞以降は勝利を挙げることなく、1976年暮れに引退となった。引退翌年(1977年)から種牡馬入りしたカミノテシオであったが、その父が気性難で有名なムーティエであった事も災いして種付け頭数が伸びず、さらに国産種牡馬が冷遇される当時の風潮にも圧されて、6年間の種牡馬生活の間に僅か14頭の産駒しか送り出せないという結果に終わってしまった。1983年、種牡馬を廃用となったカミノテシオは、去勢手術を施された上で乗馬に転向となった。その後は順風満帆な生活を送り、1996年11月21日、繋養先のスタッフが目を離していた間に老衰で死亡した。蹄鉄とたてがみの一部は、晩年を過ごしたJRA宇都宮育成牧場内の馬魂碑に収められている。

出典:wikipedia

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