ナリタキングオーは日本の競走馬。第1回ブリーダーズカップ・クラシックの優勝馬ワイルドアゲイン産駒のいわゆる持込馬である。1995年に中央競馬のクラシック三冠におけるステップレースで重賞3勝をあげ期待されたが、アクシデントもあり、GI級のレース制覇には届かなかった。※馬齢は旧表記(数え年)とする。1994年の札幌競馬場で横山典弘が騎乗してデビューし、2戦目に初勝利を挙げる。その後は、デイリー杯3歳ステークスではマキシムシャレードの、京都3歳ステークスではスキーキャプテンの、武豊に乗り替わったラジオたんぱ杯3歳ステークスではタヤスツヨシのいずれも2着と勝ちきれないレースが続いた。4歳初戦となった1995年の共同通信杯4歳ステークスでは、騎上を南井克巳に変更し、シャドーロールを装着して積極的に逃げると、後の東京優駿(日本ダービー)優勝馬タヤスツヨシに3馬身差の勝利。続くスプリングステークスも3コーナー手前から先頭に立つ積極策で、不良馬場を苦にせず連勝。朝日杯3歳ステークス勝ち馬で、弥生賞にも勝利したフジキセキの故障・引退や、タヤスツヨシの若葉ステークスでの敗北もあって、一躍皐月賞の本命候補となったが、前日に出走取消。日本ダービーには出走するが11着に敗れた。タヤスツヨシが若葉ステークスでのアクシデントから立ち直って優勝したのに比べ、春のクラシックは厳しい結果となった。秋は神戸新聞杯から始動するが14頭立ての10着に敗れる。続く京都新聞杯では南井が前日のレースで負傷したため、急遽藤田伸二が騎乗した。先行して第4コーナー2番手から抜け出すと、マヤノトップガンの追撃をクビ差抑えて重賞3勝目をあげた。混戦が予想された菊花賞では引き続き藤田が騎乗。ダンスパートナーに次ぐ2番人気に支持されたが、距離の限界もあって7着に敗れる。勝ったマヤノトップガンがその後有馬記念を勝ち、年度代表馬に選出されたのとは対照的であった。古馬になってからは不振を続け、5歳・6歳では故障も続き、たまに入着するのがやっとであった。7歳となった1998年2月の大阪城ステークスを逃げ切って2年半ぶりの勝利を挙げたのが最後の勝利となった。その後は2走して15着、12着に終わり、秋に船橋競馬場に転厩するが、4競走に出走して、うち2走は最下位に負け、残りの2走もブービーと、わずか2頭にしか先着できず、1999年の報知グランプリを最後に引退した。種牡馬になることは出来ず、引退後は地方競馬教養センターで2002年頃まで騎乗実習馬として供用されていた。重賞レースを勝っているにもかかわらず功労馬繋養展示事業の対象馬になっておらず、その後の消息は分かっていない。従兄弟にダービー卿チャレンジトロフィーなど重賞3勝のマイネルモルゲンがいる。日本では数少ないノーザンダンサーを介さないニアークティック系・3代母EuryantheはNijinskyとマルゼンスキーの祖母Quillの仔・ノーザンダンサーの血が薄いなど、血統的には非常に面白いものを持っていた。
出典:wikipedia
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