美濃電気軌道1形電車(みのでんきてつどう1がたでんしゃ)は、美濃電気軌道(美濃電)が1911年(明治44年)から1920年(大正9年)にかけて導入した電車(路面電車車両)である。木造車体を備える4輪単車で、ほぼ同型の付随車としてT101形も存在した。本形式は後年の合併により名岐鉄道籍および名古屋鉄道(名鉄)籍を経て、戦後モ1形・モ5形・モ10形(2代)・モ35形の各形式に区分された。本形式は美濃電気軌道が1911年(明治44年)に岐阜停車場前 - 今小町、神田町 - 上有知間を開業させた際に新製されたもので、後に数次にわたって増備が続けられ、計47両が導入された。なお、本形式は搭載する主要機器のメーカーの差異によって車番の前にアルファベットが付されていた点が特徴である。イングリッシュ・エレクトリック製のデッカー (Dick, Kerr) 系主要機器を搭載した車両は「D」が、シーメンス (Siemens) 製の主要機器を搭載した車両は「S」が、ゼネラル・エレクトリック (GE) 製の主要機器を搭載した車両は「G」が、それぞれ車番の前に付された。これら3種のアルファベットは47両全車に付されていたとされるが、その全容は今もって不明である。判明している範囲では、「D」を付された車両は1・5・7・8・27・31 - 33・36 - 38・40・41・43・45・47・50・58・60 - 63、「S」を付された車両は22・24 - 26・30であった。また、美濃電は末尾9を忌み番としていたことから、9・29・39・49・59は当初から欠番とされた。また、42は「死に」に通じるからか、こちらも当初から欠番とされていた。以下、本項における車番記載に際してはこれらアルファベットを省いて記載する。主要機器については各車メーカーの差異はあったものの、制御方式は直接制御、常用制動はハンドブレーキのみ、ポール集電方式で全車統一されていた。車体は木造ダブルルーフ車体のオープンデッキ構造二軸単車で、大正から昭和初期にかけて各地で見ることのできた普遍的な路面電車そのものである。窓配置はV8V(V:乗降デッキ)であった。なお、後期に新製された車両は客用扉が新設されて窓配置はD8D(D:客用扉)に変化し、オープンデッキ構造の初期車についても後年客用扉の新設が施工されている。これら一連の美濃電が新製した二軸単車に関して、車番と製造順が同期していないことや欠番の理由などについては一切不明である。車両数は判明している分のみで47両であるが、実際に新製された総数が何両であったかについても未だに明らかではない。以下、各グループの概要およびその後の動向について製造年次ごとに述べる。なお、本項で扱う車両同様に美濃電が新製した4輪単車61 - 63については名鉄モ45形電車項目を参照されたい。1911年(明治44年)に新製されたグループで、1 - 8・10 - 12・34の12両が存在した。全車天野工場(後の日本車輌製造東京支店)製で、台車はブリル21-Eを装備する。1939年(昭和14年)に2 - 4・10 - 12・34が廃車され、満州国・新京市電に譲渡された。残存した1・5 - 8については名鉄に在籍する二軸単車全車に通し番号が付与されたことに伴い、1 - 5と改番されている。その後3が戦災被災により焼失し、戦後車体新製により復旧され、モ50形50と改称・改番された。残る1・5・7・8は1949年(昭和24年)に再度改番が行われ、モ1形1 - 4と形式称号および記号番号を改めた。戦後、外吊りタイプの客用扉新設、集電装置のビューゲル化、車体外板に鋼板を張り付けて簡易鋼体化(ニセスチール車)等の改造が施工されたが、制動装置は終始ハンドブレーキのままであった。廃車は1965年(昭和40年)6月のモ4より開始され、最後まで残存したモ3は二軸単車運用最終日となった1967年(昭和42年)7月25日まで運用された後にモ550形(2代)に代替されて同月廃車となり、形式消滅した。1912年(明治45年)に増備されたグループで、20 - 26, 28, 30の9両が存在した。基本仕様は前項明治44年製の車両に準じるが、製造会社のみが異なり全車京都・丹羽電車製作所製であった。名鉄に在籍する4輪単車全車に通し番号が付与されたことに伴い、本グループは6 - 14と改番されている。1944年(昭和19年)に6・7が仙台市電へ譲渡され、9・13は戦災被災により焼失し、戦後車体新製により復旧され、モ50形51・52と形式称号および記号番号を改めた。残る8・10 - 12・14は1949年(昭和24年)に再度改番が行われ、モ5形5 - 9と形式称号および記号番号を改めた。戦後はモ1形と同様の経緯を辿り、1966年(昭和41年)のモ6・モ9を最後に全廃された。1914年(大正3年)に増備されたグループで、27・31 - 33・35 - 38・40・41・43・44の12両が存在した。製造は名古屋電車製作所で、当初から客用扉が設置されており、屋根には通風器が設置されていた。名鉄に在籍する二軸単車全車に通し番号が付与されたことに伴い、本グループは19 - 30と改番された。20・27は戦災被災により焼失し、戦後車体新製により復旧され、モ50形53・54と形式区分された。残る19・21 - 26・28 - 30の10両は1949年(昭和24年)に再度改番が行われ、モ10形(2代)10 - 19と形式称号および記号番号を改めた。戦後の各種改造についてはモ1形に準じ、モ10 - モ12・モ14・モ16・モ17・モ19の7両が1967年(昭和42年)7月25日まで運用された後に廃車となり、形式消滅した。1920年(大正9年)に増備されたグループで、45 - 48・50 - 58・60の合計14両が存在したが、51 - 54の4両は合併した長良軽便鉄道1 - 4であり間もなく岡山電気軌道に譲渡されている。製造会社および基本仕様は前項大正3年製の車両に準じるが、主電動機出力が40PSに増強された点が異なっていた。名鉄に在籍する二軸単車全車に通し番号が付与されたことに伴い、本グループは31 - 40と改番された。32・34・36 - 38は戦災被災により焼失し、戦後車体新製により復旧され、モ50形65・66・55 - 57と形式区分された。残る31・33・35・39・40の5両は1949年(昭和24年)に再度改番が行われ、モ35形35 - 40と形式称号および記号番号を改めた。戦後の各種改造についてはモ10形(2代)に準じる。その後1965年(昭和40年)より廃車が開始され、最後まで残存したモ39が1967年(昭和42年)7月25日まで運用された後に廃車となり、形式消滅した。1912年(大正元年)に新製された天野工場製の付随車であり、101 - 104の4両が存在した。形式称号の「T」は"Trailer"の略と推測される。車体はD1形初期車とほぼ同一の木造ダブルルーフ車体のオープンデッキ構造二軸単車であり、ブレーキはハンドブレーキのみであった。早い時期から休車となっており、美濃電気軌道が名古屋鉄道に買収された時点では全車休車となっていたという。1939年(昭和14年)に全車廃車となった。
出典:wikipedia
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