部落問題(ぶらくもんだい)は、差別に関する、日本の人権問題、利権問題を含む社会問題の一つである。元来中世から近世を通して存在した賤民問題を処理するために明治政府は、維新後の改革の一つとして新しい社会階級制度の中に「新平民」を設けた。明治・大正・昭和と時代を経て、新平民の暮らしにおける諸問題は、表面化し社会問題となる。第二次世界大戦後の日本国憲法における基本的人権の尊重の概念により、皇室を特別として、社会階級制度が消失した後も、多くの課題が残る。現在では、社会問題に対処するために部落団体・日本国政府・地方公共団体などが主張・提訴・改善・解決しようと取組む課題の総称となっている。政治的・法的・因習文化的な諸問題を多く含む社会問題であり、現代では世系差別と地域に対する差別を同和問題という。「部落」は本来「集落」の意味であるが、歴史的にエタ村あるいはエタ(穢多)と称された賤民の集落や地域を、行政が福祉の客体として「被差別部落民(略して部落民)」などと呼んだことから、特に西日本では被差別部落を略した呼び名として定着した(山間部などでは集落の意味でも普通に使われるので差別発言だと早合点しないように注意すること)。2011年3月4日に第68回全国大会で決定された部落解放同盟綱領では、「部落民とは、歴史的・社会的に形成された被差別部落に現在居住しているかあるいは過去に居住していたという事実などによって、部落差別をうける可能性をもつ人の総称である。被差別部落とは、身分・職業・居住が固定された前近代に穢多・非人などと呼称されたあらゆる被差別民の居住集落に歴史的根拠と関連をもつ現在の被差別地域である」と定義されている。ただし、その一方で『部落問題事典』(解放出版社、1986年)では「部落民とみなされる人、あるいは自ら部落民とみなす人を部落民という。この同義反復的なことでしか、部落民を定義することはできない」(野口道彦)とも述べられており、「被差別部落」や「被差別部落民」を定義する方法がないことも指摘されている。また、被差別部落には穢多や非人に起源をもつもののほか、夙、鉢屋衆、きよめなど多種多様な起源をもつものがある(雑種賎民)。静岡県では院内という民間陰陽師がもともと被差別民ではなかったところ、明治初期に陰陽師廃止令が発布されたために失職し貧困化して被差別民と同一視されるようになった例が報告されている。また、山窩の集住地を同和対策事業の対象とした自治体もごく少数ある。被差別部落の居住者は先祖代々同じ血筋で固定されたものと考えられることが多いが、これは間違いで、歴史的には被差別部落で財をなし成功した者が被差別部落の外へ流出すると同時に、被差別部落の外で食い詰めた犯罪人や無職者が生活費の安い被差別部落の中へ流入することが繰り返されてきた。京都市内のある部落では、京都部落史研究所の調査の結果、半数を超える「部落民」が部落外からの流入者と判明したこともある。1937年に京都市社会課が市内の8箇所の部落を対象に行った「京都市における不良住宅地区調査」では、「部落民」のほぼ半数が外部からの流入者と特定された。また、植民地時代の朝鮮半島から内地に渡った朝鮮人が被差別部落に住み着いた例も多く、日本の総人口に在日コリアンが占める割合は1パーセントに満たないところ、大阪市のある同和地区では住民の13.8パーセントを在日コリアンが占めている。原則として同和地区在住の外国人は属地属人主義により同和事業の対象とはならないが、自治体によっては完全な属地主義を採り、同和地区在住の在日韓国人を同和対策事業の対象としていることもある(滋賀県草津市の事例)。また、部落解放同盟や同和会が同和予算を行政から獲得するため、同特法のいう「歴史的社会的理由により生活環境等の安定向上が阻害されている地域」(被差別部落)が存在しない自治体にまで無理やり同和地区を作った事例もある(このような地区は「えせ同和地区」と呼ばれる)。1976年7月には、もともと被差別部落が存在しない宮崎県児湯郡都農町に同和会が結成され、これに伴って同和会が都農町の一部を同和地区指定させ、支部助成金など同和予算495万円の計上を約束させた。1976年9月の町議会は同和予算を全額削除したが、宮崎県同和対策室の圧力で最終的に1地区(9世帯、30人)が同和地区として認定させられた。こうして宮崎県では9市9町に36カ所の同和地区が指定されることとなったが、全解連書記長の村尻勝信によると、その3分の1は「えせ同和地区」であるという。大分県でも同和予算目当ての「でっち上げ同和地区」「ニセ同和地区」の存在が報告されている。同じ大分県では、一般地区の貧窮者が「生活保護を受けたいなら○町(同和地区)へ行け。あそこならすぐ手続きしてくれる」と地元の区長から言われ、同和地区に転入した例が多数ある。同対法施行当時は、個人施策の受給と同和住宅入居を目的として部落解放同盟支部長に認定料を渡し、部落民として認定を受ける「駆け込み部落民」の存在も指摘された。被差別部落民の定義が曖昧であるため、東京都では、自称部落民が部落差別と無関係の傷痕を「被差別部落に生まれたために虐められた痕跡」と偽って同和対策事業の個人給付を申請したケースも報告されている。また、同じ東京都では、ある団体の168人の自称部落民から生業資金貸付申請があったが、最終的に部落民と認められたのは2人だけだったこともある。被差別部落と被差別部落民の総数について、1946年の部落解放人民大会で採択された宣言では「全国に散在する6000部落300万の兄弟諸君」と呼びかけているが、1965年の同和対策審議会答申では、日本全国の同和地区数を4160、同和地区人口を111万3043人と述べている。1982年の調査では、同和地区数は北海道と東北と沖縄でゼロ、関東で609、中部で345、近畿で1004、中国で1061、四国で676、九州で868とされているが、東北六県にも未指定地区があることは常識となっており、平野小剣のように東北の被差別部落から出た水平運動家もいた。なお、被差別部落の最南端は種子島とされている。近現代に「部落」の語が用いられるに伴い、「地区」の意味での「部落」と混同されないよう部落民自らが「特殊部落民」と称するようになった。なお、「特殊部落」の語の初出は小島達雄の研究によれば1902年「明治三四年度奈良県学事年報」である。しかし「特殊部落民」との呼称も蔑称として使われたことから、「細民部落」「被圧迫部落」「未解放部落」「被差別部落民」などの呼び方に換えられた。歴史学者井上清が1954年の論文で、従来使われていた「特殊部落」「未解放部落」の語に代わって「被差別部落」の語を考案した。なお井上は、部落問題研究所理事として運営にも関わるなど、部落解放運動に積極的に関わっていた。ただし1966年11月発刊の『世界大百科事典』(平凡社)には「特殊部落」の項目名で記事が立項されており、筆者は井上清その人であった。灘本昌久は「「特殊部落」の使用が自動的に差別発言であるかのごとくにねじ曲げて解釈されるようになるのは、一九七〇年代に入ってからである」と述べている。蔑称として「部落民」「特殊部落民」ほか、近年は「同和行政」という語に由来して「同和」が使われることもある。灘本昌久は、1968年頃以降、共産党系は「未解放部落」、部落解放同盟系は「被差別部落」、行政関係者は「同和地区」(2002年の地対財特法失効後は「旧同和地区」)を用いる傾向があるが、近年は共産党系も「同和地区」(「旧同和地区」)で統一している、と指摘している。ただし「被差別部落」と「同和地区」は同義語ではなく、封建時代の被差別民の集住地でありながら「同和地区」指定をみずから拒否し、同和事業を拒んだ地区(未指定地区)は日本全国で約1000箇所にのぼる。この未指定地区は、同和地区に比べて経済的に恵まれている地域が多い。なお、「部落差別」という呼び方から「集住している人々」に対する差別であるという受け止め方が多いが、これは必ずしも正しくなく、地域的に差が見られる。都市部や農山漁村部を問わず集住している場合が少なくないものの、被差別でない集落の近隣に単独若しくは少数で暮らしている場合もある。たとえば、九州の一部地域のように下級刑吏として被差別民に該当する身分、あるいは社会集団に属する人が隠れ切支丹監視のために一家族ずつ分散して派遣された場合などである。被差別部落の中では、被差別部落の外(いわゆる「一般地区」)の出身者を指して「ハク」という名称が使われることがある。また「部落外」(ムラの外)の意味で「むらそと」という語が使われることもある。現在では同和行政特別施行地区という呼び方をする自治体もある。なお年配者や東日本などでは現在でも日常的に差別などの意味を持たない「集落」「地区」などの用法で「部落」という言葉を用いている。一例として、成田空港問題で反対運動を行っている成田市東峰地区の住民らは、広報紙で、特殊部落ではない同地区を東峰部落と称している。被差別部落の起源については諸説が存在するが、研究者で近世起源説を唱える者はいないとされ、中世あるいは古代以前から存在したとみられているが、人種起源説と職業起源説とがあり、未だ意見の統一を見ない。政府が同和対策に取り組み出した1960年代からおおよそ1980年代の頃までは「近世に幕藩権力が無から全てを作り出した」といういわゆる「近世政治起源説」が信じられていたが、これが学術的に否定されたことによって、現在では中世以前の様々な要素を踏まえた上でその起源についての考証が行われている。近世の身分制度は社会的地位であり、血統とは違っていた。江戸時代以前にも当然存在したが、江戸幕府による政権安定化のための身分世襲化が進んだ。身分制度は儒教的な思想の影響を受け、社会的役割の固定化によって安定がもたらされると考えられていた。しかし、部落差別に関しては、明確に「穢多」という言葉が使われていた鎌倉・室町の時代から、が現れており、その血統的な差別の起源は古く、最近あるいは今日まで、職業・地域を離れた血統差別の様相を示してきた。なお、「士農工商」と呼ばれる四身分がよく知られているが、実際はそれ以外にも多種の身分が存在しており、また「四民」のうち武士以外の上下関係については疑問が呈されており、2016年4月現在の歴史教科書のおいては採用されていない。明治4年に明治政府により「穢多非人等ノ稱被廢候條 自今身分職業共平民同様タルヘキ事」との布告(解放令)が出され、以前の身分外身分階層が廃止されたことが明示された。しかし、近代市民社会の産業革命を成し遂げた欧米列強に見習う部分が多く、一部の知識階級でのみその必要性が理解されたに過ぎない。そのため多くの村々では穢多や非人と同列に扱われるのには反対が強く、解放令発布直後から2年以上にわたって解放令反対一揆が続発した。解放令に反対して部落民を排除する取り決めを行ったり、部落民を「新平民」と呼ぶことにさえ拒否し、旧来どおり「穢多」と呼んだりした。これに対し県レベルの行政では解放令直後に「旧穢多」という言い方が用いられ、後には「新民」「新平民」「新古平民」というものも出てきたが、一方部落民が「新平民」を自称することもあった。部落民の呼称はたびたび換えられた。1905年、奈良県教育委員会における文書では「特種部落」が使われ、同時期の三重県の公用文書にもこの語が使われている。また全国的に部落改善事業が展開されていくに従い、「特種部落」以外に「特殊部落」が行政用語として広まっていった。この言葉に対する部落民からの反発はあったが、部落の自主的改善団体である「備作平民会」の設立趣旨書において部落民を総称する際に「我徒」「同族」が用いられたり、1903年の大日本同胞融和大会においては「日本に新平民なる一種族あり」との文言も見られる。次に出てきたのが「細民部落」である。これは1912年に開かれた「細民部落全国協議会」で用いられたが、「細民にすると一般的都市貧民との区別がつかなくなる」ということで、「普通細民部落、特別細民部落との区分けが必要になる」と指摘された。「細民部落」の名称以外には「後進部落」「要改善地区」が登場したが、「同胞」「一部同胞」「四海同胞」「四民平等」など、聞いただけでは分からない言葉も一時的には使われた。あるとき滋賀県大津の郡役所で村長会議が催された席上、特殊部落改善が話題になったとき、一村長は、「明治4年に解放令など出さずに、穢多を“皆殺し”にしておけば、禍(わざわい)はなかったものを」と放言している。解放令によって法的な地位においては身分職業の制限は廃止されたが、精神的・社会的・経済的差別は却って強まった。たとえば新制度における警察官などが武士階級のものとされ、下層警察官僚だった身分外身分の者が疎外されたこと、武士(特に上層の武家階級)が新制度においても特権階級とされたのに対し、武士に直属し権力支配の末端層として機能してきた身分外身分がなんら権限を付与されずに放り出されることによって、それまでの支配の恨みを一身に集めたこと、などが原因と考えられている。また現代に続く「部落差別」の問題の制度的源流は歴史的なものであるが、具体的な差別構造の成立は明治政府の政策や民衆に根付いた忌避感の表れであるとみる者もいる。差別の具体的な形態は、個人においては交際や結婚や就職、集落においてはインフラの整備における公然とした不利益などである。いわゆる被差別部落では貧しさによる物乞いが後を絶たなかった。島崎藤村の「破戒」は、この時代の部落差別を扱っている。また、1896年(明治29年)歌舞伎座初演の『侠客春雨傘』では登場人物の侠客釣鐘庄兵衛を被差別階級出身者とし、第五幕の「釣鐘切腹の場」で九代目市川團十郎の演じる暁雨が庄兵衛を諭す科白に「ハテ野暮を言う女だなア。穢多だろうが、大名だろうが、同じように生を受け、此世界に生まれた人間、何の変わりがあるものか。それに差別(しゃべつ)を立てたのは此世の中の得手勝手」(『名作歌舞伎全集』・第十七巻)がある。作者福地桜痴が欧米の平等思想を学んだ影響が見られ、舞台芸術で差別問題を扱った最初の例である。佐賀市外に神野の御茶屋というのがある。旧藩主の郊外別園だったが、お茶屋付近の若者は部落民に出入りさせない。ある年花見に来た部落民は、“身のほど知らずの生意気(なまいき)な奴だ”と入園を拒まれ、血みどろにされた。部落民の心理的発達は極めて暗い。ながい間、部落民は卑屈にされていた。部落民に対する侮辱は まず個人的な反逆となって現れてくる。大兇賊として知られた“五寸釘寅吉”はその代表的なものである。社会運動家高橋貞樹の著書『被差別部落一千年史』によれば「同情的差別撤廃の運動者は、部落の欠点について言う。部落の生活は不潔である。狭い屋内に密集群棲(ぐんせい)して非衛生的である。トラホームが多い。彼らはとかく猜疑心(さいぎしん)に富んで穢多根性(こんじょう)なるものがある。貯蓄心がなくていつまでも貧乏である。犯罪者が多い。とかく団結して社会に反抗しようとする傾きがある。かような事実が改善できぬ限り社会が部落を嫌うのは当然と言うべきである。われわれはこの事実を否定することはできぬ。そして部落の欠点というものを考えて見るとき、貧ゆえに起こりくるものばかりである。部落の不潔、密集的な非衛生生活、トラホーム、猜疑心(さいぎしん)、穢多根性(こんじょう)、貯蓄心の欠如、犯罪、反抗、一つとしてこれ貧窮と社会の圧迫とから醸(かも)されたやむをえざる情勢ではないか。」ただし今日の部落問題研究者は、被差別部落が貧しくなった原因は「社会の圧迫」ではなく松方デフレであったと指摘している。灘本昌久は次のように述べている。なお部落産業の一つに三味線製造用の猫の捕獲があり、このことから、関西地方では被差別部落民を「猫殺し」と呼ぶこともある。部落民にとって兵役の負担は一般社会に比してさらに一層の重税であった。それにもかかわらず部落出身者は兵役中においてあらゆる侮辱を忍び、成績がよくとも進級することは甚だ困難であった。すでに入営のとき部落出身者ということを記入し、劣等扱いをした。軍隊内の凌辱に堪えきれず自ら銃台をもって頭を打ち割った兵士や、脱営して古沼に投じた兵士がいた。群馬県のある村では入営のとき次のような出来事があった。その村から帝国軍人として徴兵された十幾人のうちに部落の青年が二人あった。十二月の入営期がきて、部落出身以外の壮丁は、在郷軍人からも町民からも送別の歓待至れり尽くせりで、在郷軍人会からは軍服を貸し渡した。ところが部落の両青年にはそれを貸してくれなかった。仕方なく一人は新調して間に合わせたが、もう一人は貧しかったため、ようやくにして一着の古いぼろぼろの軍服を町の軍人会に哀訴(あいそ)嘆願して借りた。軍人会は「穢多の奴(やつ)に貸す服はない。奴らにはこれでたくさんだ。」と述べたという。 明治天皇は部落民・アイヌ民族・ハンセン氏病患者を含む臣民男性に対し、平等に兵役義務を課し選挙権を与えた。ただし当初は納税額による制限選挙で、法律で全国統一の金額が定められたため、マイノリティーには経済格差のため参政が困難であった。沖縄県では、県民所得が全国平均の3分の2程度で有権者比率は少なかった。制限は徐々に緩和され、1920年の時点では鹿児島県の部落民の有権者は衆議院選で154名、地方選で383名に達していた。また1920年には内地在住の兵役義務の無い朝鮮・台湾人にも選挙権が与えられたが、納税要件を満たしたのは裕福な貿易商等に限られていた。1925年に普通選挙が始まり、すべての25才以上の男性に選挙権が与えられた。ただし有権者が投票用紙に自書しないといけないので、非識字者はメモ書きした候補者名を書き写したりして投票した。ハンセン氏病患者も徴兵検査を受ける義務があり、投票所へ行けば選挙権を行使できた。1930年には日本語の識字力の無い朝鮮人のために、ハングルでの投票が可能となった。1945年10月に兵役法が治安維持法などと同時に廃止され、12月に衆議院選挙法が改正され選挙権は男女平等となった。一方で、植民地籍者の選挙権は保留となった。1950年に公職選挙法が施行され、投票立会人による代理投票や不在者投票が実現した。このような状況を改善するためにかつての賤民階層の人々(いわゆる「部落民」)は、自主的な運動を始め、差別糾弾・行政闘争を軸に運動を展開した。「部落問題が社会不安の原因になることを憂慮」した政府はこれらの運動が「左傾化」することを恐れ、弾圧と懐柔の両面で相対した。もっとも水平社は当初、「帝国臣民である以上、天皇の赤子として共に報国の権利と義務があり、それを差別により侵害するのは不当である」という意味の宣言をしていた。国民の融和を目的とし、人権侵害の防止に積極的でなかった政府の運動に反発した西光万吉、阪本清一郎らが中心となり1922年(大正11年)に全国水平社が結成された。そして「人の世に熱あれ、人間に光あれ」で知られる創立宣言で「全國に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ。吾々が穢多であることを誇る時が来たのだ。」と宣言した。今でこそ「特殊部落」は差別用語として扱われ部落民も避ける傾向があるが、水平社結成時には扱いが異なっていたことが機関紙第一号から読み取れる。「明治四年の布令によって解放された吾々の頭上には、今度は新平民の名称を附され、尚近頃は少数同胞などの名称に代っている。實質が變化しなければ名称は問題ではない。歴史は絶対に消されぬ。エタが華族になり、華族がエタの名称に代っても、吾等に対する賤視観念が除かれねば、華族のエタが卑しめられ、エタの華族が尊敬せられる、寧ろ吾々は、明らかに穢多であると標榜して、堂々と社会を濶歩し得る輝きの名にしたい。」と主張する者が多数を占め、結局、名称によって吾々が解放せられるものではない。今の世の中に賎称とされている「特殊部落」の名称を、反對に尊称たらしむるまでに、不断の努力をすることで喝采の中に綱領通り保存されることになった。この間殆んど一時間有余、口角泡を飛ばして議論を闘はした。当時は1917年(大正6年)のロシア革命の直後であり、活発化した社会主義運動はこれらの部落解放運動に大きな影響を与えた。また自由民権運動との関わりも深かった。激しい水平社の糾弾闘争は当時の人びとによく知られ、水平社がいわゆる「部落民」の代名詞となったほどである。しかし社会主義運動との連携を恐れた政府は後に水平社、特に日本共産党に関わりを持った左派を弾圧した。1920年代後半の低迷を経て、1930年代以降、再建された全国水平社総本部は、松本治一郎を中心とし、合法無産政党に連なる社民派が掌握した。1933年(昭和8年)の高松差別裁判糾弾闘争のように、大衆的な盛り上がりを見せることもあったが、次第に戦時体制に呑み込まれていき、弱体化、太平洋戦争突入後の1942年(昭和17年)に消滅してしまった。戦後に、「同胞融和」という言葉から部落問題のことを「同和問題」と呼ぶようになった。1942年(昭和17年)8月に文部省社会教育局は『国民同和への道』を刊行し、はじめて政府の教育方針として同和教育政策の理念・具体的方針を示した。1951年(昭和26年)、在日朝鮮人の生活を扱った小説「特殊部落」を京都市九条保健所職員が杉山清一の筆名で雑誌『オール・ロマンス』に発表し、問題となった(オールロマンス事件)。設定上の舞台である「特殊部落」は京都市内に実在する被差別部落であるが、登場するのはすべて在日朝鮮人、その「特殊部落」に住んでいれば「部落者」と呼ばれ差別されるが地域を離れればそうでなくなるという、地域の実情や差別の様態とは懸け離れた内容で、地域の住民たちは事実を歪めて興味本位に書いた差別小説として京都市に対して抗議を行った。京都市役所内部に形成されていた左翼グループはこの問題を部落に対する行政上の措置の不十分さから起きた事件として扱うよう図り、水平社運動と融和運動の活動家が大同団結して結成された部落解放全国委員会京都府連は彼らと連携して、「小説は京都市が放置してきた被差別部落の実態を反映したものだ」として行政を批判した。翌年、京都市は前年比5.8倍の同和問題対策予算を計上し、被差別部落のインフラの改善を積極的に推進した。これ以降、部落差別撤廃のための行政闘争が活発化していった。部落解放同盟(部落解放全国委員会から1955年(昭和30年)に改称)や全日本同和会(旧融和運動系の活動家が解放同盟から離脱して結成された運動団体、保守系)の働きかけと自民党と日本社会党との間で合意が形成された結果として、1969年(昭和44年)に同和対策事業特別措置法が10年間(後に3年間延長)の時限立法で制定された。また、1982年(昭和57年)には地域改善対策特別措置法が5年間の時限立法で制定された。このように部落解放同盟を始めとする各運動団体は行政に強く働きかけ、同和地区のインフラの改善、精神的な部分での差別を解消するための教育などを推進していった。「同和地区」と呼ばれる地域が出てくるのはこれ以降であるが、運動が盛んでない村では指定によりさらに差別を招くのではという恐れから、地区指定を受けずに同和対策事業を受けなかった例も多い。教育や社会基盤の格差の是正のための各種同和対策事業については、「部落以外の人に比べ優遇されている」(逆差別)と主張されるが、これらの措置はアメリカで女性や黒人、先住民などの雇用や教育に適用されている積極的差別是正措置とも捉えることが出来るが、アメリカにおける人種差別と本邦における部落問題を同列化して語ることの正当性について議論が呈されている。一連の同和対策事業の一部は1987年(昭和62年)3月31日に新たな時限立法「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」などにより延長されたが、2002年(平成14年)にそれらが期限を迎え、国による同和対策関連事業は終了した。1961年(昭和36年)、高知県の同和地区の父母が、学習会において日本国憲法を学んでいたが、第26条に「義務教育は、これを無償とする」と言う条文を見つける。この事で、それまで有償だった教科書に疑問を呈し「義務教科書の無償提供運動」を興した。結果、1963年(昭和38年)「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律」が成立し1969年(昭和44年)までに順次、全国の小中学校の教科書が無償提供されることになる。1974年(昭和49年)11月22日、兵庫県養父郡八鹿町(現養父市)の八鹿高等学校の教職員約70名に総評系労組などで構成された八鹿高校差別教育糾弾共闘会議の部落解放同盟が襲撃する事件が起こった。この事件により教職員48名が負傷し、29名が入院、危篤を含め2か月から1週間のケガをした。刑事事件では起訴された部落解放同盟員全員が有罪で確定、民事裁判でも解放同盟の暴行障害に協力した県、教育委員会が被害者に謝罪し賠償金を支払い、解放同盟は判決確定後かなり経ってから法定の遅延利息を含む判決の金員を支払っているが、今も教師たちに対する集団暴行・障害の正当性を主張し続けて謝罪を拒否している。同和対策事業の伸展に伴い、同和地区の環境改善は画期的に進んだが、巨額の予算の執行に伴い、それに関わった行政当局者、運動団体関係者による不正・汚職行為が少なからず発生し、マスコミを賑わせることがたびたびあった。とりわけ1981年(昭和56年)の北九州土地転がし事件、2001年(平成13年)に表面化したモード・アバンセ事件、2006年(平成18年)に発覚した飛鳥会事件や奈良市部落解放同盟員給与不正受給事件、八尾市入札妨害恐喝事件など、運動団体の幹部と行政の癒着が報道されている。特に関西の地方自治体で同和対策事業に関する不正が発覚した2006年以降、大阪市を始め各地方自治体では同和行政の大幅な見直しが行われることになった。2008年(平成20年)鳥取県では、部落解放同盟鳥取市協議会の元会計責任者が架空の人権コンサートをでっちあげて平成17年度の市教委の補助金50万円を不正受給していたことも発覚した。また、関係者の自作自演による差別事件なども複数発覚している。これは実際には差別事件など起こっていないにもかかわらず、さも差別事件が発生しているように見せかけた悪質なもので、滋賀県公立中学校差別落書き自作自演事件や解同高知市協「差別手紙」事件などがその一例である。これは、現在でも行われており、2009年(平成21年)7月7日には、福岡県で、同和地区の出身者である立花町(現・八女市)の嘱託職員の男が、自宅にカッターナイフの刃を同封した差別的な文書を、町役場にも差別的な記述があるはがきを匿名で送るという事件が発生した。「被害者になれば町が嘱託の雇用契約を解除しにくくなると思った」と男は話しており、県警は偽計業務妨害の疑いで逮捕した。2009年(平成21年)、福岡県では、2月、立花町役場に採用された被差別部落出身の男性から、県議に「差別問題を県議会で取り上げてほしい」との電話があった。2003年(平成15年)から、この男性に対する44通の差別的なはがきが役場などに郵送されていた。県議は、電話を受け、県警に徹底捜査を要請した。しかし、3ヵ月後、逮捕されたのは「被害者」であるはずの男性だった(立花町連続差別ハガキ事件)。この男性は、44通すべての関与を認めており、会合で話をして、講演料まで受け取っている。県警は、町に雇用を継続させることが目的だったと見ている。かつて問題となった所得格差やインフラストラクチャー整備の遅れ、進学率の違いは住宅改善事業などの同和対策事業により指定地区ではかなり解消され、若い世代では差別意識は薄れてきている。しかし、身元調査が行われている事を背景に過去に被差別部落のリスト(特殊部落「地名総鑑」など)が会社の人事担当などを対象に売られる事件がたびたび起こっている。結婚や就職、地域交流に関わる差別は当事者の判断にかかる事柄であり差別事象は多い。また、部落差別解放問題に取り組む団体の関係者(主に行政と地域との間のパイプ役となっている団体役員)による不正行為の発覚、路線の対立する各団体同士間のイデオロギーの差異に端を発する対立によるトラブルなど、違う類の問題も表面化している。少なくとも高度経済成長による人口の大移動、それに伴う都市近郊の開発・移転によりかつての被差別部落地区が薄れたり、新しく転入してきた住民の間で忘れ去られていく傾向は多い。また各種運動の結果として差別意識が改善している部分も大きい。現在も義務教育の過程の中で、平等主義的な意味で、被差別部落についての教育が行われることがあるが、「寝た子を起こすな論」では「そもそも被差別部落の意味を理解していない(実体験として被差別部落が何であるかを知らない)子供に単に「部落」という言葉が差別語であるという意識を植え付けている」と主張されている。ただし、部落解放同盟委員長の組坂繁之は「差別は自然にはなくならない。それどころか、『寝た子を起こすな』というので自分の家が部落民であることも部落問題のことも何も教えられずに育った子供が、家の外で聞いてきた社会の偏見を鵜呑みにして家族の前で平気で差別発言をしたという例がある」と述べている。一方、従来の「周囲の差別的な視線により移転の自由がままならず、同じ血筋の人が代々住み続けているところ」との一般的な部落に対するイメージとは異なり、京都市、大阪市などに多数存在する都市部落では、人口の流出入が極めて活発であり、社会的地位の上昇を果たした階層が転出していき、その代わり社会的に低位な層が転入してくるという循環構造が形成されていることが近年明らかになってきている。近い将来、それらの地区では、新たな貧困と、それに起因する様々な社会的問題を抱えることになるのではないかと懸念されている。早期に同和対策事業が開始された地域では、その一環として取り組まれた社会資本の老朽化が顕著になっているほか、すでに地区住民の実情に合わないものになっており、その対処を巡り新たな課題が発生していると指摘されることもある。政界においては野中広務が被差別部落の出身として有名であるが、出身に起因する差別や妬みなどがあったと言われている。野中が出馬するという説があった2001年の総裁選では、部落出身であるから総理にはなれないという話も出てきていた(結局野中が所属する平成研究会は橋本龍太郎を擁立した)。こうした中、野中は同党の麻生太郎が差別発言を行ったとして名指しで非難し(野中の著書によれば、新聞記者からの情報があったとされている)、麻生が否定するという一幕もあった。部落問題は、現代の日本において一種のタブーであると言われる。そのためマスメディアなどで正面から取り上げられることは少なく(真面目に取り上げられる番組は『朝まで生テレビ』など少数)、また公の場で部落問題を語ることは大きな論争の原因となることが多い。「部落」という言葉自体も、事実上の放送禁止用語となっており、出演者が「集落」の意味での部落という言葉を使った時でさえ、すぐに謝罪訂正、もしくは「集落ですね」などとその場で言い換えられる。しかし最近では、本来の「部落」の意味や過剰な自主規制への反省からか、特に何事もなく放送が進む場合が多い。21世紀に入って『同和利権の真相』(寺園敦史、一ノ宮美成、グループK21著・別冊宝島Real、宝島社文庫)というシリーズが発表された。既に累計50万部前後のベストセラーとなっている。また、本書で取り上げられたハンナン株式会社の浅田満元会長が2004年(平成16年)4月17日にBSE対策の補助金詐取の嫌疑で逮捕された。なお、『同和利権の真相』で主要な批判の対象とされている部落解放同盟の公式見解として公表された反論文や、宮崎学、角岡伸彦など解放同盟外の論者らの同書への批判を眼目とした反論本『『同和利権の真相』の深層』(解放出版社)がある。部落出身者と結婚すると血縁関係が生ずるため、「自分の家系(息子、娘)の血が穢(けが)れるから」と反対する家族(親戚なども)が多くいた。内密に身元調査や聞き合わせを行い、部落出身者と分かると結婚を許さない例や、好きな人と一緒になることに妨げがあった。そのため部落民は部落民同士で結婚することや、仮に部落外の人と結婚できたとしても、それは親族の祝福がない駆け落ちであるなどのことが多かった。また、結婚差別に遭い、自ら命を絶つ者も多くいた。今でも、結婚に反対する傾向は少なからずあり、露骨に反対する場合・それ以外の理由に託けて反対する場合の両方がある。この問題があるため、現在はどの探偵業者も、“差別につながる身元調査はしません”と広告(主として電話帳)に注記している。1975年(昭和50年)11月に、被差別部落とされる地域を一覧で記した本が興信所などにより作成され購入者の人事部に配備したとされる「部落地名総鑑事件」が発覚した。しかし法務省人権擁護局は、被差別部落ではない地名も含まれている、としている。2007年(平成19年)には、部落地名総鑑の内容を収録したフロッピーディスクが出回っていることが発覚した。被差別部落の数や部落問題の認知度については大きな地域較差がある。差別の対象となった賤民身分や被差別部落の呼称も地域により様々であり、一般に関西を中心とした西日本には大規模な被差別部落が多く存在し、解放運動が盛んであるが、関東以北では現存する被差別部落自体が比較的少ないことから認知度が低い傾向にある。北陸地方や東北地方では被差別部落がごく少数点在するのみであり、明治期以降解放運動の盛り上がりに欠けていた。学校での教育なども行われないため、これらの地域の住民は部落問題への認知度自体が非常に低く、「部落」と言う言葉も差別用語の認識はなく単に一般の集落や町内会を指すことが多い。また北海道や南西諸島には、この項で扱う種類の被差別部落は存在しない。琉球における宮古・八重山に対する差別は背景が異なる。北陸地方で部落問題が深刻化しなかったのは、大多数が浄土真宗(一向宗)を信仰していたことが一因である。浄土真宗では武士、猟師、そして被差別民の「役務」・「家職」に伴う殺生は、忌避の外としていた(むしろ自力で本願を遂げられない「悪人」こそが阿弥陀如来にすがることで救われるべきだという悪人正機説を唱え、全国の被差別民の救済にも熱心にとりくんだ結果、被差別民の大半が浄土真宗に帰依している)。例えば越中(富山県)に残る「念仏行者心得か条」には「稼職に非ざる殺生を致し申す間敷事」(仕事ではない殺生はしないようにしましょう)と書かれている。代々の指導者は繰り返し生きるために必要な殺生の必要性を説いている。開祖親鸞は「海川に、網を引き、釣をして、世をわたるものも、野山に、猪を狩り、鳥を取りて、生命を継ぐともがらも、商いもし、田畠を作りて優る人も、たゞ同じことなり」と言っている。また本願寺中興の祖といわれる本願寺第8世の蓮如が越前(福井県)吉崎御坊を拠点としていた際に書いたと思われる手紙(御文)の一節に「ただあきなひをもし、奉公をもせよ、猟・すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらものを、たすけんと誓ひまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあづかるものなり」とある。浄土真宗への帰依が深い越中(富山)において被差別民にあたる職業を担っていた「藤内」は一般集落から隔離されること無く、各集落内に分拠していたため被差別部落そのものが形成されなかった。加えて、1980年代後半以降、これらの地域では急速な過疎化が進み、1990年代以降は被差別部落も含め消滅集落になる集落が珍しくなくなった。この状態で被差別部落の隔離が維持されることはなく、意識が低かったこともあって部落問題そのものが過去のものとなりつつある。そのため、北関東地方も含めたこれらの地域では、通常の学校教育では現代の部落問題に関して教えることはまずないことから、関西以西に進学する学生を対象に、部落問題についての禁忌、タブーといったものを特別に講義する事態になっている。東北地方は、戦国時代などでも雪が多いため、戦いには不利で冬には食糧を生産することが困難なため、欲しがる武将もおらず、安定した場所であった。しかしその分、他の地方からの食べ物が入らないために冬を越すためには地域による助け合いが必要不可欠であり、部落差別をする余裕すらなかった。しかし反面で地域の助け合いを行わない・働かない者は排除されていた。地域的な差別こそないものの、家主が非協力的な態度であれば、周囲からも援助を得られなかった。そういった者は子供の世代が幼少期の苦労や成長しても煙たがられて仕事をもらえないため、他県に移住し、二度と故郷に帰ることは無かった。「最近、都会やその近郊では近隣の住宅や人の移動などで存在が薄れ、部落差別は現在はほとんど意識されることがなくなった」とも言われるが、最近でもその存在その物をタブーとする人においては差別意識が改善されたのではなく、単に忌避意識が潜在化しているだけであるという解釈もある。また、糾弾闘争に対して、近年では、「差別とされる内実も、被差別部落出身だからというよりも、強力な圧力団体がバックについているがゆえに敬遠され、差別解消を建前とする部落解放同盟が、反対に真の意味での差別解消を妨げている。自己目的化した団体は、本来の目的を達成することでその存在意義を失うことを恐れている」と言われている。小池晃も「同和問題は基本的にすでに解消しており、不公正な同和対策を継続すること自体が新たな偏見を生み出すもの」とし、部落解放同盟による無法な利権あさりを批判し、またこのような批判を「差別」とされるのは完全な筋違いであると述べている。その一方で、出版物やインターネットなどでアンダーグラウンド情報などとして、差別を煽動するような情報が流されるという事実もある(アマチュアパケット無線での「地名総鑑」流布事件)。「苛烈な『糾弾』への忌避感情」を利用して押し売りや恐喝などを行うえせ同和行為や、一部の関係者が暴力団化することも部落問題の解決を遅らせている一因となっている。群馬県の被差別部落の出で部落解放同盟埼玉県連に所属していた詩人植松安太郎は野間宏との対談で部落民の気質をの3類型に分類し、この中の第3類型の部落民について「ご承知のとおり山口組のなかの70%は部落民だといわれているけれど、関東だって切った張ったのやくざの手下や用心棒のなかには部落民がいっぱいいるわけですよ」と語っている。大阪の右翼団体のトップは「不良はある程度の年齢になると、ヤクザになるか、右翼になるか、同和にいくか進路を決めるんですわ」と発言している。これに対して鈴木智彦は「暴力団と政治団体と人権団体の三位一体は、裏社会最強のコンビネーションだ」、「大阪ではかつて、同和利権を制するものがヤクザ社会を制すると言われていた」と述べている。鈴木智彦は大阪の同和地区に住み込んで暴力団を取材した上で「驚いたのは、暴力団と住民の距離が圧倒的に近いことだ。町内会の事務所にしょっちゅう顔を出し、会議に出席するばかりか、バザーや旅行などの行事にも積極的に参加する。というより、実質的な仕切りを暴力団がしていた。彼らは住民の代表なのだ。さすがにいまはもうないだろうが、祭りの際、山口組の代紋が入った法被を着ている5歳くらいの女の子がいた。そんな子供が御輿を担いでいるのに、誰もそれを気にしない」とも述べている。鈴木は、暴力団員に在日コリアンや被差別部落民が多いことを指摘しつつ「我々の年代でこうした差別を暴力団になった理由には出来ないと思う。現代で差別というエクスキューズは通用しない」とも評している。
出典:wikipedia
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