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仁義の墓場

『仁義の墓場 』(じんぎのはかば)は、1975年に東映が制作したヤクザ映画。藤田五郎の同名小説が原作。日活アクションスターとして活躍し、日活退社後は松竹、東宝の諸作品で主演・準主演として活躍していた渡哲也の東映初主演作品。監督は1973年からの『仁義なき戦い』シリーズで「実録ヤクザ映画」ブームの先鞭を切った深作欣二で、監督の起用は渡本人の希望による。鴨井達比古の第一稿を元に松田寛夫と神波史男が筆を入れた。実在のヤクザ石川力夫の型破りかつ破滅的な生き様を凄惨な暴力描写で描き通した作品で、実録ヤクザ路線の極北と評される。公開当時の興行成績は振るわなかったが、後にその一種異様な迫力が評価され、キネマ旬報「オールタイムベスト・ベスト100」日本映画編(1999年版)では、38位に選出されるなど作品の評価は高い。翌年には同じ深作監督による続編的作品(物語の連続性はない)『やくざの墓場 くちなしの花』も制作されている。終戦直後の新宿は、ヤクザと外国勢力との抗争が続く混乱の只中にあった。テキ屋一家「河田組」の石川は兄弟分の今井、杉浦と中野を拠点とする三国人の愚連隊「山東会」を襲撃しテラ銭を強奪、さらに抗争によって双方摘発される。しかし治安維持に苦慮する警察の計らいで自分らのみ釈放され、まんまと同会を壊滅に追い込んだ彼らは中野今井組を興す。そして石川はこの抗争の最中に知り合った、置屋の若い女、地恵子を強姦して情婦にする。石川の凶暴性を持て余した組長の河田は、「池袋親和会」の青木を消せと示唆する。石川は青木の情婦を犯し、青木を叩きのめす。大幹部梶木を筆頭に復讐のため集結する親和会勢力に一大抗争の危機を迎えるが、河田に縋りつかれた大親分関東野津組組長野津の発案によって、進駐軍に鎮圧するよう仕向けることで事なきを得た。杉浦は野津の盃を受け、組織に同化していく。破壊衝動の収まらない石川は賭場で悶着を起こし、野津から一喝される。逆恨みから野津の車に放火した石川は河田から激しい制裁を受ける、逆上して親分である河田を刺してしまう。今井にかくまわれる石川だが、その身を案じた妻・地恵子が警察に通報したことから逮捕される。収監された石川を、親に斬りつけた不義理者として周囲の懲役囚たちがつけ狙う。不安から相次いで暴力騒ぎを起すも、一年六ヶ月の懲役を受けた後、出所した石川は河田組から十年間の関東所払いを食らい、地恵子に体を売らせて獲た金を持って大阪へ移る。この地で肺を病んだ石川は、釜ヶ崎のドヤ街で娼婦からヘロインを覚え中毒となり、売人を襲撃しようとしたところでやはり中毒患者の小崎と出会い、意気投合する。一年後、すっかり身体を蝕まれた石川らは無断で帰京し、今井組の賭場で騒動を起こす。今度も石川をかばおうとした今井ではあったが石川の上京を嗅ぎつけた河田から牽制され、なんとか石川を東京から遠ざけようとする。不実を責める石川に堪忍袋の緒が切れた今井は彼をなじり、怒りに我を忘れた石川は今井を刀で斬りつけ重傷を負わす。逃走後、再び現れた石川は今度は今井を射殺し、制止しようとした彼の妻にも右手に大怪我を負わせる。野方のアパートに潜伏していた石川と小崎を、警官隊はもちろん、河田組員、今井組員が包囲する異様な雰囲気の中、石川は無差別に発砲を繰り返す。薬が切れ禁断症状となった小崎を見て追い詰められ石川は、弾も尽き自棄になって表へ飛び出したところをもみくちゃの状態で取り押さえられる。警察病院に収容された後、彼は殺人及び殺人未遂で懲役十年の刑を宣告される。昭和二十六年一月二十九日、肺を病んだ体に鞭を打って保釈金を工面するなど石川を献身的に支え続けた地恵子は、心身を磨耗し尽くして自殺した。刑務所内で胸部疾患が悪化した石川が、病気治療のため仮出獄を許される、わずか三日前のことであった……火葬を終え、地恵子の骨を、手を震えさせながら一つ一つ箸で摘み骨壷に納める石川のサングラスに隠された両目から流れる涙は、頬を伝って灰の上に滴り落ちた。地恵子の骨壷をぶら下げ、死神のように彷徨う石川。河田組に現れた石川は、地恵子の遺骨を齧りながら「そろそろ一家を興したい」と信じられぬ言葉で河田に土地と金をねだる。さらに幹部の神野、松岡からも金を獲た石川は、石材店を訪れ墓石を作るよう要請する。そして「墓にはこう彫ってくれ」と言いながら一枚の紙片を渡した。別の日に石材店を訪れ、黙々と墓石を刻む老石工の横に佇んでいる石川は、なぜか小声で一人笑い、石工に不審がられるのだった。亡き今井の組を訪れた石川は仏壇を拝ませてくれと頼むが、未亡人はかつて大怪我を負わされた右手を震わせてその願いを固辞する。墓参りに訪れたところを河田組組員に襲撃され負傷した石川だが、それでも驚異的な生命力で生き延び、病院生活を経て府中刑務所に収監された。そして昭和二十九年一月二十九日、石川は周囲の制止を振り切って刑務所屋上から身を投じ、二十九年の短い生涯を自らの手で終えた。その日は奇しくも亡妻・地恵子の三回忌の日であった。刑務所の独房内には、石川が書いた遺書が残っていた---「大笑い 三十年の 馬鹿騒ぎ」新宿・常円寺境内。石川が建てた自分と地恵子、そして今井の墓石がある。そこにはなぜだか「仁義」の二文字が刻まれていた。その墓を訪れる人は、もう誰もいない。本作のモデルとなった石川力夫は、監督の深作欣二と同じ、茨城県水戸市出身の伝説のヤクザで、本作以前の『現代やくざ 人斬り与太』や『人斬り与太 狂犬三兄弟 』も石川を反映させたと深作は述べている。また直前に長田紀生が石川を素材として『狼の仁義』という脚本を書き東映に提出したが映画化されなかった。意外なところでは、若山富三郎の当たり役として知られる『極道シリーズ』も俊藤浩滋プロデューサーが、実在する大阪釜ヶ崎の愚連隊の男をイメージして脚本を指示したが、上手くいかず、脚本の松本功が東映本社の課長から石川力夫の話を聞き、松本がそれを換骨奪胎して造形したのが『極道シリーズ』の主人公の親分という。ただ本格的に石川を扱った映画は本作が最初である。安藤昇は石川と同世代の人で、やはり同時期に安藤が渋谷、石川が新宿と隣接する街を根城にしていた筈なので、何かしら接触も考えられるが、安藤は「石川力夫?誰だ、そりゃ?名前も聞いたことないな。どうせ小物だろ」と話している。原作は藤田五郎の同名小説だが、物語の基盤程度にしか拝借していない。鴨井達比古が1974年6月から脚本を書き始めたが、材料不足で石川力夫が掴めず、深作欣二も「新仁義なき戦いシリーズ」撮影で忙しくて打ち合わせもなかなか出来ずに1974年12月半ばから、ようやく深作と吉田達プロデューサーを交えて初の打ち合わせ。ここで出来たのが改稿中途の第四稿として雑誌『シナリオ』1975年3月号に掲載されている。明けて1975年正月、松田寛夫と神波史男が投入され、深作と三人で杉並の旅館に放り込まれて作成した物が決定稿となる(松田、神波が手を入れた決定稿は公刊されていない)。この年の正月に深作は、石川力夫の生家など水戸で取材を重ねた。冒頭のイントロは水戸で取材した音声をそのまま使っているため、深作自身のセリフも入る。有名な女房の遺骨を齧る逸話は、石川の話ではなく、俳優・山本禮三郎の実話という。取材する時間も短く実録といってもかなりの部分はフィクションである。渡哲也の東映初出演、初主演は、1974年春の"東映のお家騒動"が関係している。"東映のお家騒動"とは、当時の東映・岡田茂社長が、1973年の『仁義なき戦い』が大ヒットすると、1970年代に入り興行成績が鈍っていた「任侠映画」を捨て「実録ヤクザ映画」に転換しようとし任侠映画を統括していた俊藤浩滋と対立、鶴田浩二や若山富三郎、高倉健ら、東映の看板スターを囲っていた俊藤が彼らを連れて東映から独立し東宝に移籍しようとした騒動を指す。この動きは岡田が配下の高岩淡らを使ってスター一人一人を説得し全員残留となり事態は一応の決着を見たが高倉プロの撤回を要求されていた高倉健は岡田と確執があって東映作品の出演を拒むようになっており、このため岡田が"ポスト高倉健"と名指しして東映に引き抜こうとしたのが渡哲也だった。『仁義の墓場』が公開された1975年は、岡田社長が「今年はわが陣営に引き込んだ渡哲也君の"渡路線"を確立することだ」とぶち上げる程の渡哲也に対する熱の入れ方だった。東映の仁侠映画は1960年代半ば、当時実質東映のゼネラルマネージャー的立場にあった岡田茂プロデューサーが、不振の続く時代劇からそのフォーマットを容易に転換できると発案、路線化し俊藤浩滋を統括的プロデューサーに任命することで大きな成功を収め一時代を築いた。しかし約10年の間に俊藤が東映京都撮影所を牛耳るようになった。俊藤は東映の社員ではない外部プロデューサーのため反撥する者も多かったが任侠映画の大成功で誰も逆らえず、また面倒見が良かったこともあって看板スターを囲っていた。渡哲也は日活がロマンポルノに転換した1971年に事実上フリーとなり、映画各社の間で激しい争奪戦が起こったが石原プロモーションへ入社した。しかしその後も各社勧誘は続き、弟の渡瀬恒彦をスカウトした岡田が長期間に渡り、秘かに渡と会って熱心に説得を続け、渡自身もアクション映画をやりたいと強く東映入りを希望したため1975年に渡は東映入りの報道もされた。1974年暮れ『脱獄広島殺人囚』、「新仁義なき戦いシリーズ」とも渡は出演要請を受けたが「体調が完全でない」と拒否し、1975年1月にクランクインしたのが本作となる。薄倖のヒロイン地恵子に扮し石川との究極の破滅愛を演じた多岐川裕美は、この前年東京駅前の喫茶店でバイトしているところをスカウトされデビュー、本作に抜擢された(聖獣学園#多岐川のスカウト)。この地恵子は自殺する一週間前に石川力夫と婚姻届が出されているが、石川力夫が届を出したのかは不明という。クランクインが1975年1月16日で、ここから約3週間で撮影を終えた。寒い時期で病み上がりの渡は、どんどん体調が悪化し後半は点滴を打ちながら撮影した。15メートルのダイビングシーンは春田純一が吹き替えており、当時では最も高い記録だった。この頃はエアーマット(衝撃吸収するためのセーフティーマット)がなく、体操で使うマットに段ボールを敷き詰めた状況のスタントであり。春田は「10代だったから恐れをしらないというか、何というか…」と振り返っている。俺が死ぬ時は カラスだけが泣く!2002年に『新・仁義の墓場』としてリメイク。監督:三池崇史、脚本:武知鎮典、主演:岸谷五朗。主人公は同じだが、時代設定は現代に置き換えられている。

出典:wikipedia

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