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中野昭慶

中野 昭慶(なかの てるよし、1935年10月9日 - )は、日本の特技監督。満州安東県(現:丹東市)出身。名前は音読みで「しょうけい」と呼ばれることもある。満州では、父親は南満州鉄道の関連会社の国際運輸に勤務しており、幼少の頃は非常に裕福な生活を送っており小学校は安東大和在満国民学校に通っていた。1945年(昭和20年)、日本敗戦のため愛媛県新居浜市に引揚げ。新居浜には小学校卒業までで過ごす。1948年(昭和23年)、月輪中学校入学とともに京都府京都市に移る。1955年(昭和30年)、京都市立日吉ヶ丘高等学校普通科を卒業と同時に日本大学芸術学部映画学科脚本コースに入学。1959年(昭和34年)、日本大学を卒業し、東宝砧撮影所に入社。1962年(昭和37年)、円谷英二に師事して、東宝特殊撮影技術班の助監督となる。1963年(昭和38年)、円谷に請われ、「円谷特技プロダクション」でTV特撮番組『WOO』の企画に参加する。1969年(昭和44年)、クレージーキャッツ主演の『クレージーの大爆発』で特技監督デビュー。1971年(昭和46年)、この年に東宝を退社した2代目特技監督の有川貞昌に代わって、東宝3代目の特技監督に就任。1970年代以降の東宝製作の特撮映画の特撮監督として活躍。「ゴジラシリーズ」や『日本沈没』等のパニック物、『連合艦隊』、『大日本帝国』等の戦争物、『火の鳥』をはじめとするファンタジー映画を演出。1981年(昭和56年)、この年からフリーの特技監督となり、東映の戦争三部作を演出。1984年(昭和59年)、約10年ぶりに復活したゴジラ映画、『ゴジラ』で、恐怖の存在としてのゴジラを演出。1985年(昭和60年)、金正日の招きで北朝鮮を訪れ、怪獣映画『プルガサリ』の特撮監督を務めた。以後、『竹取物語』まで映画の特技監督として活躍、その後はテーマパーク・博覧会関係の映像作品を多数手がけている。助監督志望で東宝に入社したが、いきなり「円谷組へ行け」と命じられての特撮の現場入りだった。当時危険のつきまとう特撮の現場は社内でも敬遠された部署だったという。「なんでもかんでも熱線でというのには抵抗があった」として、ゴジラを演出する際も肉体のぶつかり合いを重視したといい、この点では格闘よりも光線の応酬を重視する後輩の川北紘一と好対照を成している。1984年の『ゴジラ』でも、意識的に破壊を抑え、熱線もここぞというところで吐かせたと語っている。川北は中野について、「合成にあまり詳しくない」と述べていて、『ゴジラ対ヘドラ』や『ゴジラ対メカゴジラ』では、川北が数々の光学合成を担当し、演出を助けている。怪獣の演技に関しては、自らが殺陣をつけており、『ゴジラ対メガロ』では時代劇、『ゴジラ対メカゴジラ』では西部劇をイメージしたと語っている。怪獣の動きには美しさを見せるため、歌舞伎や能を参考にしたというが、1970年代のシリーズでは作劇上、ある程度擬人化せざるを得ず、悩みも多かったという。『ゴジラ対メカゴジラ』では、特撮の撮影初日に大遅刻した揚句、周りの緊張感をよそに何食わぬ顔で「本番スタート」の声をかけたというエピソードが残っている。火薬を多様・多量に利用した爆発映像から、「爆破の中野」の異名をうたう書籍もある。いかに美しい火焔を描くか工夫を重ねたとのことで、有鉛ガソリンの発火色が特に美しいとして、市場が無鉛ガソリンに移行したために、特撮に使用できなくなったことを惜しんでいる。『日本沈没』では、波のうねりを表現するためにスタジオ内の特撮プールの水にビールを混ぜ込んで粘りを加えたため、スタッフ全員が悪酔いしたという。やってみたい映画として、特撮を駆使した「2時間、3時間笑いっぱなしという」スラップスティック映画を撮ってみたいと語っている。インタビューなどでは温厚で誠実な受け答えで知られる。『マンガ少年別冊・特撮映像の素晴らしき世界』(1979年、朝日ソノラマ)で企画された「特撮マン座談会」では、自身が酷評されている研究書に敬服する姿勢を見せている。本人曰く「シネマスコープ大好きおじさん」だという。すべて東宝ビデオ発売。

出典:wikipedia

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