LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

涼月 (駆逐艦)

涼月(すずつき)は、日本海軍の駆逐艦。秋月型駆逐艦の3番艦である。太平洋戦争末期には涼月型という表記も見られた。艦名は片桐大自の研究によれば「さわやかに澄みきった秋の月」。凉月という表記も見られるが、公文書上「涼月」と命名されており「凉月」への改名や訂正の記録は存在しない。艦名はあきづき型護衛艦「すずつき」に継承された。1944年に魚雷により艦首を亡失した後、新造した艦首と艦橋を接合したが、この際に新造部分は原型の丸みを帯びた形状とは異なる直線的な形状となった。特に角ばったその艦橋は、就役した秋月型・冬月型・満月型で他に持つ艦がなく、未成に終わった清月以降の設計図によるものと考察されているが、晩年の涼月の外見上の大きな特徴となっている。また増備時期が明らかでないが、狭義の秋月型で唯一、艦橋左右に機銃台を設け25mm機銃3連装を装備し、最大で25mm機銃3連装を7基装備したと考えられている。この位置への機銃台は冬月型・満月型で後日増備されたものである。1939年(昭和14年)度第四次海軍軍備充実計画(マル4計画)による乙型一等駆逐艦の第106号艦。1941年(昭和16年)3月15日、三菱重工業長崎造船所で起工。1942年(昭和17年)1月20日、建造中の秋月型駆逐艦に涼月、夕雲型駆逐艦に高波の艦名が与えられた。同日附で「涼月」は秋月型に、「高波」は夕雲型に類別される。1942年(昭和17年)3月4日、進水。9月10日、陽炎型駆逐艦2番艦不知火駆逐艦長赤澤次壽雄中佐(同艦は7月5日グロウラーに雷撃され大破)は、涼月艤装員長に任命される。「涼月」は同年12月29日に竣工。佐世保鎮守府籍。同日附で秋月型2隻(涼月、初月)、夕雲型大波は警備駆逐艦に定められた。竣工後、横須賀鎮守府部隊に編入される。本艦は佐世保から横須賀に回航され、1943年(昭和18年)1月9日、横須賀着。機銃増設工事を行う。秋月型2隻(涼月、初月)は1月15日付で第三艦隊(司令長官小沢治三郎中将・海軍兵学校37期)に編入され、第十戦隊(司令官木村進少将・40期)・第61駆逐隊(前年10月7日編制、駆逐隊司令則満宰次大佐)に配属される。第61駆逐隊は秋月型1番艦秋月、2番艦照月の2隻で編成されていたが、「照月」は前年12月12日に第二水雷戦隊旗艦としてガダルカナル島輸送作戦従事中に沈没しており、涼月・初月の編入にともない第61駆逐隊から除籍されている。第61駆逐隊は秋月型3隻(秋月、涼月、初月)で編制されることになった。1月15日、横須賀を出発して呉に回航。航海中の1月16日未明、61駆(涼月、初月)は潮岬沖で浮上していたアメリカ潜水艦ハダック ("USS Haddock, SS-231") を発見するも逃げられた。1月19日、「秋月」が米潜水艦ノーチラス("USS Nautilus, SF-9/SS-168")の雷撃で大破、その際に木村司令官は負傷したため、1月21日附で第二水雷戦隊司令官小柳冨次少将が第十戦隊司令官に任命された。ひきつづき内地にあった「涼月」は、2月1日から15日まで呉海軍工廠において機銃増備などの工事を受ける。この間の2月3日、第61駆逐隊司令は則満大佐から大江覧治大佐(前職第19駆逐隊司令)に交代した。2月19日、第61駆逐隊(涼月、初月)はトラック泊地から佐世保へ回航中の艦隊(第三戦隊司令官栗田健男中将、金剛、榛名、日進、利根、時雨)を出迎えた。3月22日、駆逐艦4隻(第61駆逐隊《涼月、初月》、第15駆逐隊《陽炎》、第27駆逐隊《夕暮》)は、第二航空戦隊(司令官角田覚治中将・海兵39期)の空母2隻(隼鷹、飛鷹)、第八戦隊(司令官岸福治少将)の重巡洋艦2隻(利根、筑摩)を護衛して瀬戸内海を出撃し、3月27-28日にトラック諸島に到着。この頃、ソロモン諸島、ニューギニア方面への航空攻勢作戦である「い号作戦」の計画が進められており、パイロットはもちろんのこと、整備員など航空要員をラバウルに輸送する必要があった。4月2日、「初月」とともにラバウルへの航空要員輸送のためトラックを出撃。4月4日にラバウルに到着後直ちに出港、4月6日にトラックに帰投した。4月中旬から5月中旬にかけては、トラックに出入りする艦船への護衛任務につく。5月12日、連合軍はアリューシャン列島のアッツ島に上陸を敢行、アッツ島の戦いが始まった。連合艦隊は主戦力を東京湾に集結し北方作戦に備えることを決定。前連合艦隊長官山本五十六大将(元帥、海兵32期)の遺骨(4月18日海軍甲事件で戦死)内地帰還を兼ねて、大和型戦艦2番艦武蔵(古賀峯一連合艦隊長官座乗)がトラック泊地より内地へ帰ることになる。5月17日、駆逐艦5隻(第61駆逐隊《涼月、初月》、第24駆逐隊《海風》、第27駆逐隊《時雨、有明》)は戦艦3隻(武蔵、金剛、榛名)、空母飛鷹、重巡2隻(利根、筑摩)を護衛してトラック泊地を出発。5月22日、横須賀帰着(武蔵のみ木更津冲入泊)。6月上旬、本艦は西日本へ移動し、6月19日から5日間、呉で入渠。6月21日、第十戦隊司令官は小柳少将から大杉守一少将に交代。6月30日、内地回航中に船体断裂に見舞われた「秋月」は長期修理を余儀なくされて第61駆逐隊から除籍(7月5日長崎到着)、同隊は秋月型2隻(涼月、初月)となった。7月8-9日、南海第四守備隊を各艦に便乗させ、空母4隻(瑞鶴、翔鶴、瑞鳳、冲鷹)、水上機母艦日進、重巡洋艦3隻(利根、筑摩、最上)、軽巡洋艦2隻(大淀、阿賀野)、駆逐艦部隊(第4駆逐隊《嵐、萩風》、第17駆逐隊《磯風》、第61駆逐隊《涼月、初月》、夕雲型駆逐艦《玉波》)は日本本土を出発した。暗号解読や僚艦からの通報により、2隻の米潜水艦ティノサ("USS Tinosa, SS-283")とポーギー ("USS Pogy, SS-266")がトラック諸島近海で小沢機動部隊を待ち伏せていた。ティノサは距離3500mで魚雷4本を発射するが回避され、小沢艦隊は被害なくトラック泊地に到着した。 トラック着後、第61駆逐隊は機動部隊第一部隊の指揮下に入る。7月19日、第61駆逐隊(涼月、初月)は第八戦隊(利根、筑摩)、第十戦隊旗艦阿賀野、巡洋艦2隻(最上、大淀)、第4駆逐隊(嵐、萩風)、第17駆逐隊(磯風)と共にトラックを出撃。ラバウル到着後、61駆(涼月、初月)は十戦隊から分離、7月22日にブカ島に到着する。輸送任務を成功させ、26日にトラック泊地へ戻った。なおブーゲンビル島へ向かった日進隊(日進、萩風〔第十戦隊旗艦〕、嵐、磯風)の分隊はアメリカ軍機の空襲を受け、日進は撃沈された。その後、7月時下旬から9月上旬にかけてはトラックとラバウル、クェゼリン環礁との間で輸送任務に従事しつつ、タンカーや香取型練習巡洋艦2番艦「鹿島」などの護衛も行った。8月15日、第61駆逐隊に秋月型6番艦「若月」が編入され、3隻編制(涼月、初月、若月)となった。「若月」は第二水雷戦隊や第十戦隊僚艦(秋雲、夕雲、天津風、初風)と共に主力艦部隊(大和、長門、扶桑、愛宕、高雄)等を護衛して8月23日トラック泊地着。秋月型3隻を揃えた第61駆逐隊は、9月と10月、機動部隊に随伴してマーシャル諸島方面へ出撃したが、会敵の機会がなかった。10月31日、修理を終えた「秋月」が第61駆逐隊に復帰、同隊はようやく秋月型4隻編制となった。11月10日、ラバウルからトラックに向かっていた輸送船団がアメリカの潜水艦スキャンプ ("USS Scamp, SS-277") の魚雷攻撃を受け、輸送船東京丸(摂津商船、6,484トン)が沈没の危機に瀕したとの報を受け、初月とともにトラックを出撃した。現場に到着して東京丸の援護にあたったものの、同船は浸水がひどくなって11月12日に沈没した。東京丸の沈没に先立つ同じ11月12日の朝、スキャンプは11月5日のラバウル空襲で損傷を受けトラックに戻る途中の十戦隊旗艦「阿賀野」に魚雷を命中させて航行不能に陥らせた。東京丸の援護を終えて間もなく「涼月」は阿賀野・浦風の救援に駆けつけ、軽巡2隻(能代、長良)、護衛駆逐艦(涼月、初月、浦風、藤波、早波)という戦力で阿賀野をトラックまで護衛した。12月1日、姉妹艦の「秋月」がトラック泊地に到着する。12月3日、阿賀野損傷時に負傷した大杉司令官は退任、木村進少将(初代第十戦隊司令官)が再び第十戦隊司令官職に就いた。12月7日、重永主計大佐(重巡筑摩艦長)指揮のもと、61駆(涼月、初月)は大型艦2隻(瑞鶴、筑摩)を護衛してトラックを出港し、12月12日に呉に到着、第61駆逐隊は再び分散した。12月12日、第61駆逐隊司令は大江大佐から泊満義大佐に交代した(大江大佐は12月26日附で重巡洋艦摩耶艦長)。修理後の12月23日、第61駆逐隊(涼月、初月)はウェーク島に送られる独立混成第5連隊と戦車第16連隊主力を乗せた特設巡洋艦赤城丸(日本郵船、7,389トン)を護衛して呉を出撃し、1944年(昭和19年)1月1日にウェーク島に到着した。第一回輸送を終えて1月9日に呉へ帰投。1月10日附で涼月駆逐艦長は赤澤次壽雄大佐から瀬尾昇中佐(太平洋戦争開戦時の駆逐艦「時雨」艦長)に交代。今度は砲兵大隊と工兵隊、衛生隊を赤城丸に乗せて1月15日に呉を出撃した。しかし、翌1月16日10時45分ごろにの沖の島西方海上に差し掛かったところでアメリカの潜水艦スタージョン ("USS Sturgeon, SS-187") の魚雷攻撃を受けた。スタージョンは艦首発射管から魚雷を4本発射し、4つの命中音を確認した。魚雷は「涼月」の前部と後部に1本ずつ命中し、火薬庫を誘爆させて前部は煙突より前方約34メートルを亡失、後部は118番フレームより後約46メートルを亡失した。田口正一大佐(初月艦長)は涼月轟沈と思ったほどである。泊61駆逐隊司令、瀬尾駆逐艦長以下121名(89名は便乗中陸軍兵)が戦死。生存者の中で最上級者は掌機長の機関特務中尉だった。罐室と機械室だけとなった「涼月」は「初月」に曳航されて退避を開始。宿毛湾に到着後、電纜敷設艇釣島と特設掃海艇第六玉丸(西大洋漁業、275トン)の協力を得て、1月18日に呉へ帰投した。調査した造船士官は、艦橋下方後部寄りの第一缶室の隔壁が設計通りの強度を示したため沈没を免れたと述べている。1月19日から呉海軍工廠において復旧工事が行われた(8月3日まで)。この復旧に際し、外見上の特徴となる直線形状の艦首、角ばった艦橋を持った。涼月大破時に戦死した泊司令の後任第61駆逐隊司令として、3月20日附で天野重隆大佐(前職第10駆逐隊《秋雲、風雲、朝雲》司令)が任命され、後任の第10駆逐隊司令は赤澤大佐(涼月初代艦長)となった。7月7日附で天野61駆司令は一時的に涼月艦長を兼務。7月10日、涼月駆逐艦長として杉谷永秀中佐(陽炎型駆逐艦3番艦「黒潮」沈没時艦長)とする人事が発令。戦列復帰後の「涼月」は瀬戸内海で訓練を行う。ところが、61駆2隻(涼月、若月)は第三艦隊(司令長官小沢治三郎中将)より、大分から台湾の基隆への輸送作戦(艦載機基地用物件および人員)を命じられる。台湾沖航空戦の最中であり、また悪天候の豊後水道を夜間通過することになるため、涼月幹部達は小沢艦隊司令部に猛抗議したものの却下された。10月16日22時10分、の都井岬沖でアメリカの潜水艦ベスゴ ("USS Besugo, SS-321") の雷撃に遭った。ベスゴは浮上攻撃にて「ジグザグ航行をしている2隻の重巡洋艦」に対して艦首発射管から魚雷を6本発射、2分後、「重巡洋艦」の艦橋前に命中の水柱が立つのを見た。涼月側は電波探知機(逆探)でベスゴのレーダーを探知していたが、悪天候のため雷跡を発見するのが遅れたのである。この攻撃で艦首と一番砲塔下左舷に魚雷が命中し、艦首部は18番フレームから前を切断、一番砲塔下に命中した魚雷は不発だったが船体に亀裂を生じさせた。戦死者2名。「涼月」は九州沿岸沿いに北上して呉に退避する。10月17日から11月11日まで呉海軍工廠で修理を受けた。この頃、秋月型8番艦「冬月」もアメリカの潜水艦トレパン ("USS Trepang, SS-412")の雷撃で艦首を喪失しており、秋月型2隻(涼月、冬月)は並んで修理を受けた。修理中の10月24-26日に起きたレイテ沖海戦で日本海軍は大敗、第61駆逐隊では小沢機動部隊に所属していた2隻(秋月、初月)が沈没し、天野駆逐隊司令も戦死した。11月8日、秋月型2隻(涼月、霜月)は第四航空戦隊(司令官松田千秋少将)の航空戦艦2隻(日向、伊勢)と共にシンガポール~リンガ泊地へ進出予定であったが、出撃直前に本艦の新造艦首部分で浸水事故が発生、出撃機会を逸した。その後、「霜月」は11月25日にボルネオ島方面で米潜水艦に撃沈された。11月15日附で第61駆逐隊は解隊され、「涼月」と「若月」(多号作戦に参加して11月11日沈没、書類上在籍)は第41駆逐隊(冬月、霜月)に編入された。駆逐隊司令脇田喜一郎大佐。だが、「霜月」も11月25日に米潜水艦カヴァラ ("USS Cavalla, SS-244") の雷撃で撃沈され(前述)、第三十一戦隊司令官江戸兵太郎少将戦死、脇田駆逐隊司令も戦死した。第41駆逐隊は秋月型2隻(涼月、冬月)で行動することになった。なお同日附で第十戦隊も解隊されており、第17駆逐隊や第41駆逐隊等の残存部隊は以降第二水雷戦隊(司令官不在)に編入された。上記のように被雷と損傷修理のため、秋月型2隻(涼月、冬月)はマリアナ沖海戦とレイテ沖海戦には参加できなかった。また、多号作戦支援部隊に編入されていたが、実際に作戦には投入されなかった。11月23日、駆逐艦3隻(秋月型《涼月、冬月》、松型駆逐艦《槇》)はマニラ方面への緊急輸送作戦に参加する隼鷹型航空母艦1番艦「隼鷹」を護衛して呉を出撃。11月30日にマニラに到着して軍需品を陸揚げする。12月3日、馬公に到着して日本に戻る金剛型戦艦3番艦「榛名」と合流する。同艦はシンガポールで座礁し艦底に損傷を受けた状態であった。12月6日、馬公を出港して日本本土に向かう。12月9日未明の佐世保に入港直前、部隊は野母崎沖でアメリカ潜水艦のウルフパックに発見される。涼月側は敵潜水艦の待ち伏せが懸念される男女群島東方海面の黎明前航行を避けるよう「榛名」に意見具申したが、無視されていた。直後、「隼鷹」はレッドフィッシュ ("USS Redfish, SS-395") の魚雷が2本命中して中破、続いて「槇」がシーデビル ("USS Seadevil, SS-400") かプライス ("USS Plaice, SS-390") の雷撃により損傷した。この輸送作戦の際、冬月ともども荒天に見舞われた際に船体にシワが発生した。呉に帰投後、12月27日まで呉海軍工廠で修理が行われ、修理完了後は瀬戸内海で訓練を行った。1945年(昭和20年)はじめもしくは1944年末ごろ、艦橋左右に機銃台を増設し25mm3連装機銃2基を増備した(合計7基)。また前マスト上の21号電探を撤去し、跡に22号電探1基・13号電探1基を設置(13号電探は合計2基)。1945年(昭和20年)2月20日、第41駆逐隊は北号作戦で日本に戻ってきた第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将(海兵45期)以下の第二水雷戦隊司令部の指揮下に正式に入った 。3月1日、第41駆逐隊司令として夕雲型3番艦「風雲」初代艦長等を歴任した吉田正義大佐が着任。3月10日附で杉谷大佐(涼月艦長)は第52駆逐隊司令へ転任、新艦長として平山敏夫中佐(夕雲型駆逐艦早霜沈没時艦長等)が着任した。原田(涼月)機関長は駆逐艦朝霜機関長からの転勤だった。3月19日の呉軍港空襲では、広島湾にて戦艦大和の護衛についた。3月29日、海上特攻隊(指揮官伊藤整一第二艦隊司令長官/海軍中将・海兵39期)とともに三田尻沖に移動した。敵水上艦隊との戦闘が行われる場合、第41駆逐隊(冬月、涼月)は第一遊撃部隊(1YB)第一部隊(1NB)となり、大和の直衛艦として行動する予定だった。4月6日15時、海上特攻隊(第一遊撃部隊)は第二艦隊長官伊藤整一中将指揮下、第一航空戦隊(大和)、第二水雷戦隊〔軽巡《矢矧》、第17駆逐隊《磯風、雪風、浜風》、第21駆逐隊《朝霜、霞、初霜》、第41駆逐隊《冬月、涼月》)という戦力で徳山を出撃。19時50分からの第一警戒航行序列では、本艦は「大和」(旗艦)の右側を占位し、翌4月7日6時に第三警戒航行序列に切り替わってからは「大和」の左後方に位置した。午前中、夕雲型16番艦「朝霜」(第21駆逐隊司令小滝久雄大佐座乗)が機関故障により落伍。12時30分前後にアメリカ軍機に襲撃されて沈没した。「涼月」からは「朝霜」のマストだけが見えていたという。12時32分、アメリカ第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)からの艦載機の第一波がやってくる。度重なる転舵で輪形陣が崩れる中、「涼月」は「大和」の左舷後方に位置して掩護を続けた。第一波の空襲が終わりに近づいてきた13時8分(涼月艦橋の電気時計の停止時間。実際の被弾時間は不明)、空母エセックス ("USS Essex, CV-9") のSB2C「ヘルダイバー」4機から投じられた150キロ爆弾のうち一発が艦橋前に命中して船首楼甲板、上甲板、右舷側外板に大破口が生じ、他の二発が後方への至近弾となった。命中弾により火災が発生し、海図も方面違いの5枚を残して全て焼失、通信装置を失い、ジャイロコンパスも破損した。一番砲塔、二番砲塔も大破し、弾薬庫は一番砲塔のもの以外は全て浸水した。艦内電源が断たれたため消火活動を開始するまでに時間がかかり、二番砲塔の誘爆を招いてしまったという。冬月は13時15分に『涼月火災中ナルヲ認ム』と記録している。この時点で第一罐室が浸水放棄されたが機関部人員に被害はなく、第二罐室による20ノットが発揮可能だった。操舵装置の破壊と速力指示機の故障により「涼月」は右旋回を続けていたが、このとき、「大和」が左舷に回頭したため、2隻は50m程まで接近した。涼月側は後進をかけ、衝突は直前で回避されている。「涼月」からは「大和」に舵故障の旗流信号(D旗)が上がっているのが見られた。13時30分頃よりアメリカ軍機動部隊艦載機の第二波攻撃がはじまった。アメリカ軍攻撃隊の報告によれば、当時の第二艦隊は健在の大和直衛群(大和、冬月、初霜、雪風、霞)、航行不能の「矢矧」(第二水雷戦隊旗艦)および救援の「磯風」(第17駆逐隊司令駆逐艦)に分離し、その間に軽巡洋艦1隻が航行していた。これは、「涼月」を軽巡洋艦と誤認したものとみられる。この攻撃で大和・矢矧が沈没、損傷を受けた「磯風」は自力で北方へむかった。涼月戦闘続行不能と判断した平山(涼月艦長)は、大和沈没後の14時30分頃から単艦で帰投開始。通信装置は破損しており、作戦中止命令は受信できなかった。「涼月」は被弾により艦首が沈下(前方傾斜10度)、中央部も海面から甲板まで数十㎝という状態で前進すると船体が潜ってしまう状態だった。そこで機関長は「後進強速黒二〇(後進強速の回転数に20回転プラス)」の紙を機械室や罐室にはりつけた。9ノットの速力を安定して発揮。この時、空母イントレピッド ("USS Intrepid, CV-11") のTBF「アヴェンジャー」が魚雷を放ってきたものの、命中しなかった。海図焼失、コンパス破損の状況ながらも涼月は日本本土を目指した。その際、涼月側では大和沈没直後に『たまたま近づいてきた駆逐艦』に手旗信号で方向を教えてもらい、北東へ針路をとったとしているが、酒匂(初霜艦長)の回想では初霜が「涼月」の後方について針路を指示したとなっている。14時55分に「右舷至近弾大破火災 目下消火中」と打電したものの、火災が一晩中鎮火しなかった為、アメリカ潜水艦に発見されることを誰もが恐れていたという。実際に雷撃されたが、艦尾前方を通過していったという回想も残されている。15時15分には駆逐艦「初霜」に対して突入作戦が続行中かどうか信号で交信したが、「不明」との返事をもらう。次いで15時25分には「冬月」に対して二軸運転で航行可能な旨を報じた。17時30分、「涼月」は洋上に停止して応急修理を行う「磯風」と遭遇した。同時刻、軽巡「矢矧」沈没後、「初霜」に救助されていた第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将は、「初霜」を二水戦旗艦として遊撃部隊の指揮を吉田正義大佐(第41駆逐隊司令、冬月座乗)から継承した。初霜(二水戦司令部)は「磯風」の曳航準備を進める陽炎型8番艦「雪風」(第17駆逐隊)に対し、磯風処分を下令した。第17駆逐隊および「雪風」の磯風曳航の意見具申を二水戦司令部(初霜)は却下し、「磯風」は「雪風」に処分された。また二水戦司令部(初霜)は「冬月」に対しても『涼月ヲ護衛シ至急佐世保ニ回航セヨ』と命ずるが、同時に『状況ニ依リテハ涼月ヲ処分シテ差支ナシ』とも通達している。日没後、「涼月」を護衛もしくは処分するため「冬月」が捜索を開始したが、見つけることは出来ず、すでに先行していると推定された。4月8日朝、「冬月」は各隊に単独帰投中の「涼月」の掩護を要請した。9時32分、指宿航空隊機により、佐多岬の262度140海里の地点を北上しているのが発見される。昼前には1隻の漁船から「われ貴艦の側方を護衛する」と手旗信号をおくられ、涼月乗組員一同を苦笑させた。14時30分、ついに佐世保に帰投する。帰着が遅く、すでに沈没してしまったと思われていたが、突然の帰還に佐世保海軍工廠はサイレンを鳴らして歓迎した。しかし佐世保入港時に後進から前進に切り換えたことで浸水が進行、係留中にも浸水が止まらなかったので大急ぎでタグボートを手配されて18時30分に第七船渠に収容することができたが、排水を待ちきれず第七船渠内で着座してしまった。大破した前方区画のうち、前部弾薬庫は区画内部から防水処置がされたため沈没を免れる。自らの脱出口を絶ってまで気密を保つ作業を行った3名の乗員は、後に酸欠死している状態で発見された。また涼月砲術長によれば、3名のうち江藤虎蔵(二等主計兵曹)は短刀で自決していたという。本海戦において涼月は戦死者57名、負傷者34名を出した。本艦の修理に必要な期間は約3ヶ月と算出された。5月5日完成を目標に、停泊に差し支えない程度のものが行われ、次いで本修理の施工に関しては昭和20年度中には実施しない事が決まった。破口はそのままに角材で補強され、一番砲塔と二番砲塔、機銃を撤去。6月10日に佐世保を出発、後部砲塔二基のみ砲側照準で射撃可能な状態となって相浦に係留された。岸まで板桟橋を渡し、機関に火は入れず陸上より給電を行った。この頃、坊ノ岬沖海戦被弾時に焼失した涼月神社(艦内神社)を再建するため、若手士官を伊勢神宮に派遣して御神体を拝領した。7月5日附で、「涼月」は第41駆逐隊から除かれた。同日附で第四予備艦となった。当時の乗組員は約100名ほどで、農耕隊と漁撈隊を編制すると、開墾や、貰い受けた漁船を活用して食糧調達を行う。その間の7月と8月に対空戦闘を行い、うち8月の対空戦闘でP-51「ムスタング」1機を高射砲で撃墜した。11月20日、除籍。戦後は損傷のため復員輸送艦としては使用されず、1948年(昭和23年)4月から5月にかけて旧佐世保海軍工廠の佐世保船舶工業で解体。船体は駆逐艦冬月、柳(桃型駆逐艦)とともに福岡県北九州市若松区若松港の防波堤として利用された。現地では軍艦防波堤と呼ばれ親しまれたが、その後完全に埋められた。現在は響灘臨海工業団地内の若松運河出口付近に、柳(初代)の船体の一部と案内板を見ることができる。一方、冬月と涼月の船体は暫くの間内部に入ったりすることが可能であったが、現在は完全に埋めたてられ確認することはできない。「涼月」は戦争を通じて三度の被害にあったがいずれも生還し、秋月型駆逐艦の中で一番の長命であった。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。