三都主 アレサンドロ(さんとす アレサンドロ、Santos Alessandro, 1977年7月20日 - )は、ブラジル・パラナ州マリンガ出身のサッカー選手。元日本代表でキャップ数82は歴代6位。2001年11月12日、日本国に帰化し現在はブラジルと二重国籍。帰化以前の本名はアレサンドロ・ドス・サントス (Alessandro dos Santos) 、当時の登録名はアレックス (Alex) 。利き足は左。ポジションは左ウィングバック、攻撃的MFとしての出場のほか、清水在籍時にはフォワード、名古屋加入以後はセンターハーフ、日本代表では左サイドバックでも出場した。16歳のときにサッカー留学生として日本の明徳義塾高校に入学し、97年に清水に入団し、99年に史上最年少の22歳でJリーグ年間最優秀選手賞を受賞した。04年に浦和に移籍し、07年にはオーストリアのレッドブル・ザルツブルクでプレー。08年に日本に復帰し、浦和、名古屋、岐阜、栃木に在籍。15年にブラジルへ戻り、などでプレーした。2001年に日本国籍取得後、2002年から2006年までサッカー日本代表に招集されて82試合出場7得点。FIFAワールドカップに2回(2002年日韓大会、2006年ドイツ大会)出場、2004年アジアカップに優勝した。ブラジルのパラナ州マリンガにてプロサッカー選手ウイルソン・ドス・サントスの長男アレサンドロ・ドス・サントスとして生まれる。10歳から父親も在籍したの少年チームで育ち、16歳のときには既にプロデビューを果たす。1998年8月、留学生獲得のためブラジルを訪れていた明徳義塾高校サッカー部の北村保夫部長とジョゼ・カルロス監督に練習試合でのプレーを高く評価され、1994年6月に明徳義塾高校に入学。同校には三都主を含め4名の留学生が一緒に入学した。高校時代は一度も県予選を突破できず全国大会には無縁だったため、ほとんど無名の存在だった。ポジションはブラジル時代はディフェンダー(センターバック)だったが、明徳在学中に徐々に前の方へと移っていった。明徳義塾高校卒業後、監督が清水エスパルスのスカウトと知り合いだったこともあり、清水の練習に練習生として参加し、契約を勝ち取る。1997年に正式入団、持ち前のドリブルで左サイドのスペシャリストとして頭角を現す。「アレックス」という登録名は当時の清水の監督オズワルド・アルディレスによって付けられた。入団当時、清水にはサントス、オリバ、マーク・ボウエンと3人の外国籍選手がおり、三都主は第4の選手とみなされていた。しかし他の選手に故障が相次いだこともあり1年目からリーグ戦27試合に出場した。体力不足もあって1年目のリーグ戦フル出場は1試合のみにとどまった。1997年5月28日の1stステージ第11節アビスパ福岡戦では、自陣からドリブルで約70メートルを突破して初ゴールを決めた。清水加入当初は色々なポジションで起用されていたが、1999年に左アウトサイドに定着。清水はこの年に2ndステージで優勝、また年間勝ち点では2位以下に大きく差を付けて1位となった。この年に大きくブレイクした三都主は清水躍進の原動力となり、史上最年少の22歳でJリーグ最優秀選手賞を受賞した。1999年12月11日に行われたジュビロ磐田とのチャンピオンシップ第2戦では、相手選手を蹴りつけて35分に退場を命じられた。チームは奮闘したものの最終的にPK戦で磐田に敗れた。清水の監督スティーブ・ペリマンは「11人で戦っていれば勝っていた」と試合後に振り返った。また、アジアカップウィナーズカップ1999-2000、第81回天皇杯優勝にも貢献した。セレッソ大阪との天皇杯決勝で三都主は1得点1アシストし、3-2の勝利に貢献した。2001年9月3日に開催されたJOMO CUPでは、ワールド・ドリームス(外国籍選手選抜)のキャプテンマークを巻いた。清水在籍最終シーズンとなった2003年にはチームキャプテンを務めた2000年シーズン終了後にはギリシャのパナシナイコスFCからオファーを受けていたが、契約には至らなかった。2002年8月、プレミアリーグのチャールトンに移籍金350万ドル(約4億2000万円。または4億5000万円)、5年契約で加入合意が伝えられたが、イギリス政府から労働許可証が発行されなかったため白紙になった。2004年1月、清水エスパルスから浦和レッドダイヤモンズに完全移籍。移籍金は1997年に横浜フリューゲルスからヴェルディ川崎に移籍した前園真聖を超えて、当時の国内最高額となる推定3億8000万円(または3億5000万円)だった。浦和では2004年のJ1 2ndステージ、2006年のJ1、2005年度と2006年度の天皇杯に優勝した。2007年1月30日から1年間、浦和からの期限付き移籍によりオーストリア・ブンデスリーガに所属するレッドブル・ザルツブルクでプレーした。ザルツブルクでは加入した2006-07シーズンにリーグ優勝を経験。2007-08シーズン前半まで在籍し、リーグ戦通算11試合に出場した。移籍時には完全移籍や契約延長のオプション契約も含まれていたが、ザルツブルク側はそれらを行使しなかった。2008年1月、期限付き移籍期間満了により浦和レッドダイヤモンズに復帰。2008年Jリーグ開幕前の練習試合で左足付け根に全治3ヶ月の怪我を負う。第14節の柏レイソル戦にて復帰するが、出場わずか15分で怪我を再発。全治6ヶ月の重傷と診断を受け、同年の公式戦出場はこの1試合のみとなった。2009年、浦和の新監督にフォルカー・フィンケが就任。三都主は負傷の回復が遅れた上に、フィンケの若手選手重用により出場機会が激減。先発出場は8月までに2試合のみにとどまっていた。ドラガン・ストイコビッチ監督のラブコールを受け、2009年8月3日に名古屋グランパスへの完全移籍が発表された。8月15日の川崎フロンターレ戦に左サイドバックとしてフル出場したのが名古屋でのデビュー戦となった。名古屋では左サイドやセントラルのミッドフィールダーとしても出場。名古屋がJ1リーグで優勝した2010年シーズンは、左サイドバックおよびアンカーをこなす貴重なバックアッパーとして25試合(先発は11試合)に起用された。2012年シーズンをもって契約満了となり、クラブを退団した。2012年12月には合同トライアウトに参加。2013年1月にJ2の栃木SCに完全移籍で加入。シーズン終了をもって栃木との契約が満了した。2014年、J2のFC岐阜に完全移籍。18試合に出場し2得点を挙げたが、2015年1月、契約満了による退団が発表された。2015年2月、日本を離れて地元ブラジルのパラナ州選手権1部・へ移籍。妻や子供をつれてブラジルの両親の元に戻り、日本での生活に終止符をうった。同年3月29日に行われたJ・マルセーリ・フチボウ戦で移籍後初ゴールを挙げた。同クラブでは6月までプレーした。2015年8月に古巣であるパラナ州選手権3部の加入が発表され、同年10月まで3ヶ月間プレーした。2001年11月に日本への帰化申請が認められると、フィリップ・トルシエによって日本代表に招集され、2002年3月のウクライナとの親善試合で代表デビューを果たす。2002 FIFAワールドカップの日本代表にも選出された。同大会のグループリーグでは初戦のベルギー戦に途中出場。さらに決勝トーナメント1回戦のトルコ戦では、トルシエ監督の奇策により変則の左ウイングで先発出場すると、惜しくもクロスバー直撃のフリーキックを放つなどしたが、1点をリードされる展開にトルシエ監督がメンバーやフォーメーションを従来の形に戻したため、前半のみで交代となった。2002年W杯後に就任したジーコからも招集され続けたが、当初は中村俊輔ら攻撃的MFの控えであった。しかし、2003年6月に日本代表がアルゼンチンに0-4の大敗を喫し、それまで左サイドバックだった服部年宏がレギュラー落ちした為、後任の左サイドバックに抜擢。レギュラーとなり、3バック採用時は左サイドハーフとして、2006年W杯の最終戦まで約3年間スタメン出場を続けた。しかし、4バックの慣れない守備に追われ、サイドバックとしては難がある守備力を露呈することもあった。一方で、後に日本代表監督を務めるイビチャ・オシム(当時ジェフ千葉監督)は「(ドイツ)W杯のクロアチア、オーストラリア戦を見たがアレックスが一番いいDFだったのではないか。左利きは数少ない上にアレックスより優れた選手は何人いるでしょうか」と攻撃面を評価した。2006年W杯後のオシムジャパンでは、DFではなく本来の左アウトサイドのMFとして起用され、攻撃に比重を置いたプレーが許されたこともあり、オシムジャパンのゴール第1号・第2号を記録し、アシストも多く記録した。代表としての招集期間はわずか5年と決して長くはないが、最終的には当時歴代4位となる82まで代表キャップ数を伸ばした。2001年3月に日本への帰化を申請、2001年11月12日に帰化申請が認められ、日本名「三都主アレサンドロ」を届け出ている。「三都主」は、自身にとって思い出深い「ブラジル・高知・清水」の三つの都市を意味している。2003年12月に日本人と結婚。2005年9月に第1子(長男)誕生。父親のウイルソンは主に右サイドバックまたはセンターバックの選手として、グレミオ・マリンガ、ゴイアスなど6つのクラブで14年間プレーし、1977年にはグレミオ・マリンガでパラナ州選手権優勝の経験もある。1983年に引退した後は繊維工場で運転手として働いた。353||67||36||4||50||10||439||8143||4||colspan=2|-||2||0||45||420||1||colspan="2"|-||colspan="2"|-||20||1416||72||36||4||52||10||504||86その他の公式戦|2002-03||清水||8||5||3!通算!!colspan="2"|AFCその他の国際公式戦|2002||9||1!通算
出典:wikipedia
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