北野 誠(きたの まこと、1959年1月25日 - )は、日本のお笑いタレント。大阪府大阪市城東区(現・鶴見区)出身。松竹芸能所属。旧芸名は誠、MAKOTO。実家は農業を営んでいる。姉が1人。幼少時から病弱だった北野は腎盂炎を患い血尿が出る度に暗澹となり、健康面での不安から安静を余儀なくされ幼稚園を中退。小学校でも運動を止められていて体育の授業は座って見ているだけの生徒であった。内向的で大人しくウルトラQ・ウルトラマン・サンダーバード・モデルガン・飛行機のプラモデル・ミニカーに夢中な子供であった。小学校低学年頃から徐々に快方に向かい、小学校4年生の時に教師の指名で学級委員長に就任。病弱な頃とは一転して快活で明るい性格になり、剣道・野球・水泳とスポーツに熱中。その後、児童会の副会長・会長を務める。父親が日本万国博覧会開催による畑の一部の土地買い上げをきっかけに不動産売買の会社を起業。北野家の生活も裕福になるも、父親との折り合いはあまり良いものではなく、思春期には母屋から飛び出し離れで暮らすようになる。中学校3年生の高校受験勉強時、「ABCヤングリクエスト」のコーナー「ABCミッドナイト寄席」に夢中となり、全校生徒を前に登場人物を教師の形態模写に代えた「狸賽」を披露して爆笑を取り、落語家を目指す事を決意。後に「あの頃がお笑いとしてのピークだった」と述懐している。大阪市立高等学校時代に落語研究会へ入会。笑福亭仁鶴の「ヒットでヒット バチョンといこう!」(ラジオ大阪)の「バチョン落語大学」で「青菜」を演じ、番組内で「真打ち」とバチョンバッグを獲得する。京都産業大学では経営学部に入学し、落語サークル「落語長屋」に入会するも、体育会系の雰囲気で上下関係が厳しく、自由な落語を演じられなかった上に九州出身の先輩部員に大阪弁の発音を貶されたことに立腹し、退会。それから一年あまり、無為の日々を過ごす。大学卒業間際になっても将来の展望が無かった北野は「流氷を見に行こう」と友人と北海道一周の自転車旅行に出る。この旅の中で、自分が就職活動をしてサラリーマンになる事も家業を継ぐ事も出来ない事を自覚。大学在籍中の漫才ブームの真っ只中、紳助竜介の漫才に感銘を受けて高校の同級生3人で客の注目を集め実績を作りプロになる手がかりになればと、「土着民SMショー」なるトリオを結成。イベント情報誌に出演をお願いする電話をかけまくり、どんな舞台でも立てるようにギター片手に音楽とコントの両形式でライブハウスでも活動。この時期、偶然ライブを見た城達也にライブのお笑い要素を褒められたことが大いに自信になるが音楽要素に関する称賛はなかった。後にメンバーが一人抜け、「誠&がっしゃん」と名を改め東野博昭がボケ、北野がツッコミの漫才コンビを結成。「ABCヤングプラザ」(朝日放送)の素人参加企画に出演した際に楽屋で島田紳助にプロ入りを勧められ、「素人お笑い選手権」(フジテレビ 1980年)で準優勝し、プロ入りを決意。「お笑いスター誕生!!」(日本テレビ 1981年)に出演し3週目で落選。この頃の漫才ネタはツッパリ漫才やTV番組をネタにしたものでラジオのレポーターなども務める。プロ転向の際、母から反対され親類からは不安定な仕事より高収入で安定している銀行への就職を勧められるも、父から3年間の期限付きの許しが出て大学卒業後に芸能界入りする事を決心。しかし、漫才コンビでの将来性と薄給を不安視した東野は教員を目指すべく北野に脱退を申し入れてコンビを解散し、ピン芸人となる(なお東野はのちに構成作家となる)。1980年当時の上方芸能において「タレント」や「芸人」になるには師匠となる芸人に師事し、門下生となり、付き人をしながら芸を学習する徒弟制度が通例であったが、学生タレントとして二足の草鞋を履いていた北野は弟子入りの機会を逸する。弟子入り先を求めて吉本興業所属の前田五郎の下に出向くも、応対に出た弟子の柄が悪かったため、入門してしまうと「先輩後輩」の関係になる事を懸念し、断念。その後松竹芸能に養成所がある事に気づき、仕事さえ取れれば直ぐに活動が出来る利点がある事から松竹芸能を選択。コンビ解散後は、「MAKOTO」の芸名で関西ローカルで活動。加入時は吉本興業が絶大な人気を誇っており、当時の松竹芸能の社風とその所属芸人独特の雰囲気に加え、角座(旧)では古参、中堅、新人が一つの楽屋を使用、特定の師匠の指導を受けずに活動をするタレントは皆無に等しく、そのために業界の慣例が分からずに肩身の狭い思いをしたりといった苦労に見舞われ、壁には昔の芸人が書いたものと思われる「シャブ打ちたい」という落書きを見て不安に駆られる。事務所独特の「居心地の良い閉塞感」から自分なりに脱却しようと桂小春、笑福亭小つる(現、桂小春団治、笑福亭枝鶴)ら3人でジャンルを無視したユニット「ギャグ性感隊」を結成。年一回、新作ネタのライブを行うという形で、業界関係者の目に止まる。TV出演当初は「学生のノリの軽佻浮薄で大げさなそぶり」というリアクション芸人さながらの行為や、「早口でギャグを捲くし立て、自分のボケに自分でつっこむ」という掛け合いしゃべくりのノリツッコミ等で、アイドルのように数十人程のファンの「追っかけ」もあった。だがレギュラー番組終了と同時にその追っかけ達も消滅し「ファンて、こんなもんなんや」と自分のしている仕事を冷静に見つめ、しばらく仕事が無く滅入る。1981年に映画「ガキ帝国」に出演した際、井筒和幸監督や出演者らと共に大酒を飲み、飲酒の勢いも手伝い、新宿で交通標識等を集団で破壊。北野は井筒らと共に逮捕され、7日間の拘留の後に不起訴処分となる事件も起こしている。漫才時代からの持ちネタを生かし、当時人気だった「スチュワーデス物語」や「川口浩探検隊」などのTV番組に主観や客観に基づく断定で「ツッコミ」を入れ、この芸風が後に竹内義和と出会うきっかけとなる。他の芸風として「大阪の種馬」、「浪速の竿師」、「時代のトリック・スター」などの二つ名も持ち、「どんな手段を講じてでも性的欲求不満を埋めたい、男性視点の野卑な恋愛攻略論」等のトークを披露した。実家において当時まだ駆け出しで無名だった生瀬勝久、古田新太、羽野晶紀、久本雅美、中川勝彦等、色々な友人知人が出入りしてたむろし、鍋や麻雀、雑談、酒盛りなどに興じる。古田新太や笑福亭鶴瓶が持つ才能と彼我の差を感じて苦しみ、芸人としての方向性を模索する。1985年暮れ、北野がフグを食べに行こうと誘ったその日に、父親が焼身自殺。葬式を執り行った後、遺産と借金の整理に追われ自宅を残し土地の殆どを売却する。会社の借金を個人が弁済する義務を回避することもできたが、TVで仕事をする上で後々債権者らに難癖をつけられる事を嫌い、返済期間を1年と区切り、弁護士と母を説得して抵当に入っていた土地を手放し債権者に割り当てる。父親の会社は経営的な破綻を起こしていたが、遺書も残さず死に至った直接な原因が不明だった事に加え、煩雑な債権処理に忙殺され北野の芸風も雑なものとなり、改編で出演番組が終了した後は新規レギュラーが入ってこず、ジリ貧状態に陥る。表情も乏しく陰鬱な雰囲気の北野に周囲も近寄らなくなり、あまりの憔悴振りに見かねたやしきたかじんと嘉門達夫が、北野の起用を渋る局側を説得し自身の番組に度々ゲスト出演させる。この時期にABCの新入社員であった板井昭浩が新しいラジオ番組の立ち上げを考えている事を北野に打ち明ける。「探偵!ナイトスクープ」では嘉門達夫の推薦もあり新探偵として番組初期から中途加入。周囲が機転を利かし局長秘書が抜けた代役に北野の実母を充てたりと、同番組が高視聴率番組に成長した事がきっかけで認知度も上がり、塞ぎがちだった気分も落ち着き、平常通り振舞えるようになる。1988年4月からは、自身のアイデンティティともいえる「誠のサイキック青年団」がスタートする。なお父親の自殺は当時ほとんど公にしていなかったが、後に「いつみても波瀾万丈」(日本テレビ、2003年)にゲスト出演した際この件に触れている。1988年、北島三郎の次男である大野誠が、ロックバンド「1st BLOOD」のボーカル“MAKOTO”として活動を始めた為、芸名が重複する事から北野が大野に譲る形で芸名を本名に改名。1990年初頭、上岡龍太郎ややしきたかじんに続き、大阪を拠点に名古屋・東京と活動範囲を広げるが、東京でレギュラー出演していた番組がやらせや予算削減・低視聴率・過剰演出などにより打ち切りが連続。さらに東京(全国ネット)における番組収録において、あらかじめコメントやネタが事細かに書かれている台本に沿った番組進行しか出来ない場を幾度と無く目の当たりにし、自分の芸風の入り込む余地が殆ど無い事に苦慮。東京での認知度はさほど定着せず、友人知人を作るのに苦心。1992年に結婚。後、一男一女を授かる。1993年、ラジオ番組「誠のサイキック青年団」内で、山本リンダのヘアヌード写真集を酷評し山本側が番組に対し1億円の損害賠償を請求。同番組のパーソナリティの竹内義和と共に、在京マスコミが多数集まる中で山本同席での公開謝罪会見を行った。一方でこの一件によって北野の東日本における知名度も上がり、「番組中に問題発言を言うかもしれないお笑いタレント」として、「邦子がタッチ」などのTV番組がコメンテーターで起用するようになり、大阪でもやしきたかじんや桂小枝等の共演者から「また訴えられたいんか」などとツッコミが入るのが一つのネタとして当時使われていた。以後、トゥナイト2への出演を機にTVやラジオの司会、コメンテーター、レポーターとしても活躍。一方で自身の番組や個人の公開イベントの企画制作や都市伝説等のオカルト関係、株式セミナー、競馬予想、落語の高座、恋愛指南、著述、など広範囲なジャンルで活動を行うようになる。たまごっちがブームとなった頃に「北野誠のたまごっち」というグッズを大量に作ったが全く売れず、それが原因で松竹芸能が倒産寸前に追い込まれ、当時の社員の半分近くがリストラされたという。その責任を取る為に、現在北野は多くの仕事をこなしているのではないかと言われている。2009年春、松竹芸能は「誠のサイキック青年団」及び関連イベント内の不適切な発言により、関係者らに対し迷惑を掛けたとして処分を下し、4月28日の記者会見までに北野出演の番組を順次降板。北野も「自主的に決めた事」としてこの処分を受け止め、同年4月28日付けをもって無期限謹慎となり、「ごごイチ」(CBCラジオ)を最後にメディア媒体への露出は無くなる。なお竹内義和のブログ「竹内義和のどきどきブログ」では、2009年5月20日分の記述においてこの不適切発言の大半は竹内自身に原因がある事を明かし、マスコミに要らぬ誤解を与え、問題が大きくなるのを回避するため結果的に北野に責任を負わせるような形になったと説明。北野と同じく竹内もメディアへの露出は自重する旨を告知している。2010年2月15日、松竹芸能執行役員会は、同20日付で北野の謹慎解除を決定。謹慎は約1年弱で解除。同日昼の通天閣劇場TENGEKIで出演し、謹慎期間中はやしきたかじんや松村邦洋に世話になった事、野菜ソムリエ・足裏療法士などの資格を取得した事などを語った。テレビには2010年2月27日放送の『たかじん胸いっぱい』(関西テレビ)にて復帰した。2010年4月から無期限謹慎に入る直前まで出演を続けていたCBCラジオで復帰後初のラジオレギュラーとなる「北野誠と原武之の日曜だもの」が始まる。2010年7月、小学生のときからの親友、大谷信一のプロデュースによりワインバーを出店。2012年4月からはCBCラジオで平日の昼ワイド番組「北野誠のズバリ」が始まり、以降は東名阪を往復する生活を送っている。
出典:wikipedia
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