坪井 智哉(つぼい ともちか、2月19日 - )は、東京都江東区出身の元プロ野球選手(外野手)、プロ野球コーチ。2014年に現役引退後、2015年からは横浜DeNAベイスターズの一軍打撃コーチを務める。父親は元プロ野球選手の坪井新三郎で親子ともにPL学園高校を卒業。後にプロ野球入りしている。幼少期は愛知県名古屋市、大阪府三島郡島本町で過ごした。父は元プロ野球選手で内野手の坪井新三郎(中日、太平洋-クラウン)。PL学園では1年生の秋から外野手としてベンチ入りし、その後投手として活躍していたがPL学園在学中に甲子園へ出場することはできなかった。野球部の寮では1学年上の入来祐作と同室だった。入来とはプロ入り後、北海道日本ハムファイターズでチームメイトになっている。高校卒業後は青山学院大学に進学する(2学年上に小久保裕紀、同級生に川越英隆、城石憲之、1学年下に井口資仁、高須洋介、澤崎俊和)。大学時代は、部員の中で1番最後まで個人練習している練習の虫だった。この事について、「PL学園時代に比べれば練習が全体練習が少ないから楽すぎるくらいだったが、その後の個人練習の時間でどれだけ野球をしてるかでこの先が決まる」と話している。1993年に小久保裕紀らを擁して春季1部リーグを制し、全日本大学野球選手権大会を優勝して大学野球日本一を勝ち取っている。東都大学リーグ通算86試合出場、286打数70安打、打率.245、7本塁打、47打点を記録。大学時代に振り子打法に切り替えて手応えを感じ坪井は、1995年秋季のリーグでチームメイトの高須洋介に次ぐ打率.409(リーグ2位)を記録してベストナインに選出された。しかし、この年のドラフトで指名されなかったため、大学卒業後は社会人野球の強豪である東芝へ就職。(東芝での背番号は24)。|芝では主に1番打者として活躍し、第51回東京スポニチ大会で打率.476を記録して新人王を獲得。第23回社会人野球日本選手権大会でチームは準決勝で敗退するが、坪井は14打数9安打、打率.634を記録して首位打者賞と大会優秀選手賞(外野手部門)に選出された。この年(1996年)の暮れに社会人ベストナインも獲得している。翌1997年の第24回社会人野球日本選手権大会では準決勝で三菱重工神戸に敗れるが、2年連続で大会優秀選手賞(外野手部門)に選出される。同年、第19回アジア野球選手権大会に出場する日本代表に選ばれた(坪井以外に選ばれた選手に福留孝介・二岡智宏らがいる)。練習では金属バットを使用せず木製バットを使用していた。坪井は「金属バットはどこに当たっても打球がポンポン飛ぶ。それじゃ、今まで培ってきた技術が失われてしまうから試合以外では使わないようにした」と語っている。1997年のプロ野球ドラフト会議で、阪神タイガースから4位指名を受け、契約金8,000万円、年俸1,200万円で契約し入団。、阪神の春季キャンプでルーキーは2軍に割り振られるのが通例なのだが、1月28日の1・2軍振り分けで新人選手の中で唯一の1軍に振り分けられる。キャンプ・オープン戦で結果を残して開幕1軍を勝ち取ったが、開幕の外野陣はレフト・パウエル、センター・新庄剛志、ライト・桧山進次郎だった。4月19日に1番ライトでプロ入り初スタメン入り。4月・5月は平塚克洋・パウエルとの併用だったが、6月からパウエルや平塚の怪我などでスタメン出場が増えるようになり、スタメン定着後はセンターやレフトで出場するようになる。7月中旬頃から1番・ライトに定着する。7月4日の広島東洋カープ戦で、1回表に紀藤真琴から左中間へプロ初本塁打となる初回先頭打者ランニングホームランを放つ。プロ初本塁打がランニング本塁打というのは2リーグ制以後、武上四郎・緒方耕一に次いで史上3人目だが、初回先頭打者ランニングホームランは史上5人目の記録で、新人では史上初の快挙であった。8月27日に規定打席に到達して打率.318でリーグ3位に食い込んだ。9月になると更に打率を上げ、坪井を含めた首位打者争いが熾烈になり、横浜の鈴木尚典、広島の前田智徳、阪神の坪井の3人が打率.330近くを記録する熾烈な争いになる。結局、首位打者は打率.337を記録した鈴木尚典で、鈴木は2年連続の首位打者となり、前田智徳は打率.335で2位、坪井は打率.327でセ・リーグ3位の打率を記録。また、この年に記録した135安打は、1948年に後藤次男が記録した129安打を更新する球団史上新人最多安打記録だった。この135安打は、2016年に新人の髙山俊が9月30日の巨人戦でシーズン136安打を記録して塗り替えている。なおこの年は10試合連続安打を記録しているが、阪神の新人選手で10試合以上安打を記録したのは球団史上初であった(後に2001年に赤星憲広が12試合連続安打、2016年に髙山俊が10試合連続安打を記録)。また坪井は球団新人最多(当時)となる11度の猛打賞を記録している。(後に2016年8月25日現在で髙山俊が12度の猛打賞を記録して18年ぶりに球団記録を塗り替えた。)新人の打率.327という記録は1950年以降に始まったセ・パ両リーグの2リーグ制分立後の新人最高打率である。更にこの年、両リーグで規定打席到達者は71人いたが坪井だけが併殺打0であった。新人の規定打席以上で併殺打0は史上初である。この年は坪井以外にも川上憲伸(中日ドラゴンズ)、高橋由伸(現・読売ジャイアンツ第18代監督)、小林幹英(現・広島東洋カープ二軍投手コーチ)と近年稀に見る新人豊作年だった。最優秀新人は川上憲伸に譲ったが、川上以外の3人は新人賞に値する活躍をしたと認められ、高橋由伸、小林幹英とともに連盟の特別表彰を受けた。、新たに就任した野村克也監督の下、巨人との開幕戦で1番センターのスタメンを勝ち取るも開幕から数試合連続(18打席連続ノーヒット)でヒットが出ず、4月は不振に苦しんだ。5月以降になると持ち前のバットコントロールでヒットを量産し、1シーズン6度の4安打を記録するなどの固め打ちを記録。シーズンが進むと共に徐々に調子と打率を上げ、最終的に新人から2年連続3割打者となる打率.304、得点圏打率も.343を記録し1番打者として阪神打線を牽引した。この年に自己最多となる161安打を記録している。守備でも奮闘し、セ・リーグトップとなる11補殺を記録している。また、新人から2年連続打率3割達成は史上4人目の記録である。坪井以外の達成者は長嶋茂雄・横田真之・高橋由伸ら3人が記録している。、前半戦は好調を維持し打率3割を記録していた。この年に監督推薦枠でのオールスター初出場を果たす(坪井は1999年のオールスター投票で惜しくも外野手部門で4位だったため出場出来なかった)。オールスター戦では石井貴から本塁打を放ち優秀選手に選ばれている。シーズンでは新人から3年連続の打率3割達成を期待されていたが、相手投手から好打者ゆえの厳しい内角攻めに遭う。それが死球に繋がったり左肘を故障したこともありオールスター以降に調子を落とす。結局、新人から3年連続打率3割達成はならず、打率.272でシーズンを終える。この年に記録した12死球はセ・リーグの打者で最多死球だった。仮にこの年に打率3割以上を記録していたら、1960年の長嶋茂雄以来の快挙であった。(長嶋茂雄は新人の1958年から1961年まで4年連続で3割を記録しており、その4年間で3年連続首位打者にもなっている)この年のオフに痛めた左肘の手術をしている。、開幕から新人の赤星憲広の抜擢・大活躍もあったが、前年に手術した左肘の悪化・本人の極度のスランプ・度重なる怪我により出場機会が激減した。この年から坪井は怪我に悩まされるシーズンが続くようになる。スランプの時期には打撃フォームを改造し極端なオープンスタンスや振り子打法をやめノーマルなスタイルに変化するなど試行錯誤していたが結果を残せなかった。また、プロ入りして初めて規定打席に届かなかったシーズンだった。、外野手のレギュラー候補に名を連ね、新たに就任した星野仙一監督からも「今年は坪井の復活に期待してほしい」と監督からも復活を期待されていた。だが、5月に内野ゴロで一塁ベースを踏んだ際に足を捻挫してしまいそのまま登録抹消される。回復が遅いこともあり再診断した結果、剥離骨折している事が判明。その為、シーズンの殆どを2軍で過ごす。シーズン終了後、野口寿浩との交換トレードにより日本ハムファイターズに移籍。球団は本人にトレード要員であることを伝えていなかった為、報道後に電話で「テレビで見たと思うけど…」と坪井にトレード通告をした。坪井は「(日本ハムへの)トレードの話は家にいるときにたまたまテレビで流れててビックリした」と日本ハム移籍後に語っている。、開幕こそ6番ライトでスタメンだったが、4月当初は森本稀哲、エンジェル・エチェバリア、島田一輝、西浦克拓と外野手を多く起用する采配もありベンチスタートだった。西浦の一塁手起用や、森本が打撃不振で結果を残せずに代走・守備要員になるとすぐに右翼手のレギュラーを勝ち取る。阪神時代の巧みなバッティングが復活し、序盤から絶好調でシーズン前半戦終了時点(オールスター前)でパ・リーグ2位の打率.355(251打数89安打)を記録するほどの大活躍、ファン投票外野手部門3位で通算2度目のオールスター出場を果たす。オールスター後も打撃が絶好調で8月中旬まで同僚の小笠原道大と激しい首位打者争いを演じる。9月に入ると前年の骨折で痛めた足首痛が再発し9月の月間打率が1割台と調子を落としたが、最終的に新人時代に記録した打率.327を更新し、自己最高の打率.330を記録して復活を果たした。阪神入団1年目の1998年に打率.327・日本ハム入団1年目の2003年に打率.330を打ち、これでプロ野球史上初の両リーグ1年目で打率3割越えを達成した。3月27日の対大阪近鉄バファローズ戦(大阪ドーム)で1番打者としてスタメン出場し、岩隈久志から中越え二塁打を打ち、日本ハム北海道移転後のチーム公式戦初安打となる。2番・SHINJO(新庄剛志)が送りバントで進め、3番・小笠原道大の内野ゴロでホームに還り北海道移転後のチーム公式戦初得点も記録。6月に入るまでは3割以上の打率をマークしていたが、結膜炎などの病気もありスタメンを外れると6月7月で月間打率2割前後と落ち込み規定打席を割ってしまう。後半に復帰して活躍したが2年連続打率3割を記録できなかった。病気に泣かされたが自己最多の11本塁打を記録している。また、9月20日の福岡ダイエーホークス戦(札幌ドーム)では、プロ野球再編問題から発展した日本初のプロ野球ストライキ明けの初戦となったこの試合前に「一昨日、昨日と試合できなくてゴメンJoy」と称したパフォーマンスに参加し、5名の同僚外野手で『秘密戦隊ゴレンジャー』のかぶりもの(仮面)を被ってシートノックを受けた(アカレンジャー:森本稀哲、アオレンジャー:島田一輝、キレンジャー:新庄剛志、モモレンジャー:石本努、ミドレンジャー:坪井)。、この年にヤクルトスワローズからFA宣言をして海外移籍を目指していた稲葉篤紀が移籍を断念して日本ハムファイターズに入団した為、坪井を含めた外野手争いが更に熾烈になった。坪井は相手チームの先発が左投手の時はスタメンを外されることが多くなり始めるが、結果として対左投手には3割以上を記録している。交流戦で調子を落としてしまうが、79月に復調する。特に9月は41打数18安打で打率.439を記録。規定打席には届かなかったがチームで唯一の打率3割をマークする。また、守備でもパ・リーグ2位となる11補殺を記録するなど攻守での活躍も光った。株式会社スーパーエージェントとマネジメント契約。はオープン戦で故障。この年に坐骨神経痛を発症し、苦しいシーズンを迎えることになる。シーズンを通してほとんど打席に立てない日が続き、45月は1打席も立てない状況になっていた。そして8月6日の対西武ライオンズ戦の守備で、左中間に飛んだ打球をダイビングキャッチで捕球しようとしたが打球は取れず、坪井はそのまま地面に叩きつけられてしまう。この時に右肩を負傷(骨折)し、登録抹消された。シーズン終了後に球団からトレード要員通告を受けるが、坪井の年俸の高さ(当時の推定年俸9000万)や怪我の多さなどの理由でトレードがまとまらずに球団から戦力外通告を受けた。坪井は現役続行を希望して12球団合同トライアウトを2度受けたが契約に至らず、アメリカに行き決意してチームを調査しているなか、12月27日に大減俸(推定年俸9000万円から推定年俸2000万円への大幅減俸)の上、日本ハムと異例の再契約をする。、開幕戦で7番レフトで出場し開幕スタメンの座を勝ち取る。前半戦は好調で打率3割以上を記録しており、主に左翼手としてスタメン出場をしていたが、交流戦以降に若手の工藤隆人が台頭・ブレイクしてきた為、シーズン終盤では工藤に押される形となってしまう。スタメン出場は減少したが、代打で17打数7安打、打率.421と代打でも結果を残し最終的に100試合に出場。2003年のような大活躍とまではいかなかったが、選手生命の危機からの復活を果たす。規定打席に満たないものの、打率.283を記録。大事な場面での勝負強さを発揮し、この年はプロ入りして初のサヨナラヒットを記録している。は悩まされていた坐骨神経痛の影響で年間通してほとんど打席に立てない状況が続いていた。ほとんど1軍に帯同出来ずに結局26試合の出場に終わるが、クライマックスシリーズ第1ステージの2戦目で稲葉篤紀の代わりにスタメン起用され、1試合4安打の大活躍をするなどの存在感を見せた。は梨田昌孝監督の糸井嘉男の起用と糸井自身の急成長・球団の若手起用の方針もありベテランの坪井のスタメン起用は限られてしまう。しかし、開幕から左の代打の切り札としての地位を確立しチームの勝利に大きく貢献する。パ・リーグ最多の55回の代打起用、49打数15安打8打点でシーズン代打打率.306を記録するなど1打席での勝負強さを発揮した。は外野陣が稲葉・糸井・森本・陽岱鋼など起用選手がほぼ固定されてしまい、出場機会を求めて一塁手としての練習もしていた。一塁手挑戦に坪井は「大学時代に1イニング守ったぐらいしか経験がない」と語っている。試合では稲葉が一塁へコンバートされた事もあり1軍で一塁手としての起用はなかったが、練習では本職の外野と併用して続けていた。シーズン序盤は代打として活躍し打率も3割をキープしていた。そして3月22日の福岡ソフトバンクホークス戦に二岡智宏の代打として出場し、久米勇紀から右翼線へ2点適時二塁打を放ち史上434人目となるプロ入り通算1000試合出場を果たした。しかしその後、肉離れや坐骨神経痛の再発などで出場試合数が激減。シーズン中盤に1軍登録を抹消される。その後、2軍で打率.341と高打率を残すもなかなか1軍に呼ばれなかった。2軍にいたときに数試合ほど一塁手としてスタメン出場している。シーズン終盤にようやく1軍に昇格するも、昇格と同時に坪井は来季の構想から外れていることを球団から通告されていた。。坪井は翌年に日本ハムのユニホームを着てプレー出来ないことを知りながら試合に出場していたが、昇格してから1本もヒットが打てずに2010年シーズンを終了した。同年10月2日に球団は2度目の戦力外通告を行うと同時に2軍打撃コーチ就任を要請したが、坪井は残り26本に迫ったプロ入り通算1000本安打を達成したいことと、坐骨神経痛や肉離れなどの今まで苦しんできた怪我が治ったからにはまだ現役でやれるという本人の強い気持ちもあり 、球団は本人の意見を尊重し、坪井の退団が決まった。さらに退団が決定した時に球団は「2006年の時みたいに今回は再契約しない」と坪井に通告しているため、2011年にファイターズのユニフォームは着られない事が決まった。その為、坪井が移籍当初から付けていた背番号7は2011年から糸井嘉男が着用することになった。また、退団会見で親交のあるイチローに「(現役続行は)アホな選択だったかな?」とメールしたことも明かし、イチローから「怪我が治って自分の力を試したいと思うのは当然」と返信がきたのも現役続行への後押しになった事も話している。1月17日にかねてから獲得の報道があったオリックス・バファローズが獲得を発表した。1年契約で、背番号は00に決定。坪井獲得に岡田彰布監督は「(2軍監督時代に)阪神で一緒に戦った選手やし、数字以外の目に見えない力もプラスになる」と、若手選手の模範役としても期待している獲得だったと語っている。坪井と岡田監督は阪神の2軍で監督と選手の間柄だった。当時、坪井はバッティングで悩んでおり振り子打法を変えたほうがいいのか岡田監督に相談している。岡田監督から「そのままでええ」と言われ、「あの一言で本当に助かった」と岡田監督に感謝していた。オリックスの準本拠地であるほっともっとフィールド神戸で新入団を受けての取材で「岡田監督の目指す野球にできるだけ貢献できるように、自分のプレーをしたい」と話している。2011年開幕当初から調子が上がらず二軍生活が続いていたが、6月28日に一軍登録され、その日の試合である埼玉西武ライオンズ戦で代打として出場し、移籍後初打席・初安打・初打点となる中越え適時二塁打を記録する。だが7月4日に一軍登録抹消されて以降、一度も昇格することなくシーズン終了。1軍では3試合の出場で8打数2安打と結果を残せなかった。10月9日に球団から戦力外通告を受けるが、坪井は現役続行を希望してトレーニングを続けていた。翌年から米独立リーグに参戦し2014年8月14日に日本球界に復帰することなく現役を引退したため、坪井の1軍での最終出場は2011年6月30日となった。、アメリカ・アリゾナ州で行われているウィンターリーグに特別招待選手として参加。ノース・アメリカン・リーグに加盟しているチコ・アウトローズに所属し、リーグ打撃成績で打率.483(リーグ2位)の好成績を残す。公式戦終了後はアメリカでトレーニングを続け、3月7日に日本に帰国。自身の公式ブログでアメリカの独立リーグ数球団から獲得の誘いがあったことを明かした。5月中旬、ノース・アメリカン・リーグのサンラファエル・パシフィックスでプレーするために渡米。パシフィックスでは主に2番でスタメン出場していたが、7月4日の試合中に打球をダイビングチャッチした際に左肩を捻挫し、7月7日に解雇される。その後トライアウトを受けて8月7日に独立リーグ・アメリカン・アソシエーションのゲーリー・サウスショア・レイルキャッツに入団が決定したことを発表したが、チーム方針転換のため10日に解雇される。そのまま所属先未定のまま2012年シーズンは終了したが、2013年もアメリカで現役続行するためにリハビリを続けると公式ブログで表明する。6月からユナイテッドリーグ・ベースボールのエディンバーグ・ロードランナーズでプレーすることが決まる。だが同月27日、ハムストリングを痛めて解雇された。、アトランティックリーグのランカスター・バーンストーマーズでプレーすることで大筋合意した。このリーグは米国・独立リーグの中で最もメジャーに近く、前ロッテの渡辺俊介や前オリックスの梶本勇介も同リーグに所属していた。坪井は開幕から1、2番打者としてスタメン出場して結果も残していたが、ある試合で一塁に出塁した際に偽装スタートを何度か切ったら「打者が集中できないから走る格好などするな」と怒りを買い、出場選手登録を抹消された。またランカスターは球団が選手に対し、地元の人の家にホームステイする形で住居を供給していたが、坪井には当初からホームステイ先が与えられず、ホームステイ先が決まるまでは自費でホテル暮らしをしたり、同情したチームメイトのホームステイ先に転がり込むものの監督にバレて家を追い出されるといった苦労を経験した。そして同年8月14日に現役引退を発表。引退理由については「他のチームでプレーすることも考えたが、このリーグが独立リーグの中で一番レベルが高く、ここよりレベルを落としたチームでプレーしても上(メジャー)へ上がれる可能性はない。その可能性がなくなって(試合にも)使われないなら、もう野球をやる意味がない。ここまで甘えさせてもらった家族の生活もある。(辞めることに)後悔はない。」と語っている。2014年8月15日、自身のブログにて現役引退を発表した。坪井が現役引退を発表した時に和田豊監督は「野武士のような感じで、(元広島)前田みたいなタイプだった。とことん突き詰めていってね。最初はイチローと比較されるのを嫌がっていたけどね」と振り返ったり坪井の1年遅れ(1999年)でプロ入りした福原忍投手は「ニュースで知りました。僕もお世話になったので寂しいですね。やりきったんだとは思いますけれど」と古巣阪神の同僚らが新聞にコメントを発表。現役時代の元同僚や後輩から労いのメールを貰い、栗山英樹や、谷繁元信、中畑清らからも、『お疲れ様』『辛かっただろ』と暖かい言葉をかけてもらったこと。巨人の原辰徳監督からは現役時代は話したこともなかったのに、『坪井くん!キミは本当に野球が好きなんだね!そういう人材は野球界の宝だ、君の経験を還元していかなければいけないよ』と言ってもらってたことも話している。引退後は、公式戦のテレビ中継にゲスト解説として出演するなど、古巣である阪神タイガースや北海道日本ハムファイターズの試合を中心に野球解説者として活動していた。2014年9月11日には古巣阪神の本拠地、甲子園球場のマウンドで始球式を行った。2014年10月31日、自身の公式ブログとツイッターで、2015年に横浜DeNAベイスターズの一軍打撃コーチ補佐に就任することを発表した。背番号は77。監督がアレックス・ラミレスに変わった2016年も引き続き打撃コーチを務める。左右に打ち分けるセンスを持ち、バットコントロールが優れている。私生活では食生活などにも徹底管理をしていた。「大好きなものが体にすごく悪かったり、大嫌いなものが体にめちゃめちゃ良かったり。栄養士の先生に教えてもらいながら嫌々、食べたこともあります。妻と“三人四脚”でやってきて、今の自分があると思っているので、そのことに関しては胸を張りたい」 と話している。阪神時代の坪井は、メディアの人間を寄せ付けない空気を出していた。坪井は「僕は弱い人間なので、活字になったモノを目にしてしまうと、人より落ち込み度が高いと思う。自分を守るために本音は言いませんでした」ことと、その空気を変えたのが阪神時代のチームメイトで、2004年に日本ハムに移籍してきた新庄剛志だった。坪井は新庄のパフォーマンスに参加するようになってから殻を破れたと話す。「自分の殻に閉じこもって、ただ野球をやっているだけじゃダメだって、いつも言われていましたし、球団も“ファンサービス・ファースト”というチームカラーでしたからね」と話している。大のコーヒー好きであり、札幌市に本社を置きラジオ番組(地域FM局にて、現在は放送終了)を放送していた財務コンサルタント事業を行っている株式会社グーゲンへの番組出演をきっかけに、石狩市の徳光珈琲とグーゲンの共同計画で「§坪井珈琲§」(2種)をネットやグーゲン本社にて販売している。1月5日にTBSテレビで放映されたドキュメンタリー番組『プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達』にて、日本ハムを解雇されてから再雇用されるまでのいきさつが紹介された。同番組のラストは日本ハムとの再契約の際の記者会見で意気込みを語る姿で「もう這い上がるしかないですから」と語っている。同僚や後輩からの信頼は厚く、2006年に戦力外通告を受けた時はある後輩が「また坪井さんと一緒に野球ができると思っていたんです……」と泣きながら坪井に抱きついたエピソードがある。また、田中幸雄(現・北海道日本ハムファイターズ二軍監督)や稲葉篤紀らが球団に坪井の野球に取り組む姿勢や、後輩達への指導などの坪井の行動を球団に伝え、坪井の残留を強く訴えたという話もある。札幌ドームの偉い人から『坪井選手の野球に取り組んでる姿が好きです。いつでも施設を使ってください』とメッセージをもらい、「野球バカでも、一生懸命やってたらこうやって助けてくれる人がいるんだなぁ〜、と当時しみじみ想い、感動したことを思い出させてくれる。」と自身のブログで語っている。2010年10月に戦力外通告されて以降、3ヶ月経過した2011年1月にオリックスが正式に獲得を発表したが、それ以前にも戦力外通告された直後に「オリックスが坪井獲得を検討している」との一部報道があった。しかしその時坪井は「(オリックスから)全く連絡もないし、そういう報道は信じないことにしている」と発言している。これは2006年に日本ハムから戦力外通告を受け、1度目のトライアウトを受けた翌日の新聞に、「楽天が戦力外の坪井と接触」との報道があったが、この時も本人に楽天から全く連絡がなかったためである。当時の楽天フロントはチーム全体の戦力不足もあり、トライアウト参加者の中で1番実績のある坪井獲得を検討していたが、当時の監督である野村克也が「楽天は(戦力外通告された)選手の墓場ではない」と坪井獲得を否定したこともあり、フロントは坪井の獲得を断念した経緯がある。2010年の退団会見の際に、「(温かいファンのいる)北海道が大好きですから」と話している。2010年9月26日の札幌ドーム最終戦で代打を告げられたのがファイターズでの最後の打席になった(坪井は一軍再登録後、来季の構想外と通告されていた)。「いつも(入場曲を)かけてもらっている音楽を消してもらって、ファンの大歓声を聞きながら打席に立った」とあえて曲を流さなかったことも明かした。ブログで現役引退後に住むとしたら「神戸か札幌」と書いている。現役引退後に週刊ベースボールのインタビューで「今まで対戦したなかでNo.1の投手は?」と聞かれた際に、「松坂大輔や金子千尋など素晴らしい投手はたくさんいたが、特に斉藤和巳は負けない投手で、彼の背中から炎が見えるようだった」「マウンド上に立っている斉藤は背後に何かが見える感じ」「彼がどのような気持ちで投げていたか分からないですけど、すごく伝わるものがありました。あんなにマウンド上で大きく、近く感じた投手はいません。」「味方が点を取らなくても、自分が点を取られない。0対0の試合展開でも、最終的に1対0で勝つ。特に沢村賞を獲得したシーズンは凄かったですね。」と語っている。また自身のブログでも「№1投手は斉藤和巳」と述べている。前述の通り、2016年に髙山俊が自身の記録した新人シーズン最多安打を塗り替えたが、坪井は自身の135安打が当時の球団新人記録だとは知らず、髙山がヒットを重ねて坪井の球団記録に近づいたという報道が相次いで流れたことで知ったという。また坪井は髙山について、「高山を初めて見た時『1年目から3割打てる選手』と思った。それくらいの力がある。阪神はヨソと違って重圧がすごい。その中での好成績だから胸を張っていい」とも語っている。交友関係では、新庄剛志、入来祐作、稲葉篤紀、イチローとは特に仲が良い。阪神時代からの仲である新庄がメジャーリーグから北海道日本ハムファイターズに入団する決め手の1つに「(日本ハムには)全く知らない選手ばかりいる中で、阪神時代からの仲である坪井がいたことが大きかった」と語っている。坪井も「新庄さんとまた野球ができることは本当に嬉しいですよ」と話している。2006年の日本シリーズでチームが日本一になった瞬間、選手たちがベンチからマウンドのマイケル中村の周りに行き喜ぶなか、坪井はマウンドを通り過ぎ、外野で森本稀哲と抱き合った後に、一人で泣きながらベンチにゆっくりと戻ってくる新庄のもとへ真っ先に向かい抱き合った。入来祐作とはPL学園時代に寮で同室であった。PL学園野球部は先輩と相部屋で過ごすことになっていた。坪井はプロ入り後、「(練習が厳しくて)もし、入来さんが同室じゃなかったらどうなっていたか分からない」と話している。また、坪井が2006年のシーズンオフに戦力外通告を受けて2回目のトライアウトに控えて黙々とトレーニングを行う中、坪井のバッティング練習に打撃投手として一役買ったように入来との親交は深い。入来は高校時代から「坪井は実の弟よりかわいい奴だよ」と知り合いに話していたように当時から坪井をかわいがっていた。稲葉篤紀とは坪井が大学時代から共通の友人がいて面識があった。稲葉がプロ入り後に「実は(稲葉さんの)バットが欲しいんですけど……」と坪井が稲葉に電話したことがあった。電話をとった稲葉の第一声が「おう、ツボ、どうした?」だった。当時アマチュア時代の坪井に「そういう反応で電話を取ってくれるプロ野球選手がいるんだな」と思ったのは今でも覚えています。人との壁がない。いい人というイメージしかないですね。と坪井は現役引退後に話している。また、稲葉が2005年に日本ハムに移籍した時は「ようこそ!」と稲葉の加入を歓迎した。坪井がオリックスを戦力外になり米国独立リーグ挑戦時には稲葉に連絡をし、2014年限りで現役引退すると決めたときは稲葉から連絡をもらった。逆に稲葉が現役引退を発表した時、稲葉の膝の調子がよくないことを知っていた坪井は、「体をいたわってゆっくり休んでください」「長い間、お疲れさまでした」とメールを送っている。坪井は稲葉の引退に「たとえ膝が悪くて守備ができなくても、代打一本、もしくはDHだったらまだまだできるんじゃないか」という思いが半分、もう半分は「そういえば、全力疾走ができなくなったら辞める時だと言っていたなぁ」という思いでした。半分半分です。でもまぁ、体の痛みを我慢しながらやっていたと思うので、僕からは「お疲れさま」としか言えないですね。と稲葉の現役引退を惜しんでいた。坪井がイチローの存在を知ったのは高校の時で、愛工大名電高校に入学した知人を通して「鈴木っていうすごいやつがいる」という話を聞いていた。イチローも坪井の知人を通して「PL学園に坪井ってやつがいるよ」という話を聞いていて高校時代からそれぞれの存在は認識していた。そして坪井がプロ入りした1998年に当時阪神の打撃コーチを務めていた福本豊が、オープン戦でウォーミングアップしていた時にたまたまイチローが近くにいて、「同じ左バッターの新人だからいろいろ教えてやってくれ」と坪井を紹介した。その後食事に行った時に連絡先を交換した。この時がイチローとの初対面になる。イチローは坪井の第一印象は?と聞かれ「僕と同じように足上げて打ってて、『俺(坪井)の方が先だ』っていう話が出回って、『コイツふざけんな』って」と話しているように、会う前の印象は決していいものではなかったが、坪井と食事に行き、直接話していて感じたのは「好奇心が大きな人」と坪井に対する印象が変わったことを話している。そして親交が深まり、2001年のオフシーズンから毎年1月頃にはイチローの古巣・オリックスのスカイマークスタジアムで合同自主トレを行うほどの仲になった。この合同自主トレは坪井が阪神から日本ハム・オリックスに移籍した後にも続けられていた。イチローは、坪井が2006・2010年に日本ハムから、2011年にオリックスから戦力外通告を受け、現役にこだわってトレーニングを続けていた坪井をメールで励ましていた。2011年にオリックスに入団が決まり、ほっともっとフィールド神戸で新入団を受けての取材対応を予定した坪井に合わせ、イチローも自主トレを敢行している。この時にイチローは「背番号51をつけてほしかったね」と、坪井のオリックス入団を祝福。「アイツ(坪井)は野球が大好き。そういう選手が現役でプレーできる立場をつかんだわけだから、その事実がよかった」と話している。坪井はイチローのことを「野球生活の中で一番影響を受けた人物」と話し、引退を決断した時に家族以外で最初に報告したのはイチローで、「3.4時間ずっとしゃべってました。相談ではなく引退の報告というか、意志を伝えにいきました。野球人生の中で、一番影響を受けた人物ですし、尊敬している。イチローは独立リーグの環境の悪さとか、びっくりしていました」と引退会見で明かした。坪井が現役引退することを本人から直接聞いたイチローは、「技術を突き詰めていく、自分の能力の行けるところまで、っていうのは(坪井から)常に感じていた。それはいくつになってもそう、今年もそうだった。野球が好き、と言っても、子供の、リトルリーグのそういう感覚じゃない。ストレスがないものではない」と坪井の野球に対する姿勢に共感していたと同時に、「(坪井は)好きで野球をやっている。それ(引退)を決めるのが大変なタイプ」、「けがで(十分に)やれなかったのは残念」と坪井の現役引退を残念がっていた。坪井自身も引退会見で「できるなら10年、20年、30年野球を続けたい。今でも野球は大好き」と現役引退に未練ものぞかせていた。青山学院時代に、バッティングフォームを阪神入団時のような振り子打法に切り替えた。当時の監督である河原井正雄は、「坪井はインコースの球に差し込まれるケースが多かった。本人は否定していたが、それを克服しようと試行錯誤してたどり着いたのが、少し体を開いた状態で打つようになったフォーム(振り子打法)だった」と語っている。坪井が振り子打法に切り替えたのは大学3年時で、当時は佐々木誠のように足を大きく上げてタイミングを取るスタイルだったが、変化球に弱く三振が多いことに悩んでいた。打撃で悩んでいた同時期にイチローが振り子打法で大ブレイクするのを見て、「変化球に対応するには、あの打法がええんちゃうの?」と振り子打法を真似したのが始まりだった。しかし「ただ単にイチローの振り子打法を真似しても試合で打てないから、自分なりにアレンジして少しずつ試合で打てるようになった」と現役引退後に述べている。。
出典:wikipedia
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