直方市(のおがたし)は、福岡県の北部に位置する市である。旧鞍手郡。筑豊を構成する自治体の一つで、直鞍地区の中心都市である。飯塚市、田川市と並んで筑豊三都に挙げられる。一方で北九州都市圏に属しており、北九州市へ通勤・通学する人々も多い。毎年4月に「のおがたチューリップフェア」を開催するなど、「花」をテーマにしたまちづくりが盛んに行われている。福岡県の北部、筑豊地方の北端部に位置する。北九州市中心部から南西約30km、福岡市から北東約50kmの場所にある。市の中心部は平野地形で、筑豊平野のほぼ中央にあたり、彦山川、犬鳴川をあつめた遠賀川が流れている。遠賀川とJR筑豊本線(福北ゆたか線)にはさまれた地域を中心に、市街地が形成されている。東部地域、西部地域は住宅地帯、南部地域は工業地帯、北部地域は農村地帯を中心に形成されている。市の東部には、福地山地が南北に走っており、主峰福智山 (900.8m) を中心に、鷹取山や尺岳など平均標高600m級の山々が連なる。市の西部にも、300m級の山がいくつかあり、六ヶ岳を中心に小さな山地を形成している。中心商店街の近くに猿田彦神社の分社の一つがあり、月次祭が行われる毎月5日に「五日市」と呼ばれる大売出しのイベントが開催される。1959年から長年にわたって続けられており、市内外より多くの買い物客で賑わう。五日市にあわせて、西鉄バスでは近郊部より無料臨時バスが、平成筑豊鉄道では無料臨時列車が運行される。古町商店街入口から殿町商店街入口までの中心商店街の総延長は600m程、すべてのアーケードを合算すると1kmを超え、人口5万人都市としては異例の規模である。また「ホップスタンプ」と呼ばれるスタンプ事業は、全国の商店街の中でも有数の規模を誇っていた。古くは真言宗の名刹東蓮寺があったので東蓮寺とも呼ばれたが、室町期に兵火で寺は焼失する。のち、尊良親王が城を築いて少弐氏と戦ったため“皇方(のうがた)”と呼ばれるようになったのが地名の起源と云う。筑前国に属し、長崎街道に沿って城下町が形成された。1623年(元和9年)、福岡藩藩主であった黒田長政の四男、黒田高政が福岡藩から分封されて妙見山(現: 多賀公園)に館を構え東蓮寺藩を起こす。第3代藩主・黒田長寛の時代の1675年(延宝3年)に藩名を直方藩と改称したが、1677年(延宝5年)に本家の福岡藩の跡継ぎがいなくなったことから長寛は福岡藩に移り、直方藩は消滅した。その後1688年(元禄元年)に黒田長清が福岡藩から分封され再び直方藩を起こしたが、これも1720年(享保5年)に長清が没すると、跡継ぎがいないことから福岡藩の領地となり廃藩となった。廃藩後、直方の商人たちは長崎街道を、現在の市中心部を通るルートへ変更させることに成功し、廃藩後の窮地を脱することができた。筑豊で石炭が見つかり、明治時代から昭和30年代までは石炭産業で栄えた。直方は、筑豊地方の石炭の集積地と問屋的な機能の役割を果たすようになった。エネルギー革命により石炭産業は衰えるが、直方市内には大規模な炭鉱が少なく、人口の割に炭鉱労働者が多くなかったこともあって、筑豊の他の市町村に比べると影響は小さかった。また、北九州市に隣接する地の利を生かし大規模団地が続々と造成され筑豊地区の他の自治体が大きく人口を落とす中、1970年代から80年代にかけて人口は増加した。閉山後は、市内に工業団地が造成されて製造業の進出が積極的に進み、産業構造の転換が進んだ。近年では直方周辺で自動車産業の集積が進み、関連企業の進出が期待されている。石炭産業の発展とともに、石炭を輸送するため鉄道網が整備され、直方駅構内には操車場や機関区が置かれて多数の鉄道職員が勤務し、直方市は鉄道網の中枢としても栄えた。現在では規模は縮小したものの、JR九州の車両基地が直方市に設けられている。博多駅と小倉駅の中間にあたる植木地区に新幹線の駅を設ける住民運動があったが、現在は頓挫している。※ その他、山陽新幹線(JR西日本)が小倉駅 - 博多駅間で約 1750m にわたって当市を通過している。西鉄バスとJR九州バスが市内および市外への路線を運行しているほか、両社の不採算路線廃止後の代替として直方市がコミュニティバス「なのはな君」を運行している。いずれも直方駅前を運行の拠点としており、以前はそれぞれ乗り場が別であったが、2014年2月1日に直方駅前広場にバス乗り場を新設し乗り場が統一された。ただし西鉄バスの高速・特急・急行系統のみ現在でも直方駅前の西鉄直方バスセンターから発車する。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。