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バーク・ウィルズ探検隊

バーク・ウィルズ探検隊 (Burke and Wills Expedition)とは、1860年から1861年にかけてロバート・オハラ・バーク(Robert O'Hara Burke)とウィリアム・ジョン・ウィルズ(William John Wills)が率いた総勢19名の探検隊のこと。彼らはオーストラリア大陸縦断を目指し、南のメルボルンから2,800キロ離れたカーペンタリア湾まで到達した。当時、オーストラリア内陸部を探険した者は先住民以外になく、ヨーロッパ系移民たちにとって未知の世界だった。南から北へ向かった往路は成功に終わった(ただし、北部の海岸線から5キロ内陸の沼地で引き返している)が、指導者の力量不足と不運が重なり、復路で隊長のバーク、副隊長のウィルズはどちらも死亡した。往路・復路で合計7名が命を失い、ことにクーパーズ・クリークの補給所から北進した隊では最も若いジョン・キングのみが生き残り、探険を終えてメルボルンへ生還した。1851年、金がヴィクトリア植民地で発見されると、瞬く間に起こったゴールドラッシュでおびただしい人数の移民が殺到した。メルボルンはオーストラリア最大の都市となり、植民地は驚異的に富むことになった。この一大ブームはおよそ40年続き、この時代は『驚嘆すべきメルボルン』("marvellous Melbourne")と呼ばれる。イギリスから金を求めてやってきた、ある程度の教育のある人々が増え、学校、教会、学術団体、図書館、美術館を造っていった。メルボルン大学は1855年に創立され、ビクトリア州立図書館は1856年に建てられた。ヴィクトリア学術協会は1854年に創立され、1859年に勅許を授けられて王立ヴィクトリア学会となった。1857年、ヴィクトリア学術協会は、探険隊を組織することが実際的かどうか、調査するための探険委員会を設置した。オーストラリア内陸部の探険については、ニューサウスウェールズと南オーストラリアでは強い要求があったが、ヴィクトリアではさほど熱狂的ではなかった。王立ヴィクトリア学会(前述のように、学術協会より改組)の資金調達委員会に対し、匿名の寄付1,000ポンドがあったにもかかわらず、衆目を引くことはなかった。十分な資金が集まって探検隊が結成がされた時には、すでに1860年になっていた 。学会は、ヴィクトリア植民地探検隊の隊長を募集し、内陸の砂漠で乗り物となるヒトコブラクダ24頭を買い付けにジョージ・J・ランドルズをインドへ派遣した。数名の候補が挙げられ、学会は1860年初頭に会合を開き、ロバート・オハラ・バークを隊長、ラクダを買い付けたランドルズを副隊長、ウィリアム・ジョン・ウィルズを第3位の補佐とした。バークとウィルズの2人とも探険の経験がなかったにもかかわらず、2人が選ばれたのは不可解である。バークはアイルランド生まれのオーストリア軍元士官で、のちに警察に転じて警視を務めたが、未開地で生存する経験は実質的になかった。ウィルズは測量技師で、気象学者であった。ウィルズは荒野での生活においてはバークよりも経験を積んでいたが、リーダーシップをとり、その結果このプロジェクトの大きなマイナス要因となったのは、バークであった。探検隊は、1860年8月20日午後4時頃、15,000人の観衆が見守る中、メルボルン市内のロイヤル・パークを出発した。19名の探検隊中、イギリス人5人、アイルランド人5人、インド人セポイ4人、ドイツ人3人、米国人1人であった。隊は6つの荷馬車と、この任務のため特別にインドから輸入された27頭のラクダを連れていた。探検隊には大量の備品がついていた。6トンの燃料用木材、2年分の食糧、スギ材で表面を覆ったオークの野営用テーブルと2つの椅子、のろし、旗、中国製の銅鑼である。備品全ての重さは20トンにもなった。バークは、隊員フランシス・カデルが備品を船でアデレードから輸送させ、マレー川とダーリング川で陸揚げすればよいと進言したのを取り上げることなく、全てを6つの馬車に積み込んだ。一つの荷馬車がロイヤル・パークを発ってすぐ、初日の真夜中にメルボルンの端エッセンドンに到着したばかりの時に壊れた。エッセンドンではさらに2台壊れた。激しい雨と悪路でヴィクトリア州を通過するのは困難で、時間を浪費することとなった。隊は1860年9月6日にスワン・ヒルに到着した。そこで隊は一部の備品と隊員数名を残した。9月24日のギャンバラで、バークは初めてラクダに食糧の一部を運ばせることに決め、そのため隊員の一部が残りの行程を徒歩で行くことになった。10月初旬にビルバーカで、バークと副隊長ランドルズは、バークが60ガロンのラム酒を廃棄することを決めたことから口論となった(ランドルズはこのラム酒が奥地でラクダの健康を保つのに必要だと主張していた)。ダーリング川沿いのキンチェガで、ランドルズは隊の外科医ヘルマン・ベックラーに伴われて隊から離脱した。補佐のウィルズが副隊長となった。1859年7月、南オーストリア植民地政府は、オーストラリア大陸南北縦断を成し遂げた者に2,000ポンド(2003年のレートに換算して約230,000豪ドル)の報奨金を出すと発表した。経験を積んだ探検家ジョン・マクドゥアル・ステュアートがこれに挑戦した。バークは、このステュアートが北岸で自分を打ち負かすかも知れないと思い、彼はゆっくりとした行程に我慢ができなくなっていった。隊が10月12日にメニンディーに到着したとき、バークは隊を分けて、自身を含む8名を選んでクーパーズ・クリークへ早く到達する計画をたてた。残る隊員には、後から大陸縦断を目指す者が通りかかったら捕まえて待つよう命じた。隊は10月19日にメニンディーを出発、補佐に選ばれたウィリアム・ライトがガイドをした。トロウォット湿地でライトはメニンディーへ引き返して残りの隊員と合流し、バークはクーパー・クリークへ進んだ。1860年、クーパー・クリークはヨーロッパ人の探検家が到達した最奥地であった。1845年にチャールズ・スタートが川を見つけ、1858年にもオーガスタス・グレゴリーが到達していた。バークは11月11日にこの地へ到着した。そして北部の下検分を行う間、キャンプ63(63番目の野営地という意味)を補給所として設営した。疫病をもたらすネズミを避けるため、隊員らはキャンプを移動させる必要に迫られ、さらに川下のバラー・バラー・ウォーターホールに2度目の補給所を設営した。このキャンプはキャンプ65で、彼らは防御柵を立ててこの地をフォート・ウィルズ(ウィルズ砦)と名付けた。厳しい夏(オーストラリアでは、北半球の冬に相当する期間が夏である)の旅を避けるため、バークは秋(翌年3月)ごろまではクーパー・クリークで待機するであろうというのが大方の見方であった。しかし、バークは12月16日までそこにとどまっただけで、カーペンタリア湾に急行することを決定した。彼は再び隊を分け、補給所をウィリアム・ブラーエ、ドスト・マホメット、ウィリアム・パットン、トーマス・マクドノーに託した。バーク、ウィルズ、ジョン・キング、チャールズ・グレイは6頭のラクダと1頭のウマを連れ、ちょうど3か月分の食糧を携行して出発した。1861年2月9日、バークらはフリンダーズ川デルタの支流リトル・バイノー川に到達した。水の塩からさと水位の干満で海の近いことは確認できたが、渡渉困難な湿地と食料の欠乏のため、彼らは海へ到達できなかった。バークとウィルズはキャンプ119にキングとグレイ、そしてラクダを残し、湿地を通り抜け、24キロ進んだのち引き返すことに決めた。彼らが引き返したとき、食糧は絶望的な量となっていた。5週間分の食糧しか残っていないのに、彼らは10週間でクーパーズ・クリークへ引き返すことになったのである。彼らが北を目指すうち、気候は暑く乾燥していたが、復路では雨季が始まり熱帯モンスーン気候特有の局地的豪雨が始まった。ゴラー・シンという名のラクダが歩けなくなって3月4日に乗り捨てられた。他の3頭は射殺されて途中で食糧にされた。隊は唯一のウマ、ビリーをディアマンティナ川のほとりで4月10日に射殺した。備品は、運んでいたラクダやウマが減らされるにつれ道々で捨てられた。これらの場所で復路キャンプ32が1994年に特定され、バーク・アンド・ウィルズ歴史協会は、2005年に発見されたラクダの骨を照合してこの探険時のものだと判定した。彼らは食料を節約するためにスベリヒユを食べ、グレイが捕らえた体重5.0 kgのニシキヘビ(たぶんズグロニシキヘビ)も食べた。バークとグレイはすぐに赤痢にかかった。グレイは体調不良を訴えたが、他の隊員たちは仮病だとみていた。3月25日バーク川のほとりで、グレイは盗んだ小麦粉で粥を作り隠れて食べていたところを見つかり、バークに殴られた。グレイは、隊がポリゴナム湿地と呼んだこの地で、4月17日に赤痢で死んだ。グレイの死んだ場所は特定できず、南オーストラリアのマサカー湖だと一般的に信じられている。バークがグレイを殺した可能性はひとまず措かれたが、殴打したバークの酷薄さは議論の的となった。生き残った3人の男たちは、グレイを埋葬するため、そして自分たちも体力を回復させるために1日足を止めた。彼らはこの行程で飢えと疲労からひどく弱っていた。彼らがついにクーパー・クリークに到達したのは、4月24日で、待機していたはずのブラーエたちはわずか数時間前にここを発った後だった。一方、ウィリアム・ライトが率いた別働隊についていえば、こちらはこちらで深刻な問題を抱えていた。彼はメニンディーからクーパー・クリークへ食糧と備品を供給することになっていた。しかし手持ちの資金が尽きかけていたのと運搬用の家畜が少なすぎたことから、彼は1月末まで動けなかったのである。のちに、バークとウィルズの死の原因は、最終的にライトの遅延に帰せられている(ニューイングランド大学におけるトム・バージン博士の修士論文は、その一部をライトの行動に関する詳細な研究にあてている。1982年)。酷暑と飲料水の欠乏がライト隊の移動を徐々に遅くさせ、先住民バンジガリ族とカレンガパ族に苦しめられた。隊の3人、ルートヴィヒ・ベッカー、チャールズ・ストーン、ウィリアム・パーセルが旅の途上栄養失調で死んだ。北へ向かう途上、ライトはバロー川のクーリアット・ウォーターホールで野営し、クーパー・クリークへ向かうバーク隊の痕跡を探した。彼がそこにいる間に、クーパー・クリークからメニンディーへ引き返す途中のブラーエ隊に出会ったのである。バークはブラーエに、補給隊は3か月間クーパー・クリークの補給地にとどまるよう頼んでいた。補給隊は実際は4か月以上とどまったが、彼らの食糧が底をつき始め、壊血病の兆しが現れ始めた。補給地の周囲にはビタミンを豊富に含むスベリヒユが生えていたが、これを食用に供する事は無かった。彼らはバーク隊がカーペンタリア湾から戻ってこられなかったと信じこんだ。ブラーエはクーパー・クリークを発つことに決め、メニンディーへ戻ることにした。しかし発つ前に、バークが戻った場合に備え食糧を埋め、その場所の目印となる木に伝言を刻んだ。ブラーエが補給所を発つと決めたのは1861年4月21日の日曜日であった。同じ日の夕方にバーク、ウィルズとキングがクーパー・クリークへたどり着いた。彼らが目にしたのは、打ち捨てられた補給所で、彼らは食糧と瓶入りの手紙を収めた箱を取り出し、ブラーエ隊が自分たちを待つのをあきらめて今朝発ったことを手紙で知らされた。バークたちはわずか9時間違いでクーパー・クリークへやってきたのだった。3人は、ブラーエ隊を見つける望みを失ってしまった。彼らは休んで立ち直ろうとし、ブラーエ隊が残していったわずかな食糧で命をつないだ。そして彼らは最も海岸部から遠い南オーストラリアの辺境の定住地、マウント・ホープレスへ向かおうとした。これは、砂漠を通過する240キロの行程を旅することを意味した。彼らは自分たちの精神的緊張を手紙にしたため、それを目印の木の根本に埋めた。この一帯を救助隊が訪れることを期待したのである。彼らは木の目印を変えたり日付を変更をしなかった。4月23日、彼らは救助を求めて、マウント・ホープレスを目指してストルゼレツキ砂漠へ発った。その間、メニンディーへ戻る途中のブラーエ隊は、備品を運んでクーパー・クリークへ向かうライト隊と出会った。2人の男たちは、クーパー・クリークの補給所へ戻ることに決め、もしかしたらバークが戻っているかどうか確認することにした。彼らが5月8日にクーパー・クリークに着くと、すでにバークらはマウント・ホープレスへ向けて発った後で、キャンプは再び打ち捨てられていた。バークらはこの場所から35キロ離れた場所にいた。目印の木は変わっておらず、ブラーエとライトはバークが戻ってこられなかったとみなした。彼らは、埋めた食糧がまだあるかどうか確かめようとしなかった。彼らは合流して、メニンディーへ引き返していった。ブラーエが、バラー・バラー・ウォーターホールで埋めた備品の目印とすべく刻まれた木は、クーリバ(ユーカリの一種 "Eucalyptus microtheca")であった。ブラーエが彫った文は何であったが正しくは知られていない。『下を掘れ』("DIG under")、『3フィート掘れ』("DIG 3 FEET N.W.")、あるいは『40フィート掘れ』("DIG 40 FEET N.E.")だったとされる。到着した日付と出発した日付がそれぞれ"Dec 6-60"と"Apr 21-61"と刻まれ、キャンプの番号も刻まれていた。ユーカリの木から発ってすぐ、2頭のラクダ、ラージャとランダが死んだ。積み荷を運ぶ家畜のいないバーク・ウィルズとキングは、十分な備品なしでストレルツキ砂漠をマウント・ホープレスへ向け横断することはできず、3人はクーパー・クリークへ戻らざるをえなくなった。既に食糧は底を突きかけ、彼らは消耗していた。クーパー・クリークの先住民族アボリジニのヤンドルワンダ族が、彼らに魚や、パドルーという豆、地表に生えるナルドゥー(デンジソウの一種 "Marsilea drummondii")の実(正確には胞子のう果)から作ったブッシュブレッド(Bush bread )の一種を与えた(ナルドゥーはチアミンを破壊するチアミナーゼを含むため、大量に摂取すると脚気の原因となる)。ウィルズはユーカリの木のもとへ戻ると、旅の間つけてきたノートと日誌を、安全のため補給庫へ埋めた。バークは、何の供給も家畜もおいていかなかったブラーエへの批判を日誌に苦々しく記した。クーパー・クリークで、3人は草のタネを集め、アボリジニたちから魚や焼いたネズミをもらって命をつないだ。1861年6月下旬、3人はユーカリの木の上流へ向かい、救助隊が到着したかどうかを見に戻ることにした。ウィルズは旅を続けるには弱りすぎていたので、彼は一人残ると主張し、いくつかの食糧と飲料水をもらってブリーリー・ウォーターホールにとどまった。バークは、1861年6月下旬に死んだ。確かな日付は不明であるが、1861年6月28日とされている。キングはバークの遺体を埋葬してウィルズのもとへ戻ったが、既にウィルズは死んだ後だった。キングは、自分に食べ物をくれるアボリジニらの世話になることにした。メルボルンで、いくつかの救助隊が結成された。ジョン・マッキンレーは南オーストラリア救助隊を、ウィリアム・ランズバラはクイーンズランド救助隊を指揮し、ウィリアム・ノーマンはHMCSヴィクトリア号でカーペンタリア湾上からアルバート川を航行した。フレデリック・ウォーカーはヴィクトリア救助隊を、そしてアルフレッド・ハウィットがクーパー・クリークへ向けてメルボルンを発った。ハウィットは、クリークのユーカリの木へ1861年9月11日に到着した。そしてその4日後、キングがアボリジニに助けられ生存しているのが発見された。悲惨な状態で生き残ったキングはゆっくりとメルボルンへ移送され、のちに従妹と結婚するものの探険の精神的後遺症から回復することなく、9年後に肺結核で死亡した。ヴィクトリア州政府は、バークとウィルズの死に関して審理委員会を開いた。ハウィットがクーパー・クリークへ派遣され、バークとウィルズの遺体が掘り出された。2人の探検家たちの州葬が、1863年1月23日、メルボルンで行われた。葬儀の車は、10年前にウェリントン公の葬儀を行った際のものに似せて作られた。40,000人もの人々が葬儀に集まったと伝えられる。バークとウィルズは、メルボルン墓地に埋葬された。一方で、悲劇に終わった探検は決して時間の無駄ではなかった。オーストラリア内陸の様子が完結し、そこには内海はないと証明されたのである。さらに重要なことは、大陸の別々の場所から送られた救助隊のどれもが、大陸を横断するすべを理解したことである。1862年、記念碑がキャッスルメインの町を見下ろす場所に立てられた。そこはかつて探検隊を率いる前、バークが駐在した場所であった。一方、同年7月24日にはジョン・スチュアートが6回目の探検の末に現在のダーウィン東部の砂浜に到達し、12月17日に一人の犠牲者も出さずにアデレードに帰還した(ただし彼らは壊血病に冒されていたうえ、スチュアート自身はさらに強い日光などが元で右目の視力を失っていた。その後イギリスに帰国し、1866年に死去)。ヴィクトリア州の町、ベンディゴ、バララット、フライヤーズタウンには記念像が建っている。1890年、探検隊が出発した地であるメルボルンのロイヤル・パーク内に記念像が建てられた。記念像の銘板にはこう刻まれている。この記念碑は、バーク・ウィルズ探検隊が1860年8月20日に出発した場所を示すために建てられた。2人の勇敢なリーダーは使命を全うした後、帰還の途上にクーパー・クリークで1861年6月に死んだ。

出典:wikipedia

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