レインボーペガサスは日本の競走馬。おもな勝ち鞍は2008年きさらぎ賞、2011年関屋記念。2007年9月2日にデビュー。吉澤ステーブル育成スタッフの「来年のダービー馬」というコメントや、調教で跨った安藤勝己が絶賛していたことから注目される。しかし、デビュー3戦は北海道で芝の競走を使うも、勝ちきることは出来なかった。4戦目、初ダートで初勝利を挙げ、その後のもちの木賞ではレコード勝ちで2勝目を挙げる。朝日杯フューチュリティステークスに登録があったが回避し、交流JpnIの全日本2歳優駿に出走。しかしイイデケンシン、ディラクエに押さえられ3着に終わる。2008年、久々の芝の競走であるきさらぎ賞に出走。芝よりもダートでの活躍が印象強かったために人気薄であったが、見事な差し切りで重賞初制覇を飾った。それまでは一介のダート馬という評価だったが、芝の競走でも過去に勝利こそないものの掲示板を外したことはなく、一概に不得意と言うわけではないことが証明された。その後続けて芝のスプリングステークスに出走するが、伸び切れずに7着だった。しかし、皐月賞では、先行勢有利の展開の上、前が詰まる不利がある中メンバー中最速の上り34.3の脚を見せ4着に食い込んだ。競走後、鞍上の安藤は「楽に2着はあったなあ」と悔しがるほどの手ごたえだった。そして、6月1日の日本ダービーに5番人気に支持される。皐月賞のような末脚を生かす競馬ではなく、先行してレースを進めるも直線で伸びず、ディープスカイの5着に終わった。その後、菊花賞へ向けて函館競馬場で調整中だったが8月22日の調教中に右のトモをラチにぶつけてしまい、腸骨々折と右腰角部裂創を発症してしまう。調教師サイドによると、全治は5-6か月とみられ年内復帰は絶望的となってしまった。骨折休養明け初戦となった2009年3月8日の大阪城ステークスでは2番人気に推されたが、いいところなく7着に終わった。続く4月25日のオーストラリアトロフィーでは1番人気に推されるも、逃げるドリームサンデーを捉えきれず3着に敗れた。続く5月31日の目黒記念では道中3番手でレースを進めるも直線で伸びあぐねて4着に終わった。その後、準オープンクラスに降級となり、6月28日の垂水ステークスでは1番人気に推され、道中逃げるものの直線で失速して8着に敗れた。その後、全日本2歳優駿以来のダート戦となった柳都ステークスに出走したが、見せ場がなく13着と大敗した。その後、屈腱炎を発症し休養となった。休養明け初戦となった2010年11月20日の修学院ステークスではスペルバインドとの3着同着であった。12月19日の尼崎ステークスでは2番人気に推されたが、13着と大敗した。2011年1月15日の石清水ステークスでは道中2番手追走も逃げるクレバートウショウを捉えきれず2着に敗れた。2月13日の飛鳥ステークスでは2・3番手追走から抜け出すと後ろから追いあげてきたブラストダッシュをクビ差押さえて3年ぶりの勝利をあげた。半年の休養を挟んで出走した8月7日の関屋記念では好位追走から直線で早めに先頭に立って押し切り、きさらぎ賞以来3年半ぶりの重賞制覇を飾った。9月11日の京成杯オータムハンデキャップではフィフスペトルの3着となった。10月22日の富士ステークスでは先手を奪って逃げたが7着に沈んだ。11月20日のマイルチャンピオンシップでは好位で追走したが直線で伸びず12着と大敗した。休養明け緒戦となった2012年8月12日の関屋記念は好位追走も直線まったく伸びず16着と大敗。その後2走した後、左第一指骨剥離骨折が判明、休養に入った。2014年11月の武蔵野ステークスで約2年1か月ぶりに復帰したが、最下位の16着に敗れた。これが最後のレースとなり、2015年3月13日付けで競走馬登録を抹消された。引退後は三重県の名張トレーニングセンターで乗馬となる。母のギャンブルローズは京都牝馬ステークスと中京記念で3着となっている。産駒はレインボーペガサスのみでその後亡くなっている。祖母のユキノローズは中山牝馬ステークス勝ち馬である。
出典:wikipedia
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