初代総選挙(しょだいそうせんきょ)は、アメリカ合衆国とソビエト連邦によって分割占領された朝鮮のうち、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁統治下の南朝鮮単独で行われた韓国国会議員の総選挙。制憲議会選挙(せいけんぎかいせんきょ)とも別称される。なお、韓国では選挙の回数を、第○回では無く、第○代として表記するので、本稿でもそれに沿って記述する。この選挙は国際連合から派遣された国連朝鮮委員会(UNTCOK)が監視する中、朝鮮独立問題を解決するため1948年5月10日に実施された。(選挙実施に至る経緯については連合軍軍政期 (朝鮮史)を参照のこと。)選挙で選出された議員は制憲議会を開催し、独立国家の国名決定や大韓民国憲法の制定、及び大統領の選出といった大韓民国の独立に必要な各種準備を進めていった。信託統治問題をめぐって第2次米ソ共同委員会が決裂(1947年10月20日)すると、米国は朝鮮独立問題を国連に移管し、「国連の監視下で南北朝鮮総選挙を実施すると共に、国会による政府樹立を監視する国連臨時朝鮮委員団を朝鮮に派遣する」という提案を国連総会に上程し、11月14日に賛成43票、反対9票、棄権6票で可決された。これを受けて国連臨時朝鮮委員団(UNTCOK)は、翌1948年1月に南朝鮮入りし、李承晩や金九など有力政治指導者との会談などを行なった。単独選挙に反対の意思を示していた北朝鮮は国連朝鮮委員団の来訪を拒否した。国連では国連小総会における臨時朝鮮委員団の報告(1948年2月20日)を受けて、国連臨時朝鮮委員団が「任務遂行可能な地域」(南朝鮮)での単独選挙実施案が2月26日の国連小総会で賛成31票・反対2票、棄権11票の賛成多数で可決された。これを受けて、5月10日に国連臨時朝鮮委員団の監視下で総選挙が実施されることが決定した。選挙前、分断の固定化に繋がるとして南単独で総選挙を行なうことに反対する運動が全国各地で起こり、左右合作運動や南北協商を進めていた勢力は選挙に参加しなかった。これに対し米軍政庁は特別戒厳令を宣布し、反対運動を武力で抑えるなど、緊迫した状況の中で選挙が行なわれ、全土で発生したテロで600人が命を落とした(済州道では単独選挙に反対した島民や武装蜂起したゲリラを鎮圧した済州島四・三事件が発生したため、選挙は翌1949年に実施された)。左派や中間派がボイコットした結果、右派勢力が圧倒的多数を占める結果となった。しかし、李承晩系の独立促成国民会や地主有産階級の韓民党はふるわず、改革志向の無所属候補が多数当選し、院内における多数派となった。総選挙後の5月31日に制憲国会が開会、議長に李承晩、副議長に申翼熙が選出された。日本による植民地支配から解放された8月15日に政府樹立を宣言する必要性から、7月12日に大統領中心制を基礎に内閣責任制を部分的に取り入れた憲法草案が国会を通過、7月17日に交付され、同日から大韓民国憲法は発効された。続いて7月20日に国会議員による正副大統領選挙が行なわれ、大統領に李承晩、副大統領に李始栄が、それぞれ当選した(就任は7月24日)。
出典:wikipedia
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