第15代総選挙(だい15だい そうせんきょ)は、金泳三政権時の大韓民国国会を構成する国会議員を選出するため1996年4月に行なわれた韓国の総選挙で、1948年5月の初代総選挙から数えて15回目となる。韓国では選挙回数を「第○回」ではなく「第○代」と数える。また、名称も「総選挙」()ではなく、「総選」()と表記するのが一般的である。国会議員の任期満了に伴って実施された選挙である。今回の選挙は、前年の1995年に、金鍾泌の新党(自由民主連合)結成と、金大中の政界復帰および新党(新政治国民会議)結成によって、復活した「3金」(金泳三・金大中・金鐘泌)を中心とした政治体制に対する是非が問われる選挙戦となったが、3金が率いる政党がそれぞれの地域で強さを発揮、金泳三大統領与党の新韓国党が当初の予想に反して善戦する結果となった。前回までの国会議員選挙法に代わって、1994年3月16日に制定された「公職選挙及び不正選挙防止法」(通称「統合選挙法」)に拠って行われた。今回の選挙では、金泳三・金大中・金鍾泌の三金のお膝元である慶尚道・全羅道・忠清道で彼らが率いる政党が、圧倒的な強さを発揮する地域主義による政治構造が、前回選挙より強く現れる結果となった。具体的には新韓国党が釜山・済州道で、国民会議は光州・全羅南道、そして自民連が大田で全ての議席を独占し、特定の強い地盤を持たない民主党が大敗した。民主自由党(民自党)から党名を改めて総選挙に挑んだ与党・新韓国党は、当初苦戦気味で獲得議席は120~130議席ぐらいと見られていた。選挙の結果、獲得議席は139議席と過半数(150議席)を割り込んだが、各党が主戦場としていた首都圏で第一党となるなど善戦した。一方、前年政界復帰した金大中が率いる国民会議は第2党を維持したが、強いとされていたソウル市で与党に敗北、獲得目標としていた100議席を確保できず、全国区の名簿順位14位で立候補した金大中総裁自身も落選するなど厳しい結果となった。また首都圏と全羅道以外の地域区では当選者を出すことができず、国民会議の支持が地域的に偏っていることも露呈した。民自党から袂をわかって結成した金鍾泌率いる自由民主連合は、地元の忠清道だけなく、旧政権(盧泰愚)に対する報復政治で「反金泳三」感情が強い大邱で優位にたつなど躍進し、院内交渉団体資格の20議席を優に上回る50議席を確保したものの、ソウルで1議席も獲得できないなど限界も見せた。国民会議の結成により、有力議員が多数離党していた民主党は、在野勢力や市民運動団体関係者が結成した改革新党と統合した上で、韓国政治をゆがめている三金政治と地域主義の清算を掲げて選挙に挑んだが、李基澤顧問や金元基共同代表など幹部が次々に落選、全国区当選者を含めても15議席に留まり、目標としていた院内交渉団体となるために必要な20議席を確保できなかった。後に韓国大統領になった盧武鉉はソウル市鍾路区から選挙に立候補したが落選を余儀なくされた(なお、鍾路区における当選者は、やはり後の韓国大統領となった李明博である)。この選挙では地域区から21名、全国区では22名の合計43名の女性候補者が立候補した。選挙の結果、8年ぶりに地方区で2名(国民会議1名、無所属1名)が当選(88年と92年は全国区のみ)、全国区で7名が当選した。また、総選挙後に行なわれた1998年の補欠選挙で、朴正熙元大統領の娘である朴槿恵が当選し、地方区選出の女性議員は3名となった。この総選挙では、在野運動や労働運動及び市民運動のグループが独自候補擁立や野党勢力との統合を通して、積極的に選挙へ参加する動きがみられた。また、在野勢力は独自の進歩政党(国民政党)結成を視野に入れるようになった。88年と92年の総選挙でも在野勢力の選挙への参加や政党結成は行なわれてはきたが、組織としてではなく、運動家個人のつながりによるもので既存の政党政治に程なく吸収されていった。これに対し15代総選挙は、制度圏への組織的集団的参加が初めて試みられたが、参加方式は大きく分かれた。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。