伏 隆(ふく りゅう、? - 27年)は、中国の後漢時代初期の政治家。字は伯文。徐州琅邪郡東武県(山東省諸城市)の人。父は後漢第2代大司徒伏湛。弟は伏咸、伏翕。子は伏瑗。父とともに光武帝に仕えた政治家である。若くして節操をもって名を立て、郡の督郵に任命される。建武2年(26年)、伏隆は懐県(河内郡)の宮廷に滞在していた光武帝の謁見を賜り、親しく歓待された。その当時、群雄の1人張歩が斉に割拠し、獲索などの地方軍が蠢動していた。同年、伏隆は光武帝から太中大夫に任命され、符節を持って青州・徐州に向かい、各郡国の招撫を行う。伏隆が檄を発すると、獲索の6部隊が投降し、張歩も、光武帝の下へ帰還する伏隆に、書簡と献上品の鰒魚(アワビ)を持たせ、降伏した。同年冬、伏隆は光禄大夫に昇進し、再び張歩の下に赴いている。この際に、伏隆は詔書により県令以下の人事権を委任され、伏隆はさらに招撫活動を行い、多くの者を漢に帰属させた。光武帝は伏隆の功績を嘉し、酈食其に喩えている。しかし翌建武3年(27年)、張歩が東莱太守に任命されたところ、梁の皇帝劉永が張歩を斉王に封じて、これを自陣営に引き込もうとした。張歩は斉王たらんと欲したが、直ちに梁に寝返ろうとはせず、逡巡の姿勢を示して漢の出方を見ようとした。これに対して伏隆は「高祖が天下に約されたのは、劉氏に非ずんば王に非ずということです」と張歩に警告する。そこで張歩は、伏隆を味方に加えようとして、ともに青州・徐州を掌握しようと持ちかけたが、伏隆はこれを拒絶した。そのため、張歩はついに劉永の誘いに応じ、伏隆は拘禁されてしまう。伏隆は獄中から密かに光武帝に書簡を送り、自身の節義を証した。書簡を受け取った光武帝は、伏湛を呼ぶと、その面前で涙を流し「伏隆の節操は蘇武のそれに等しい。恨めしいことに、直ちに彼を救うことができない」と嘆じた。同年2月、伏隆は張歩により処刑され、当時の人々は痛惜したという。建武5年(29年)、再び張歩を降した光武帝は、伏隆の弟伏咸に命じて伏隆を弔わせ、また、伏隆の子伏瑗は郎中として登用した。
出典:wikipedia
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