エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル(、1891年11月15日 - 1944年10月14日)はドイツの陸軍軍人である。第二次世界大戦におけるフランス、北アフリカにおける驚異的な活躍で砂漠の狐として知られる。砂漠のアフリカ戦線において、巧みな戦略・戦術によって戦力的に圧倒的優勢なイギリス軍をたびたび壊滅させ、英首相チャーチルに「ナポレオン以来の戦術家」とまで評された。貴族(ユンカー)出身では無い、中産階級出身者初の陸軍元帥でもある。数々の戦功だけでなく、騎士道精神に溢れた行動・多才な人柄・悲劇的な最期・SS(親衛隊)ではなく国防軍の所属であったことなどから、当時のみならず現在でも各国での評価・人気が高い将帥の一人である。エルヴィン・ロンメルは、1891年11月15日の日曜日の正午、ドイツ帝国領邦ヴュルテンベルク王国のハイデンハイム・アン・デア・ブレンツ()において生まれた。この町はウルム郊外の町である。父エルヴィンは、ハイデンハイムの実科ギムナジウム()の数学教師であり(ロンメルは父の名前をそのまま与えられた)。また、祖父も教師だった。父も祖父も多少だが数学者として名の知れた人物であり、地元ハイデンハイムでは、かなり尊敬されていた人物であった。母ヘレーネは、ヴュルテンベルク王国政府の行政区長官で地元の名士であるカール・フォン・ルッツの娘である。父母ともにプロテスタントだった。兄にマンフレート、姉にヘレーネ、弟にカールとゲルハルトがいた。兄のマンフレートは幼いころに死去した。父が若いころに砲兵隊にいたことを除いて、ロンメル家は軍隊とほとんど関係しておらず、軍部への有力な縁故もなかった。また、教養市民階級出身という彼の出自は、貴族主義的なドイツ陸軍において、決して有利であったとはいえない。子供の頃のロンメルは、病気がちで大人しい少年だったという。姉ヘレーネによると、ロンメルは、色白で髪の色も薄かったので、家族から「白熊ちゃん」とあだ名されていた。しかし、ロンメル本人は、人事記録の中に挟んだ覚書の中で、「幼い頃、自分の庭や大きな庭園で走り回って遊ぶことができたので、とても幸せだった」と述懐している。1898年、父がアーレンの実科ギムナジウムの校長となったことで、一家はアーレンに引っ越したが、アーレンには小学校()がなかったため、ギムナジウムに入学するまでの間、ロンメルは家庭教師から授業を受けていた。そして、1900年には、父親が校長を務める実科ギムナジウムに入学した。当初、ギムナウジムでは劣等生であり、怠け者で注意散漫だったという。あるとき、勉学に不熱心だったロンメルに勉強させるため、教師が「書き取りテストで間違いしなければ、楽隊と一緒に遠足に出かけよう」と彼に言うと、ロンメルは、これを真に受けて必死に書き取りの勉強をして、テストで間違いをしなかったが、約束の遠足につれて行ってもらえなかったので、また勉強をしない生徒に戻ってしまったという。読書にも運動にも興味がない子供だったが、10代になると突然活発になった。数学の成績が良くなり、スポーツにも関心を持つようになった。また、飛行機の研究に夢中になり、14歳の頃には親友と二人で実物大のグライダーを作成した。結局、まともには飛ぶことはなかったが、ヨーロッパでは1906年に初めて動力を備えた飛行機が飛行したばかりであった。ロンメルは、航空機関連のエンジニアになることを希望していたが、父親がそれに反対したため、ヴュルテンベルク王国軍に入隊することになった。軍に入ることについて、本人はあまり乗り気でなかったらしい。1910年7月19日にヴァインガルテン()に駐留するヴュルテンベルク王国陸軍第6歩兵連隊「ケーニヒ(国王)・ヴィルヘルム1世」(ドイツ帝国陸軍第124歩兵連隊)()に下級士官候補生()として入隊した。下士官として半年の部隊勤務を経た後、1911年3月にプロイセン王国ダンツィヒの王立士官学校に進んだ。士官学校在学中には、当時ダンツィヒに語学の勉強に来ていたルーツィエ・マリア・モーリン()と出会った。士官学校卒業後もルーツィエと手紙で連絡を取り合い、二人は1916年に結婚した。1912年1月27日に少尉に任官し、第124歩兵連隊に戻った。ロンメルは、新兵の訓練を担当した。この頃から、ロンメルは自分のカリスマ性を存分に発揮している。1913年12月8日、ヴァルブルガ・シュテマー()との間に私生児の娘ゲルトルートをもうけ、生活費を送る代わりに表沙汰にしないことで合意した。しかし、シュテマーは、1928年に肺炎もしくは自殺で死去した。ロンメルは、後に妻のルーツィエにゲルトルートの存在を打ち明け、彼女はロンメルの「親類」として戦中から戦後まで一家と親しく付き合った。事情を教えられていなかった息子のマンフレートは、ゲルトルートを「従姉妹」と呼んでいた。1914年3月に第124歩兵連隊と同じく第27歩兵師団の指揮下であるウルム駐留のヴュルテンベルク王国陸軍第3野戦砲兵連隊(ドイツ帝国陸軍第49野戦砲兵連隊)に転属となった。しかし、第一次世界大戦の開戦により第124歩兵連隊に復帰し、同歩兵連隊隷下の第2大隊第7中隊に所属する小隊の小隊長に就任した。1914年7月末から8月初めにかけて、第一次世界大戦となる各国の戦闘が続々と勃発した。ドイツ軍とフランス軍は、1914年8月3日に開戦した。ロンメル少尉の所属する第124歩兵連隊は、第5軍(司令官ヴィルヘルム皇太子)隷下の第13軍団隷下の第27歩兵師団隷下として、対フランス戦に動員された。ロンメルがはじめて実戦に参加したのは、8月22日午前5時頃、ベルギー南部のフランス国境付近の村ブレド()だった。この時のロンメルは、前日に一日中偵察をさせられるなど疲労困憊であり、また胃痛も発症していた。しかし、実戦を前に逃げ出そうとしている卑怯者と思われるのが嫌で、上官にはそのことを黙っていた。銃弾が飛び交う霧の中、ロンメル率いる小隊は、ブレド村に近づき、少数で村の中に偵察に入ってフランス軍に攻撃を仕掛けるも失敗し、村の外で待機していた小隊主力と合流した。ロンメルは、自分の小隊を二つに分けてすぐに再攻撃を行った。一隊がフランス兵が隠れた建物の正面から攻撃を仕掛け、もう一隊は建物側面から攻撃をかけて最初の建物を制圧した。続いて他の建物にも次々と火を放っていった。しかし、フランス軍の抵抗も強く、ロンメルの小隊から負傷者が多数出た。また、ロンメルが作戦中に疲労と胃痛でしばしば意識を失ったので、副官の軍曹が代わりに小隊の指揮を執ることがあった。その後、同じ第2大隊に所属する別の小隊が応援に到着し、加えてブレド村北東325高地がドイツ軍によって占領されたことで、ブレド村のフランス軍は投降した。戦闘が終わった後のブレド村は、兵士たちや巻き込まれた民間人、牛馬の死体があちこちに転がり、悲惨な状態になった。ロンメルの戦友も数人戦死し、彼はずいぶん落胆したという。第124歩兵連隊は国境を超えてフランス領へ侵攻し、ムーズ川ほとりの町デュン()に到着(ヴェルダンから北28キロほど)。ムーズ川渓谷での激戦に参加した。ムーズ川は天然の要塞であり、フランス軍砲兵部隊の激しい砲火が降り注ぐため、突破するのは極めて困難だった。ロンメルの小隊が属する第7中隊中隊長も負傷し、一時的にロンメルが中隊長代理に就任して指揮権を引き継いでいる。ロンメルは中隊を率いてフランス軍砲兵陣地へ攻撃をかけるも失敗し、第2大隊主力を発見して合流した。新しい第7中隊長が決まると、ロンメルは小隊長に戻った。この頃、第124歩兵連隊への補給が途絶え、道端の草を食って飢えを凌いでいた兵士たちの中に腹痛を起こす者が続出し、連隊の戦力は大きく低下した。続いて9月12日のヴェルダンの敵拠点への攻撃に失敗したことで、連隊は大きな損害を出した。同日に連隊は回復のため後方に下げられた。その日の午後、ロンメルは疲れ切って第2大隊司令部で大隊長副官として勤務中に居眠りしてしまい、同僚や上官が起こそうとしても起きずに眠り続けたので、翌13日に目を覚ました時には、上官にこっぴどく叱られたという。9月22日から第124歩兵連隊は、モンブランヴィル()での戦闘に参加した。9月22日の戦闘では、大隊長副官ロンメルの補佐により第2大隊は大きな戦果をあげた。しかし、9月24日のヴァレンヌ=アン=アルゴンヌ付近の戦闘で、銃剣術に覚えのあったロンメルは、フランス兵3名に弾の入っていない銃剣で立ち向かおうとし、片足の上腿部を撃ち抜かれて負傷してしまった。木の後ろに隠れたロンメルは、部下たちに救助されて簡易な野戦病院へと運ばれた。さらに、翌朝にはストゥネ()の将校野戦病院へ移送された。入院中の9月30日に二級鉄十字章の受章を受けた。1915年1月13日に第124歩兵連隊に復帰した。この頃から、ドイツ軍もフランス軍も、自分から攻撃するより相手が攻撃してきたところを返り討ちにする方が打撃を与えやすいと判断して、大規模な攻撃には出なくなった。そのため、西部戦線は、塹壕戦による消耗戦の様相を呈していた。第124歩兵連隊もアルゴンヌの森()の西部で塹壕戦を展開していた。ロンメルは、第2大隊隷下の第9中隊長に任じられた。ロンメルは、中隊を率いて匍匐前進しながらフランス軍の築いた有刺鉄線の鉄条網を隙間を通り抜けて進み、フランス軍主陣地に突入し、掩蔽部4か所を占領した。取り戻そうと襲撃してきたフランス軍の反撃を一度は退けたが、結局、新しい攻撃を受けるのを避けるため、自軍の陣地に後退するのを余儀なくされた。しかし、ロンメルは、その後退を12人足らずの損害で達成した。ロンメルは、この際の勇戦ぶりを評価されて、1915年3月22日に一級鉄十字章を授与された。第124歩兵連隊の中尉・少尉階級の者の中では、初めての受章だった。第124歩兵連隊は、その後もアルゴンヌに留まったままフランス軍と消耗戦を続けた。7月にロンメルは向こう脛に砲弾の破片を受け、二度目の負傷をした。1915年9月に中尉に昇進するとともに、新たに編成される「ヴュルテンベルク山岳兵大隊」()への転属を命じられた。10月4日付けで正式に「ヴュルテンベルク山岳兵大隊」へ転属。同大隊の中隊長となった。これまでドイツ帝国のいずれの領邦も本格的な山岳部隊は持っておらず、急遽ドイツ帝国南部に位置するバイエルン王国とヴュルテンベルク王国が山岳兵部隊を編成することになったのであった。ヴュルテンベルク山岳兵大隊は、同盟国のオーストリア=ハンガリー帝国のアルプス山脈でスキー訓練など受けた後、1915年12月31日にヴォージュ山脈ヒルツェン丘陵でフランス軍と戦ったが、ここでの戦闘は緩やかで、比較的のんびりと1年ほど戦った。1916年10月末、山岳兵大隊はルーマニア戦線に転戦した。同大隊は11月11日にレスルイ山の戦闘でルーマニア軍の守備隊を撃破した。この後、ロンメルは一時休暇をもらって大隊を離れ、1916年11月27日にダンツィヒにおいてルーツィエと簡易な結婚式をあげた。ハネムーンなどはせず、すぐにルーマニア戦線に復帰した。1917年1月7日にロンメルが率いる中隊はガジェシュチ村()で大戦果をあげ、360人ものルーマニア兵を捕虜にした。1917年1月中旬に山岳兵大隊は、ルーマニア戦線からヒルツェン丘陵へ戻り、フランス軍と戦った。しかし、7月末には再びルーマニア戦線に送られた。コスナ山に強固な要塞を作っていたルーマニア軍と激闘になった。8月10日には弾丸が左腕を貫通するという三度目の負傷をしたが、彼は構わず戦闘に参加し続けた。傷口を放置したせいで高熱にうかされたが、ロンメルはベッドの中から命令を発し続けたという。ロンメルを初めとして、山岳兵大隊は奮戦したが、結局コスナ山を占領することはできず、8月25日に山岳兵大隊は第11予備歩兵連隊と交替することとなり、後方に下げられた。負傷した腕の治療のため一月ほど休養に入り、その間は妻ルーツィエと一緒に過ごした。ヴュルテンベルク山岳兵大隊は1917年9月26日に北部イタリア戦線に動員された。ロンメルは1917年10月上旬にイタリアで戦う山岳兵大隊に復帰し、山岳三個中隊と機関銃一個中隊からなる任務部隊司令官に任じられた。カポレットの戦いにおいてドイツ第14軍司令官オットー・フォン・ベロウは戦略的要衝であるマタイユール山()やコロヴラト山脈()の1114高地を最初に占領した部隊の指揮官にはプール・ル・メリット勲章を与えると布告した。これは1667年制定の由緒ある戦功勲章でドイツ帝国一般軍人の事実上の最高武勲であった。これにより各部隊の指揮官の競争が凄まじいことになった。ロンメルは自分の名誉欲で部下を犠牲にするような男ではなかったが、名誉に関心がないわけでもなく、ロンメルの部隊もこれらの要衝の占領を目指すことにした。ロンメルの部隊は、コロヴラト山脈の陣地の占領にあたって大きな功績を果たした。夜間に敵陣地に偵察を行い、配備の隙間を発見してそこを通過してモンテ・クク山を強襲した。突然ロンメルの部隊が背後に現れたことにイタリア軍はパニックとなり、総崩れ状態となった。部下に無茶な進軍をさせて前進を阻まれていたフェルディナント・シェルナー少尉率いるバイエルン軍部隊がその隙に1114高地を占領し、シェルナーがプール・ル・メリット勲章を受章した。ロンメルはこれについて論功行賞のあり方が公正ではないと憤慨していた。ロンメルは続いてマタイユール山の攻略を狙い、上官からバイエルン連隊に付随せずに右翼から単独で攻撃をかける許可をもらい、50時間にも及ぶ行軍と戦闘の末に10月26日朝にマタイユール山を攻略した。イタリア兵が異常に無気力だったこともあって、500人のロンメルの部隊は、5人の戦死者と20人の負傷者を出しただけで9,000人のイタリア兵を捕虜としていた。ところがマタイユール山と間違えて別の山を占領したヴァルター・シュニーバー中尉が「マタイユール山を占領した」と第14軍司令部に報告していたため、ベロウ将軍はカイザー・ヴィルヘルム2世にシュニーバー中尉を推挙し、結果彼がマタイユール山占領の功績でプール・ル・メリット勲章を受章することになった。ロンメルはこれに激怒して正式に上官に抗議したが、決定は覆せないと認められなかったという。しかしまだイタリアとの戦争は続いており、チャンスはあった。ロンメルは退却するイタリア軍の追撃戦で活躍し、ロンガローネのイタリア軍基地への攻撃において勇戦し、やはり無気力なイタリア兵を8000名も捕虜にした。この結果、1917年12月13日にヴィルヘルム2世はついにロンメルにたいしてプール・ル・メリット勲章の受章を認めた。受章理由にはマタイユール山奪取とロンガローネの戦いの勇戦、どちらもあげられていた。しかしロンメルはマタイユール山奪取の功績でプール・ル・メリット勲章を手に入れたと主張していた。その後1918年2月に西部戦線へ転戦したが、まもなく幹部候補の一人として第64軍団司令部に参謀として配属されることとなった。以降一次大戦中は敗戦まで前線に戻る事はなかった。1918年10月18日に大尉に昇進した。1918年11月初めにキールの水兵の反乱を機にドイツ全土に反乱が広がり(ドイツ革命)、カイザー・ヴィルヘルム2世は11月10日にオランダへ亡命、翌11日にはドイツ社会民主党の主導する新ドイツ共和国政府がパリのコンピエーニュの森で連合国と休戦協定の調印を行った。第一次世界大戦はここに終結した。ロンメルは、1918年12月21日に古巣の第124歩兵連隊に再配属された。1919年3月にはフリードリヒスハーフェンの第32国内保安中隊の指揮官に就任。この部隊には革命派の兵士が多く、彼らは上官ロンメルの命令を平気で無視し、プール・ル・メリット勲章にもまるで敬意を払おうとしなかったというが、ロンメルの人格によってまとめ上げられ、部隊は規律を回復したという。敗戦国ドイツへの責任追及は過酷を極めた。1919年6月28日にドイツと連合国の間に締結されたヴェルサイユ条約によって天文学的賠償金が課せられた。また国境付近のドイツ領土は次々と周辺国に奪われ、ドイツ領土は大きく縮小した。軍については陸軍兵力を小国並みの10万人(将校4000人)に限定され、戦車、潜水艦、軍用航空機など近代兵器の保有を全て禁止された。1919年7月31日にはヴァイマルで開かれた国会でヴァイマル憲法が採択され、ドイツは民主国家となった。所謂「ヴァイマル共和国」の時代が始まった。ちなみに将校4000人という制限は、軍に残る事を希望するドイツ帝国将校6人のうち1人だけがヴァイマル共和国陸軍に残れるという倍率をもたらした。そしてロンメルはヴァイマル共和国陸軍将校に選び残された者の1人であった。この後、ロンメルは9年ほどシュトゥットガルトの第13歩兵連隊に所属し、1924年からは同連隊の機関銃中隊長となった。この間、特筆すべきことはほとんどないが、1928年12月に長男のマンフレートが生まれている。彼は戦後シュトゥットガルトの市長を長年務めている。1929年10月1日にドレスデン歩兵学校の教官に任じられた。多くの実戦経験を持つロンメルの講義は生徒たちに人気があったという。1933年1月30日に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)党首アドルフ・ヒトラーがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりドイツ国首相に任命された。ロンメルはこれまで政治にはほとんど関わらなかったが、他の多くのドイツ軍人達と同様にヒトラーの登場には熱狂し、彼の反共主義と軍拡のイデオロギーを歓迎した。1933年10月10日に少佐に昇進するとともにゴスラーに駐屯する第17歩兵連隊の第3大隊長に任じられた。1934年9月30日に収穫祭のためにヒトラーがゴスラーを訪問した。この時にロンメルの大隊はヒトラーを出迎える儀仗兵の任につき、ロンメルとヒトラーが初めて対面することとなった。もっともこの時にロンメルが公的な関係以上に何か特別に扱われたという形跡はない。またロンメルがヒトラーについてどう感じたかを示す証拠もない。ただこの閲兵式の直前にロンメルは、警護問題をめぐってSSと言い争ったという。「閲兵式においても警護のためSS部隊が最前列になるべきである」と主張したSS隊員にロンメルは激怒して、「ならば私の大隊は閲兵式には出席しない」と言い返して騒ぎになり、ヒトラーに随伴していた親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーから直接に「部下の非礼を詫びたい」と謝罪を受けたという。1935年3月1日に中佐に昇進した。1935年10月15日に新設されたポツダム歩兵学校の教官に任じられた。この学校でもロンメルは非常に好感をもたれる教官であったという。1936年9月のニュルンベルク党大会でヒトラーの護衛部隊(、)の指揮官に任じられた。この時にロンメルは「私の後ろについてくる車は6台に限定せよ」という総統命令を厳守し、ヒトラーに随伴しようと押し寄せてくる党幹部の車を押し止めた。この件でヒトラーはロンメルに注目するようになったという。しかしヒトラーがロンメルを決定的に評価するようになったのは、1937年初期にロンメルがフォッゲンライター出版社から『歩兵攻撃()ISBN 978-1-85367-707-6』を出版したことだった。これはロンメルが教官として行った講義をまとめた物であり、ロンメルの一次大戦での経験が分かりやすい文章と挿絵付きで書かれていた。この本は50万部を売り切るベストセラーとなり、各方面からの高評価を受け、一次大戦で歩兵だったヒトラーも自分の経験に照らし合わせてこの本を激賞した。なおロンメルはこの本の印税に関してフォッゲンライター出版社と結託して脱税をした。ロンメルは『歩兵攻撃』によって巨額の印税を得ていたが、この際にロンメルはフォッゲンライター出版社と結託して、1年間の生活に必要な1万5000ライヒスマルクだけを自分に支払わせ、残りは銀行預金にして寝かせ、税務署への所得申告において軍から支給されている給料以外の所得を1万5000ライヒスマルクと偽って申告した。1937年2月にロンメルはナチ党のヒトラー・ユーゲントに国防省連絡将校として派遣された。ロンメルは国防軍の下級将校の指導による軍事教練をユーゲント団員に施すことを企図し、全国青少年指導者バルドゥール・フォン・シーラッハとの折衝にあたったが、ユーゲントの指導権を軍に奪われることを恐れるシーラッハはこれに反対し続けた。ロンメルとシーラッハの関係は悪くなる一方で二人は劇場での席次など些細なことでも争う様になった。この任にあった頃の1937年8月1日に大佐に昇進した。シーラッハとの衝突にも関わらず、ヒトラーのロンメルへの信任は失せなかった。1938年9月にズデーテン併合にあたってヒトラーはロンメルを再び総統護衛部隊隊長に任じ、自らの護衛を任せた。この頃にはロンメルは完全なヒトラー支持者になっており、次第にヒトラー讃美がエスカレートしていった。妻への手紙には「(ヒトラーは)ドイツ国民を太陽の下へ導きあげるべく、神、あるいは天の摂理によって定められている」と書き、友人への個人的な手紙には文末に「ハイル・ヒトラー、敬具、E・ロンメル」と記す程になっていた。ヒトラーにとってもロンメルはお気に入りの将校だった。ロンメルは貴族階級出身の将校ではなく、そうした貴族将校たち特有の平民出のヒトラーを見下したような態度がなかったこともヒトラーの好感につながったと思われる。1938年11月10日にはウィーン郊外のヴィーナー・ノイシュタットの士官学校の校長に任じられた。ロンメルはこの学校をドイツ、そしてヨーロッパでもっとも近代化されている士官学校にしようと張り切っていたが、ヒトラーの警護隊長にしばしば任じられたため、彼はあまりこの学校にいなかった。1939年3月15日にチェコスロバキア併合があると、ヒトラーは再びロンメルを総統警護部隊の指揮官に任じて、自分の警護にあたらせた。チェコはオーストリアやズデーテンと違い、ドイツ系が少ないため、ヒトラーが出向いても歓迎されるとは思えなかった。暗殺の危険も大きかった。ヒトラーがロンメルに「大佐、貴官が私の立場なら、どうするかね?」と聞くと、ロンメルは「オープンカーに搭乗し、重武装の護衛無しでプラハ城まで乗り込み、ドイツのチェコスロバキア統治が始まったことを内外に向けて示します」と答えた。ヒトラーは、他の者たちの反対を押し切って、ロンメルの意見を容れ、ロンメルたちを護衛に付けたのみで無事にプラハ城に乗り込んでいる。続く3月23日のメーメル返還でヒトラーがメーメルへ向かった時にもロンメルは総統警護大隊の隊長を務めた。1939年8月1日に少将に昇進した。6月1日に遡及しての昇進である事を認められた。これはロンメルを寵愛するヒトラーの特別な決定によるものである。ロンメルは妻への手紙で「私が聞き知ったところによると先の昇進はひとえに総統のおかげだ。私がどれほど喜んでいるか、お前にも分かるだろう。私の行動とふるまいを総統に承認していただく事が私の最高の望みなのだ。」と書いている。ヒトラーの寵愛は続いた。1939年8月22日を以ってヴィーナー・ノイシュタットの士官学校の校長職を辞し、8月25日に「総統大本営管理部長」に任じられた。これまでのような期間限定の警護隊長ではなく、常時ヒトラーの警護を行うこととなった。1939年9月1日にドイツ軍のポーランド侵攻、続く英仏のドイツへの宣戦布告をもって第二次世界大戦が開戦した。ロンメルは熱狂をもって戦争を迎えた。妻に「君は9月1日のこと、つまりヒトラーの(ポーランドとの開戦を発表する国会での)演説をどう思うかな?我々がこのような人物を持っている事は実にすばらしいではないか。」と書き送っている。彼は一次大戦の敗戦でポーランドに奪われたポーランド回廊と国連の管理下に置かれたダンツィヒをドイツの手に取り戻す必要性を感じていた。総統大本営管理部長としてヒトラーの警護に責任を負うロンメルは、総統専用列車「アメリカ」に乗って前線視察に出たヒトラーに同伴してポーランドへ向かった。ヒトラーはポーランド戦中、3週間も前線視察に出ていた。なおヒトラーがポーランドの港町グディニャを訪れた際にロンメルはマルティン・ボルマンと揉めたという。総統大本営管理部長としてヒトラーの警護に責任を負うロンメルは、ヒトラーのグディニャ視察の際に急な下りで幅が狭い街路に通りかかると「総統の車と警護の車一車両のみが下るものとする!他はここで待て!」と指示した。しかし総統の側近であるマルティン・ボルマンはヒトラーと切り離されることに激怒し、ロンメルに抗議を行ったが、ロンメルは「私は総統大本営管理部長だ。これは遠足じゃない。貴方も私の指示に従っていただく!」と言い返してボルマンの車を通過させる事を拒否したという。ボルマンはこの事を執念深く覚えており、5年後にロンメルに復讐することになる。1939年10月5日にワルシャワでヒトラー出席のドイツ軍の戦勝祝賀式典が行われることになり、ロンメルは10月2日にワルシャワに入り、会場とその周辺に警備上の問題がないかの視察を行った。10月5日の戦勝祝賀式典ではヒトラーの隣に立つロンメルの姿が映像に残っている。ヒトラーもロンメルもポーランドを落とせば英仏は講和を申し出てくると思っていた(実際に英仏は宣戦布告してきただけでポーランド戦中、ドイツに攻撃を行ってくる様子はほとんどなかった)。しかし英仏はポーランドが陥落してもドイツの呼びかけに歩み寄る姿勢は全く見せなかった。軍部は軍事力の上で圧倒的に勝っている英仏と戦火を交えることを嫌がっていたが、ヒトラーはこうした反対を退けてフランス侵攻を決意した。ポーランド戦後、ベルリンで退屈な日々を送ることになっていたロンメルは、来るフランス戦では前線勤務をしたいと志願した。陸軍人事部長は一次大戦での彼の経験に基づき山岳師団師団長をロンメルに提示したが、ロンメルはヒトラーに装甲師団の指揮を取りたいと求めた。陸軍人事部長は歩兵科のロンメルに装甲師団を任せることに反対していたが、ヒトラーの介入で許可された。こうして1940年2月15日にロンメルは新編成された第7装甲師団()の師団長に任命されることとなった。ちなみにフランス戦においてはドイツ軍136個師団のうち装甲師団は10個師団しかなかった。そのうちの一つである第7装甲師団が有する戦車の数は225両だった。I号戦車(機関銃のみ)34両、II号戦車(2センチ砲)68両、III号指揮戦車(火砲の代わりに指揮用の大型無線機が付いた戦車)8両、IV号戦車(短砲身7.5センチ砲)24両、ドイツがチェコを併合した後に獲得したチェコスロバキア製の38(t)戦車(3.7センチ砲)91両である。師団の多数を占める38(t)戦車は装甲が薄いが、重量は9トン足らずであったので速度が速く、対フランス戦のような機動戦には非常に向いていた。普通のドイツ軍装甲師団は2個装甲連隊と2個狙撃兵連隊で編成されたが、第7装甲師団は、狙撃兵連隊は通常通り2個連隊あったが、装甲連隊は第25機甲連隊が1個だけで(この装甲連隊は2個装甲大隊で編成された)、他に装甲連隊に属さない1個装甲大隊があるだけだった。積極的な歩兵攻撃の論者だったロンメルだが、彼は驚くべき早さで戦車の運用知識を身に付けた。2月27日にロンメルはベルリンへ飛び、ヒトラーに師団長就任の報告をした。ヒトラーより「楽しい思い出と共にロンメル将軍に贈る」と書き添えた『我が闘争』を贈られた。参謀本部はヒトラーにフランス侵攻作戦案を提出したが、一次大戦のシュリーフェン・プランと大差がないことからヒトラーが却下し、紆余曲折の末にA軍集団参謀長エーリヒ・フォン・マンシュタイン中将の立案による「マンシュタイン・プラン」が採用された。これは装甲師団を中央のA軍集団に集中させ、ベルギー南部のアルデンヌの森(この森は道がないため、戦車の機動は無理と考えられており、フランス軍はここを手薄にして「アルデンヌの間隙」を作っていた)を通過させて英仏海峡まで一気に進軍し、ベルギー・北フランスに展開する連合国主力を孤立させるというものだった。ロンメルの第7装甲師団は、A軍集団()(司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット上級大将)隷下の第4軍(司令官ギュンター・フォン・クルーゲ上級大将)隷下の第15装甲軍団(軍団長ヘルマン・ホト大将)の隷下となった。同じ第15装甲軍団隷下に第5装甲師団()があった。第7装甲師団の役割は先頭に立ってアルデンヌの森を通過し、エヴァルト・フォン・クライスト大将率いる「クライスト装甲集団」(5個装甲師団から成る)を北の連合国主力の攻撃から守り、英仏海峡までの西進を邪魔されないようにすることにあった。しかしロンメルは自分の師団も英仏海峡まで一気に進軍したいと思っていた。1940年5月9日午後1時45分にフランス侵攻作戦「黄色の件(Fall Gelb)」の暗号「ドルトムント」がロンメルに伝達された。これを受けてロンメルの第7装甲師団は同日午後11時40分に所定の位置に付いた。戦局はドイツ軍に不利と思われた。ドイツ軍の戦車は2800両だったが、対する連合軍の戦車は4000両だった。戦車の装甲や火力も連合軍が勝っていた。ただ戦車の速度においてのみドイツ軍が勝っていた。そして西方電撃戦では速さが一番重要だった。ロンメルの第7装甲師団は特に素早く進軍し、しばしば師団の主力が師団の先頭に置き去りにされた。ロンメルの搭乗する戦車は常に師団の先頭に立って前進した。通常交戦が始まると身を隠すためや敵の規模・装備を確認するためにその場に停止するが、ロンメルは交戦中も常に前進を命じた。それによって敵に第7装甲師団がどこにいるのか分からなくし、敵に自ら拠点を放棄させることに繋げようとした。ドイツ本国ではロンメルの師団は「全ドイツ軍師団のうち、最も西にいる師団」として評判だった。必要とあれば航空機に乗って後続の砲兵部隊や自動車化歩兵部隊の下に駆けつけて指示を与えたり、叱咤激励をした。部下の将兵たちの間で「不死身のロンメル」伝説が広まり、絶大な信頼を寄せられた。第7装甲師団は、この戦争において主要な役割を割り当てられていたわけではない。しかしその進軍スピードの速さから連合国は「いつの間にか防衛線をすり抜けている」という意味で「幽霊師団(英:Ghost Division、仏:Division Fantôme、独:Gespensterdivision)」と呼んで恐れた。1940年5月10日午前4時35分にロンメルの第7装甲師団は国境を超えてベルギー領へ侵攻を開始した。第7装甲師団の進路にベルギー軍が配置していたのは障害物(バリケードと橋の爆破)と軽装備のアルデンヌ猟兵第3連隊だけだった。第7装甲師団はこれらを排除しつつ急ピッチで前進した。ドイツ軍第7装甲師団がアルデンヌの森を通過しようとしていることを察知したフランス軍は第1・第4軽騎兵師団を差し向けたが(この両軽騎兵師団は騎兵旅団と機甲旅団で編成されていた)、第7装甲師団の奇襲を受けるとすぐに西に撤収していった。5月10日から5月12日の3日間で第7装甲師団はアルデンヌの森を横断し、5月12日の夜遅くに一次大戦の頃にも悩まされた天然の要塞ムーズ川に面した町ディナンに到達した。ロンメルはできれば撤退するフランス軍第1・第4軽騎兵師団の後に続いて一気に橋を渡りたかったが、ちょうど第7装甲師団が川に到着した頃にディナンにかかっていた橋が爆破されたため、ゴムボートと舟橋を使っての渡河作戦を実施せざるを得なくなった。ロンメルはまだ暗いうちに第7装甲師団の歩兵をゴムボートで西岸に渡し、明け方までに1個中隊ほどの歩兵を西岸に渡した。工兵たちに戦車を渡らせるための舟橋の建設を急がせた。しかしやがてフランス軍に発見され、西岸の切立った堤防上のフランス軍陣地から激しい銃撃と砲撃に晒され、渡河作戦は停滞した。ロンメルは河川にある民家に火を放って川に煙幕を張り、また戦車や対戦車砲に西岸のフランス軍陣地があると思わしき場所に向けてじゅうたん砲撃を加えるよう命じた。その砲撃支援の下にディナンとその少し北方のレフェ()で渡河作戦を再開させた。ロンメルは工兵たちに叱咤激励しながら自らも川の中に飛び込んで角材やロープを運んで舟橋建設を手伝った。架橋材料を使い果たすとロンメルは同じ第15装甲軍団に属する第5装甲師団から資材を盗んでいる。第5装甲師団長はロンメルに返却を求めたが、ロンメルは「我々が最初に渡河するのだ」と言って聞かなかったという第7装甲師団は多くの死傷者を出しながらも5月13日中にはレフェに架橋することに成功し、戦車のムーズ川渡河を成功させた。5月14日早朝、すでに渡河していた30両の戦車だけでディナンの西約5キロのオナイユ()へ進撃を開始した。これによりフランス軍が対応を決定するより早く部隊を浸透させることに成功した。ところがオナイユ近くでロンメルの搭乗するIII号指揮戦車が対戦車砲を食らって坂から転がり落ちた。ロンメルは何とか脱出したが、顔を負傷した。フランス植民地から連れてこられた有色人兵士たちが、ロンメルを捕虜にしようと接近してきたが、隷下のカール・ローテンブルク大佐()率いる第25装甲連隊がこれを蹴散らしてロンメルを救出した。ロンメルは自分の戦車がやられたのは移動しながら攻撃をしなかったためだと考え、改めて師団の各戦車に「敵と遭遇しても停止せずに砲弾を撃ちながら強行突破せよ」と命じた。転倒したIII号指揮戦車は動かなくなったため、ロンメルはローテンブルク大佐の搭乗するIV号戦車に同乗するようになった。フランス軍第9軍()司令官アンドレ・ジョルジュ・コラップ中将()はロンメルの第7装甲師団のこのオナイユへの進軍とハインツ・グデーリアンの装甲軍団のスダンでの渡河成功を恐れ、ムーズ川の防衛線を放棄してさらに西へ退却する事を命じた。ロンメルの師団はフラヴィオン()で重戦車ルノーB1の燃料切れで停止していたフランス軍第1機甲師団と戦闘した後、ここを後続の第5装甲師団に任せて、フィリップヴィル()へ進撃した。しかし5月16日にA軍集団司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット上級大将は先頭に立って進軍する装甲師団が突出しすぎていると判断して装甲師団に進軍停止を命じた。ヒトラーもそれに同意し、5月17日の総統命令で装甲師団の進軍停止を命じた。しかしロンメルはそれでは心理戦である電撃戦の効果が薄れると考え、ヒトラーやルントシュテットの命令を無視して進軍を続けた。命令無視は本来は軍法会議にかけられるべきであるが、ヒトラーはロンメルを目覚ましい活躍をした装甲師団長として英雄化することを考えていたのでロンメルがこの命令無視によって何か処分を受けることはなかった。ロンメルはクルト・ヘッセ大佐に「この戦争では指揮官の位置は第一線だ。私は椅子に腰かけている連中が出す戦略など信じない。今はザイトリッツやツィーテンの時代と同じだ。我々は戦車をかつての騎兵とおなじように考えねばならない。かつて将軍たちが馬上で命令を下したように、今は移動する戦車の上で命令を下さねばならない。」と語っている。ロンメルの師団は5月16日午後6時頃にベルギーとフランスの国境を超えて、フランス領へ突入した。その30分後、フランスの国境要塞地帯マジノ線延長部分と遭遇した。これはマジノ線そのものではなく、フランスが防衛線を西方にも延長しようとしてマジノ線から分離して作った物である。ただロンメルを含めてドイツ軍側は区別せず、まとめて「マジノ線」と呼んでいた。マジノ線延長部分はマジノ線と比べれば貧弱な防衛線であった。それでも頑強なトーチカと砲台と有刺鉄線と地雷原で固められていた。ロンメルは砲兵に激しい砲火を撃たせてマジノ線延長部分の各所に煙幕を張り、フランス軍を攪乱している間に工兵の火炎放射器や爆薬でトーチカを破壊していった。火に照らされる明るい隙間となったその部分に戦車が砲撃しながら前進して強引に突破した。ソール・ル・シャトー()、サール・ポトリ()、スムージー()を一気に通過してマジノ線延長部分を突破した。マジノ線延長部分がロンメルの師団の攻撃で受けた損害は微々たるものだったが、凄まじい勢いで進軍するロンメルの師団にフランス軍はパニックを起こして、戦わずして次々と投降した。マジノ線延長部分の突破で第7装甲師団が被った損害は戦死者35名、負傷者59名だけだった。戦果はフランス兵捕虜約1万人、戦車約100両、装甲車30両、大砲20門の鹵獲であった。ロンメルの師団は5月17日午前0時にアヴェーヌ()に到着、ついで午前6時にはサンブル川沿いのランドルシー()に到着、さらに午前6時30分にはル・カトー()東部の高地へ進軍した。途中避難民と西へ撤退するフランス兵で道が大混雑していた。フランス兵の大半はロンメルの師団が横を通過しても抵抗することはなく、おとなしく捕虜となった。ロンメルは捕虜にしたフランス兵に対しては武装解除だけして自分で東の捕虜収容所に向かうよう指示した。進軍中ロンメルは、第7装甲師団の全部隊が後ろから続いていると思っていたが、ロンメルはじめ師団の先鋒がル・カトー東部の高地に到着した時、師団の主力はまだベルギーにいた。師団主力はロンメル初め師団先頭部隊と連絡が取れなくなっており、師団参謀オットー・ハイドケンパー少佐がロンメル少将もローテンブルク大佐も戦死したとみなしたためだった。ロンメルは後に手紙の中で「私はできる限り早く奴を追い出してやる。この若い少佐参謀は第一線から32キロも後方にいながら自分と参謀本部要員が危険な目に合うのではと恐れていた」と激怒している。ロンメルの手元にいたのは二個装甲大隊とオートバイ狙撃兵数個小隊だけだった。これらの部隊はすでに弾薬や燃料を使い果たしていた。軍司令部から「アヴェーヌで進軍を停止せよ」との命令が届いたこともあり(すでにアヴェーヌを超えてル・カトー東部にいたが)、ロンメルはやむなくル・カトー東部でしばらく停止することにした。ル・カトーのフランス軍から攻撃を受けたが、ローテンブルク大佐に防衛を任せて、ロンメルは装甲車に搭乗して後続の部隊を誘導するために一度アヴェーヌまで戻った。午後4時頃にアヴェーヌで第7装甲師団の主力と合流し、さらにフランス軍から40両のトラックを鹵獲した。翌5月18日昼に前線のローテンブルク大佐たちと合流した。補給と修理を済ませて午後3時に進軍が再開された。抵抗を受けることなくカンブレーを占領したが、ここで再び進軍停止を命じられた。西方へ向けて進撃するハインツ・グデーリアンとゲオルク=ハンス・ラインハルトの装甲軍団の側面を歩兵部隊の到着まで右翼のホト第15装甲軍団(ロンメルの師団はこの隷下)がベルギー・北フランスの連合国主力の攻撃から守ることになったのである。ロンメルの師団はこの時間を補給と兵の休息に利用した。ヒトラーは5月19日に進軍停止命令を解除し、グデーリアンとラインハルトの装甲軍団以外の装甲部隊も西方進撃を再開することになった。第7装甲師団は5月20日にアラスへの攻撃を開始した。しかし先陣の装甲部隊と後続の歩兵部隊の間にフランス軍が介入したため、まずその対処にあたらねばならなかった。同日にグデーリアンの装甲軍団が英仏海峡に面するアブヴィルに到達し、ベルギー・北フランスにいる連合国主力を孤立させることに成功した。イギリス海外派遣軍司令官第6代ゴート子爵ジョン・ヴェレカー大将はこの封鎖の突破を図るため、5月21日午後にロンメルの師団や武装親衛隊の髑髏師団が展開するアラス方面に攻勢をかけさせた。この時、第7装甲師団は髑髏師団と共にアラス南西を北へ旋回して進軍していたところだったため、イギリス軍に右側面をつかれる形となった。イギリス軍の戦力の中で最も厄介だったのはマチルダII歩兵戦車だった。マチルダの重装甲はロンメルの師団の3.7センチ対戦車砲をことごとく弾き返し、砲兵の砲弾さえもはね返した。師団は88ミリ高射砲を対戦車砲として使用することでマチルダに対抗した。さらにドイツ空軍の急降下爆撃機シュトゥーカによる攻撃を受けてイギリス軍はようやく攻勢を諦めて撤退した。しかしこの戦いで師団はかなりの損害を受けた。戦死と捕虜で250名を失い、ロンメルの副官モスト中尉もこの戦いで戦死した。IV号戦車3両、38(t)戦車6両、軽戦車多数を失った。5月22日と5月23日にアラス西郊を迂回してベテューヌまで前進し、同地のイギリス軍をその先にある運河線の向こうまで後退させた。しかしながらこの直後の5月23日に第4軍司令官クルーゲより全装甲師団に対して歩兵師団が追いつくまで進軍を停止するよう命令があった。ヒトラーもこの判断を妥当として、5月24日に全装甲師団に対してダンケルクへの進軍停止命令を下した。北部で孤立している連合国への攻撃はドイツ空軍の爆撃によって行うこととなった。これはすでにベルギー・北フランスの連合国主力に対する包囲は完成していたので、来る南フランスへの進撃に備えて装甲師団を温存した方がいいという判断であったと思われる。またドイツ空軍司令官ヘルマン・ゲーリングに花を持たせる判断もあったかもしれない。さらにアラスの戦いがクルーゲやクライストに深い衝撃を与え、彼らを慎重にさせており、その意見を容れたルントシュテットがヒトラーに進言した結果でもあると思われる。その意味においてはロンメルにも責任があった。ロンメルは自分の戦功を大きく見せかけるためか、アラスの戦いのイギリス軍の戦力を実際の2倍以上の「5個師団・戦車100両」などと報告しているからである。いずれにしてもこの装甲師団停止命令によってロンメルの師団は5月26日まで停止してダンケルクの包囲の一翼を担った。しかしこの装甲師団の停止命令によって、5月26日から6月3日にかけて英仏軍30万人以上にダンケルクから大ブリテン島・ドーヴァーへの撤退(ダンケルクの撤退)を許してしまった。5月24日からの2日間で英仏軍はダンケルクを防衛する配備を整え、5月26日の段階ではすでにダンケルクの撤退を阻止することは不可能となっていたのである。ロンメルはこの停止期間中、師団の受けた損害の回復や補給にあたった。5月26日にヒトラーの意向でロンメルは騎士鉄十字章を受章した。ロンメルは対フランス戦で最初に騎士鉄十字章を授与された師団長となった。また同日ヒトラーが進軍停止命令を解除した。連合国主力の包囲の一翼を担うため第7装甲師団はリールへ向けて北進するよう命じられた。進軍停止命令が解除されると第7装甲師団はキャンシー()から運河を渡河し、激しい抵抗を退けながらリールとその西方エンヌティエール()間の道路を抑えることに成功した。これにより海の方へ向かう退路を断ち、フランス第一軍の半分近くの将兵を補足することに寄与した。その後歩兵師団が到着し、リールを占領した。5月29日にロンメルの師団はアラス西方に戻って休息に入るよう命じられた。ロンメルは6月2日にシャルルヴィレ()に召集され、ヒトラーと面会した。召集されたのは軍司令官や軍団長ばかりであり、師団長クラスで召集されたのはロンメルだけだった。ヒトラーはロンメルに「君が攻撃している間、君が無事かどうかずっと心配だったよ」と述べている。この日、ヒトラーは召集した将軍たちに6月5日に攻撃を再開してフランスに止めを刺すことを通達した。6月4日にダンケルクの撤退が完了し、ベルギー・北フランスの英仏軍は消えたのでドイツ軍にとって後は南へ向けて進軍するのみとなった。なおベルギー軍は国王レオポルド3世の決定により5月28日に降伏して武装解除を受けていた(ただベルギー政府は降伏を拒否し、国王大権剥奪決議を行っている)。6月5日朝に敵が爆破し損ねた橋を渡ってソンム川を渡河した。川の渡河を妨害する敵砲兵隊の陣地を慎重に落としていき、同地に配備されていた大量のフランス植民地兵を捕虜にした。ソンム川を突破した後、ロンメルは彼が「フレーヒェンマルシュ(広域進撃)」と名付けた陣形で前進した。これは全師団を幅1.5キロ、長さ20キロに及ぶ箱形陣形にし、正面と両脇に装甲大隊を置き、後方に装甲大隊と偵察大隊を置き、中央には歩兵連隊を置くという陣形である。この陣形は外側にいる装甲大隊がいつでも全兵種の支援を受けられるため攻撃を受けた時に反撃しやすい利点があった。欠点は進軍スピードが落ちることだが、ソンム川南方・西方のようにゆるやかな起伏が続く平坦な地形においてはそちらの方が有効であった。ロンメルの師団は順調に快進撃を続け、6月7日には48キロ以上進軍し、アミアンから海岸に至る地域を防衛していたフランス第10軍を分断した。6月8日にはさらに72キロも進撃した。この頃には連合軍は至るところで崩壊していた。ロンメルの師団も大ブリテン島へ逃げ帰るため、英仏海峡の方へ逃れようとするイギリス軍としばしば遭遇したが、すでに彼らの指揮系統は崩壊状態であったので大した戦闘にもならなかった。テュロワで捕虜にしたイギリス軍のトラックからはテニスのラケットやゴルフクラブまで出てきたのでロンメルは「イギリス軍はこの戦争がまさかこんな結果になるとは思ってもいなかったのだな」と言って笑ったという。6月8日真夜中にルーアン南方のセーヌ川に到達した。セーヌ川への到達は全ドイツ軍でロンメルの師団が一番乗りだった。エルブフ()の橋から一気にセーヌ川を渡河しようとしたが、フランス軍がひと足早くセーヌ川にかかる全ての橋を爆破したために失敗した。ロンメルの師団は突出しすぎており、背後にはまだ敵が残っている都市がたくさんあった。またルーアン上空に観測用気球があげられたため、ロンメルの師団はエルブフ付近の川がくねって半島のようになっている地域から一時撤退することにした。セーヌ川渡河に失敗した直後、ロンメルの師団は国防軍最高司令部より英仏海峡に面する港町サン・バレリー()を占領してイギリス軍第51歩兵師団「ハイランド」()が大ブリテン島に撤収するのを阻止する任務を与えられた。進路を変えて北上し、イヴト()を通過して6月10日には英仏海峡に到達した。ロンメルの師団が英仏海峡に到達したのはこれが初めてだったので兵士たちは感動した様子で海水に足をいれて歩き回って楽しんだ。ローテンブルク大佐は搭乗する戦車を海水に乗り入れたという。ロンメルも軍靴を海岸の海水に付けてしばし余韻に浸った。6月11日にサン・バレリーに接近して同市を包囲した。同市では英仏軍が大ブリテン島へ撤収するための船舶を待っていた。ロンメルは無駄な流血を避けるため、ドイツ語を話せる捕虜を使者に立てて同市の守備隊に21時までに降伏すべきことを勧告した。守備隊のうちフランス軍将校は降伏したがっていたが、イギリス軍将校は降伏に反対する者が多く、結局この勧告を拒否することになった。やむなくロンメルは21時から同市の北部や港に集中砲火を浴びせた。さらにドイツ空軍の急降下爆撃機が激しい爆撃を行った。英仏兵は次々と投降し、ついに英軍将校たちも抵抗を諦めた。ロンメルの師団は将官12人と1万2000人(他の師団の捕虜も含めるとサン・バレリーの捕虜数は4万6000人)の捕虜を獲得した。その中にはイギリス軍ハイランド師団長ヴィクター・フォーチューン少将()とフランス軍の軍団長と3個師団の師団長たちが含まれていた。フォーチューン少将はロンメルのような若造に捕虜にされてしまったことに屈辱を感じていたようで露骨に態度でそれを示した。フランス軍の将軍たちはもう少し好意的だった。彼らはロンメルに「お若いの、君はあまりに速すぎました」「私たちは貴方たちの事を幽霊師団と呼んでいたんですよ」などと声をかけたという。ロンメルの師団は英仏海峡沿いにさらに西進して6月14日にはル・アーブルを占領した。同市のフランス軍はすぐにも降伏している。ちなみに同日には「無防備都市宣言」をしていたパリがドイツ軍第218歩兵師団によって無血占領されている。ヒトラーからシェルブール占領の命令を受けたロンメルの師団は6月16日にルーアンにドイツ軍が架橋した橋を通過してセーヌ川を超えて進軍を開始した。一方同日にフランス大統領アルベール・ルブランはフィリップ・ペタン元帥をフランス首相に任命し、ペタンは中立国スペインを通じてヒトラーに休戦要請を行っている。これを聞いたロンメルはフランス軍の戦意はもはやガタ落ちであろうからほとんど抵抗もあるまいと考え、「フレーヒェンマルシュ」陣形を解除して再び全速力で進軍できる縦列の陣形に戻した。予想通り、抵抗はほとんどなかったため、ロンメルの師団は6月16日には160キロ、6月17日には320キロ以上も駆け抜けた。戦車がこれだけの走行に耐えたことが不思議なぐらいの前代未聞の大進軍であった。フレール()、クータンスを経て、そこから北上して6月17日真夜中にはラ・アイユ=デュ=ピュイ()に到着。しかしそこからシェルブールへ向かおうとした時に道路要塞から激しい砲火を浴びた。長距離の進軍に師団は疲れ切っていたので、ロンメルは砲兵や戦車の支援も無しに夜間に無理な進軍を行うのは止めた方がいいと判断し、ラ・アイユ=デュ=ピュイへ後退した。6月18日朝から要塞への攻撃を開始し、午前8時頃には早々に敵を後退させてシェルブールへの進撃を再開した。6月18日午後1時頃にはシェルブール南西4.8キロほどのところのシェルブールを防衛する道路要塞から激しい砲撃を受けたが、午後5時頃にはシェルブール西のケルクヴィル()南部の高地を占領し、歩兵連隊と二個装甲中隊がシェルブール郊外に突入した。その日の夜のうちに師団の砲兵連隊が到着したので、翌6月19日朝にシェルブール要塞や海軍ドックに砲撃を加え、要塞の中で最も厄介だった中央要塞を沈黙させた。歩兵部隊は更に郊外深くに侵入した。激しい砲撃に耐えかねたシェルブールのフランス軍はついに午後5時に降伏した。シェルブールの3万のフランス将兵を捕虜にした。シェルブール戦終了を以って西方電撃戦におけるロンメルの師団の戦闘は終わった。ヒトラーは一次大戦におけるドイツの雪辱を晴らすため、独仏の休戦交渉の場を、一次大戦でドイツが屈辱的な休戦協定に調印させられた場所であるコンピエーニュの森の列車(この列車はフランスの一次大戦戦勝記念としてパリに飾られていた。ドイツ軍パリ占領後にドイツに鹵獲された)の中とした。6月21日からここで独仏の休戦交渉が開始された。ドイツ側の過酷な要求にフランス側が調印を渋り、その日はまとまらなかったが、翌6月22日にドイツ側から「調印しないならば戦争続行」と脅迫されたため、フランス側はついに要求を受諾して独仏休戦協定を締結した。しかし休戦協定調印の前後、ロンメルの師団はどんどん南進していた。6月21日にはレンヌを通過し、6月25日にはボルドーを占領した。更に師団の先遣隊はスペイン国境付近まで進んだ。とはいってもこの進軍に戦闘は発生しなかった。単に占領の既成事実化を図るための進軍であった。西方電撃戦を通じてロンメルの第7装甲師団の戦果は、捕虜9万7000人の他、鹵獲兵器として戦車・装甲車458両、各種砲277門、対戦車砲64門、トラック4000両から5000両、乗用車1500両から2000両、馬車1500両から2000両、バス300両から400両、オートバイ300台から400台がある。また敵航空機を52機撃墜し、うち12機を地上で鹵獲している。師団の進軍スピードが速すぎたため、正確に数えられていないが、鹵獲兵器についてはこの数字よりもっと多かったといわれる。一方で西方電撃戦を通じてロンメルの第7装甲師団が出した損害は、628名の戦死、296名の行方不明、戦車42両の喪失であった。第7機甲師団の人的損害は他の師団より多い。ドイツ軍は西方電撃戦で4万9000人の戦死者・行方不明者を出しており、これを単純にドイツ軍135師団で割ると1個師団の平均の戦死者・行方不明者は363人になるが、ロンメルの師団は戦死・行方不明者が924人も出ている。ただしこれについてはロンメルの師団は常に電撃戦の先陣を切って戦っていたことを考慮せねばならない。戦果と比較すれば損害は少なかったといえる。ロンメルの評価は賛否両論だった。概してナチ党政権からの評価は高かったが、軍部からの評価は低かった。西方電撃戦中、ロンメルは何度も命令を無視して独断行動を取った。それらはすべて成功したとはいえ、上官たちからは当然不興を買っていた。またロンメルが「ヒトラー子飼いの将軍」と看做されていたことも煙たがられる原因だった。参謀本部総長フランツ・ハルダー上級大将はロンメルを「命令無視ばかりの気が狂った将軍」と酷評した。ロンメルの上官である第15軍団長ヘルマン・ホト大将はロンメルについて「機甲師団に新たな道を開いた。特に前線に立とうという意欲とテンポの速い戦闘でも決定的なポイントを察知する彼の天性の素質は称賛に値する」と評価する一方、ロンメルが軍団長になるには「もっとたくさんの経験と、より優れた判断力が必要だ」と注文を付けた。またホトや第4軍司令官ギュンター・フォン・クルーゲ上級大将は「ロンメルは自分の勝利に他の者が寄与していることを認めたがらない」と批判している。ロンメルは著書の中で彼の師団の左側から進軍した第32歩兵師団()を実際よりずっと進軍が遅かったかのように書いたり、またドイツ空軍の功績にほとんど触れていなかったり、確かにそうした面が多々見られた。1940年夏を通じてロンメルの師団は来る(と思われていた)イギリス本土上陸作戦に備えた訓練にあたっていた。とはいえ英本土上陸にはまずドイツ空軍が英本土の制空権を握る必要があり、陸軍はそれまでは出番無しなので比較的のんびり過ごすことになった。ロンメルは勤務時間外には狩猟をしたり、戦後に出版しようと考えていた第7装甲師団の戦史書の草稿の執筆にあたっていた。またこの頃、宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスから映画『西方における勝利』の撮影に協力してほしいと要請された。ロンメルは承諾して1940年8月中に数日を費やしてこの撮影に参加した。その際にロンメルは事実上の映画監督となり、部下やフランス植民地黒人兵たち(捕虜収容所から連れて来られた)に演技指導をしていた。ずいぶん楽しかった
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。