リジェ("Ligier" )とは、主に1976年から1996年までF1に参戦したコンストラクター。現在はイタリアのピアッジオ傘下で、マイクロカー(日本の軽自動車より小さい超小型車)の製造も行う。フランス人で国際代表ラガーマンでありレーシングドライバーだったギ・リジェをオーナー兼チーム監督として、創設されたチーム・自動車メーカー。1971年から1975年にかけてJS2を製作、1973年、1974年、1975年とル・マン24時間レースに出場した。1976年からF1に参戦。ジャック・ラフィットをエースドライバーに据え参戦初年度から速さを見せた。ギ・リジェは当時のミッテラン大統領とも親交が深く(彼らの子供同士が結婚するほどで、親戚でもある)、オールフランスチームを標榜することでフランセーズ・デ・ジュー(スポンサー名義は「ロト」くじ)やジタン、マトラなどの国営企業からのスポンサーを獲得し、ルノーエンジンを得ることに成功する。また後にフランスグランプリの開催サーキットをポール・リカールからファクトリーのあるマニ・クールに1991年より変更させるなど政治力も強く発揮した。しかし潤沢な資金力と政治力を持ちながらマシン開発で失敗を続け、1980年代中盤からチームは苦戦が多かった。デビューマシンとなったJS5は、巨大なインダクションポッドを備えたマシンで「ティーポット」と揶揄された。その後、安全面で問題とされ、レギュレーションによって車高に制限がかけられ、インダクションポッドは縮小された。JS5のシャーシを踏襲し空力を刷新したニューマシンJS7を開幕戦から投入。JS7はウイングやノーズ形状がフェラーリ・312Tに似ていたため、ブルー・フェラーリと揶揄されたが、第8戦スウェーデングランプリでラフィットのドライブによりF1初優勝を果たした。シーズン前半は昨年型JS7及び改良型であるJS7/9を使用し、第7戦スペイングランプリより新型のJS9を投入。この年は優勝はなかったものの、スペイングランプリでは3位、第11戦ドイツグランプリでも3位に入賞し、コンストラクターズランキング6位でシーズンを終えた。参戦以来ラフィットの1台体制だったチームにパトリック・デパイユが加入し、2台エントリーとなる。またエンジンをマトラV型12気筒からフォード・コスワース・DFVエンジンに変更し、ウイングカーのニューマシン・JS11は非常に高い戦闘力を発揮した。開幕2連勝を飾るなどこの年3勝を挙げ、コンストラクターズランキングは3位を獲得。デパイユが怪我で離脱したシーズン後半はジャッキー・イクスがドライブした。(ラフィット2勝、デパイユ1勝)成功作であったJS11の改良型であるJS11/15を投入、これが功を奏して前年の好調を保ち、新たに加入したディディエ・ピローニとラフィットがそれぞれ1勝ずつを挙げた。最終的にコンストラクターズランキングは前年の3位から2位に上昇した。エンジンをDFVからマトラV型12気筒に戻し新シャシであるJS17を投入、ラフィットが2勝を挙げてランキング4位。マトラV型12気筒エンジンの音は「マトラソプラノ」と言わしめるほど、そのエンジン音は賞賛されていた。しかしこの年を最後にチームの成績は低下していく。シーズン当初は前年のマシンであるJS17及び改良型のJS17Bを使用し、第6戦モナコグランプリよりJS19を投入する。しかし期待の新マシンは信頼性が低くリタイアが非常に多く、遂に1勝も出来ずにコンストラクターズランキング8位に終わった。マトラ(タルボ)の撤退によりDFVエンジンを使用。フラットボトム規定に伴い各チームがデザインに試行錯誤している中、JS21というサイドポンツーンがほとんどないマシンを投入。これは冷却系パーツをリアタイヤ周辺に集中配置し荷重を増やすことでトラクションを得ようという意図があった。当時の同様のコンセプトのマシンとして、ドライバーズチャンピオンを獲得したブラバムのBT52が挙げられる。またサスペンションにはシトロエン製ハイドロニューマチックシステムを搭載するなど、非常に意欲的なマシンであったが、成果はまったく上がらずにF1参戦以来初となる年間ノーポイントに終わった。ルノーV型6気筒ターボエンジンの獲得に成功する。しかし、JS23はエンジントラブル続きでリタイアが非常に多く、同年のルノーワークスチーム同様に芳しい成績を獲得することはできなかった。この年加入したアンドレア・デ・チェザリスは南アフリカグランプリで5位、サンマリノグランプリで6位に入りポイントを獲得するなど健闘をみせた。シーズン当初、スポンサーを獲得することができず苦しい開幕となった(後にイタリアの家電メーカー・がスポンサーに付き、後半はジタンも戻ってきた)。新シャシJS25は、それまでのミシュランからピレリへタイヤを変更している。前年から所属し、時に速さを見せるが"壊し屋"の異名を持つデ・チェザリスのクラッシュが多く、第10戦オーストリアグランプリでの大クラッシュ(マシンがコース外の丘で横回転にて数回ころがり着地、デ・チェザリスは無傷でマシンは全損)が原因で次戦のオランダグランプリを最後に解雇、以降フィリップ・ストレイフが代わりに出場することになる。このように波乱の年ではあったが、第8-9戦はラフィットが連続3位、最終戦ではラフィットが2位、ストレイフが3位とダブル表彰台を獲得した。前年序盤にフェラーリを解雇されたルネ・アルヌーと契約。ラフィットとともにF1優勝経験のあるフランス人ドライバーを揃えた。新シャシJS27の出来も悪くなく、開幕戦で表彰台へ上がるなど前半戦は好調だったが、第9戦イギリスグランプリでラフィットがレース中にクラッシュ、足を骨折しF1からの引退を余儀なくされた後の後半戦は失速したが、コンストラクターズランキング5位を獲得。ラフィット離脱後の第10戦からはフィリップ・アリオーが出場した。アルヌーのチームメイトにはピエルカルロ・ギンザーニが加入。新シャシのJS29は、当初アルファロメオが新開発した直列4気筒ターボエンジンを搭載する予定であったが、開幕前のテストにてトラブルが続いたエンジンに不満が募ったアルヌーが、エンジンに対する暴言を吐いてしまう。その発言を理由にアルファロメオが突如契約を破棄してしまい、開幕直前に搭載するエンジンを失ったリジェは第1戦を欠場する事態に陥る。結局、非力なBMWベースのメガトロン直列4気筒ターボエンジンを搭載したJS29Bにて第2戦より参戦した。同じ直列4気筒ターボではあるがメーカーが違うためシャシの改造も必須であり、結局この混乱のためにまともな成績を残すことができなかった。上位勢にリタイヤが多かった第3戦ベルギーグランプリでアルヌーが6位に入り、かろうじてノーポイントは逃れた。マクラーレンからステファン・ヨハンソンが移籍加入し、アルヌーと「元フェラーリコンビ」を組む。ミッシェル・テツらによるデザインのJS31は、ジャッドV8エンジンの前後をはさむように燃料タンクを2分割配置するという意欲作であった。これは重量配分を適正化し、ハンドリングの安定と低重心による空気抵抗の減少を狙うという触れ込みであったが、燃費の悪いジャッドエンジンのために大きな燃料タンクを効率良く収めるためのアイデアでもあった。しかし、この特殊なレイアウトのシャシは剛性不足であり、コーナリング性能は著しく低いものであった。また当時のF1では斬新であったパワーステアリングを搭載したが、当時の装置は大きく重く、これもシャシバランスの悪さの一因となったことから、ヨハンソン車では早々にパワーステアリングは取り外された。ドライバー2人とも度々予選落ちを喫するなど終始苦戦を強いられ、入賞ゼロ・年間ノーポイントという散々な成績に終わる。この成績に怒ったギ・リジェは、JS31を「クソ車」と罵り、デザイン責任者のテツを解雇するに至った。ルネ・アルヌーは残留し、新人オリビエ・グルイヤールが加入。新シャシのJS33は前年とは打って変わってコンサバティブな設計で、エンジンはコスワースV8に変更し、雨のカナダグランプリではアルヌーが5位、フランスグランプリではグルイヤールが6位に入り、2年ぶりにポイントを獲得。しかし、2名あわせて予選落ち11回を数えるなど、成績は振るわなかった。また、モナコグランプリではアルヌーが周回遅れにもかかわらず上位陣をブロックしラインを譲らず、他チームから「走るシケイン」という悪評を買った(アルヌーによる執拗なブロック行為はそれまでも幾度となくあった)。4年間チームを支えたアルヌーは、この年限りで現役を引退した。ドライバーはフィリップ・アリオーとニコラ・ラリーニ。シャシは前年のJS33を改良したJS33B・JS33Cを投入。前年と比較して完走率は高くなったが、決して速いマシンではなかった。ノーポイントが続いたため、シーズン後半戦からは予備予選の対象チームになった。ラリーニは入賞目前の7位完走(当時は6位までが入賞)を重ねたが一歩及ばず、チームは2年ぶりの年間ノーポイントに終わった。ラルースから契約を奪う形でランボルギーニ製V型12気筒エンジンを獲得し、ドライバーはウィリアムズからティエリー・ブーツェンが移籍。もう一人はF3000でチャンピオンを獲得したフランス人・エリック・コマスと契約。また、翌1992年からはカスタマー仕様ながらルノーエンジンを搭載する契約を結んだ事も早々に発表されるなど、ギ・リジェのチーム再興への意欲が盛んであった。ギ・リジェと仲違いを起こしチームを去っていたデザイナージェラール・ドゥカルージュの復帰にも成功。しかし開幕戦に投入されたJS35は大柄なマシンで速さもなく「クジラ」と揶揄された。後にフランク・ダーニーによってスリム化された改良版「JS35B」を投入したが、前年ハンガリーグランプリで優勝もしている名手ブーツェンでも最高位は7位にとどまり、結局2年連続となるノーポイントに終わった。待望のルノーV10エンジン(ルノーRS3B)を獲得して飛躍を期した年だったが、ドゥカルージュがデザインしたJS37には期待したような速さは無かった。2年目のコマスはカナダグランプリで6位、フランスグランプリで5位、ドイツグランプリで6位に入賞。ブーツェンとのチーム内での立場は逆転した。ベルギーグランプリからはRS3Cエンジンがリジェにも供給され、ブーツェンの予選順位も好転するが、結果的に最終戦オーストラリアグランプリでの5位がブーツェンのこの年唯一の入賞であった。同じルノーユーザーであるウィリアムズがチャンピオンを獲得したのとは対照的に、リジェは目立った成績を残せず、ついにギ・リジェのF1へのモチベーションは低下。シーズン終了後、かつてAGSの代表を務めた経験のあるシリル・ド・ルーブルにチームは売却された。オーナー交代の影響が現れ、ドライバーの国籍にこだわらず、F1で実績を持つマーティン・ブランドルとマーク・ブランデルの二人のイギリス人ドライバーと契約。多数の国営企業に支えられる純フランスチームでありながらフランス人ドライバーを1人も起用しなかったのはこの年が唯一であり、リジェチームに対しフランス内部からの批判は絶えなかった。しかしドゥカルージュがデザインしたJS39は、カスタマー仕様ながらウィリアムズと同スペックのRS5エンジンを供給されたこともあり、開幕戦で3位表彰台を獲得する好スタート。実力ある両ドライバーの働きもあって4位のフェラーリにあと少しと迫るシーズン5位の好成績を挙げたが、サーキット外では、シーズン中にオーナーのド・ルーブルが横領容疑で逮捕されてしまった。シーズン終盤の日本グランプリとオーストラリアグランプリの2戦では、ブランドルのマシンのみジタン煙草のパッケージデザインをモチーフにした「アートカラー」にカラーリングを変更して出走した。前年のシリル・ド・ルーブル逮捕が影響し、チームスタッフから離脱者が出てニューマシンの開発ができず、前年のマシンを僅かにマイナーチェンジしたJS39Bが使用された。前年リザーブドライバーだったエリック・ベルナールが正ドライバーに昇格しF1に復帰、新人のオリビエ・パニス(前年度F3000チャンピオン)とフランス人コンビを組んだ。前半戦から完走率は高いがポイントには届かないレースが続き、モナコグランプリ前にチームはベネトンの責任者であるフラビオ・ブリアトーレに売却され、チームの指揮はチェーザレ・フィオリオに任された他、フランク・ダーニーも復帰するなどチーム内部は激変した。ブリアトーレ(= ベネトン)がリジェを買ったのは、リジェの有するルノーV10エンジンをベネトンのものにしたいという目的であり、翌95年に「ベネトン・ルノー」が実現された。スタート直後に約半数がリタイヤしたドイツグランプリでは、混乱をすり抜けたパニスが2位、ベルナールが3位とダブル表彰台を獲得する活躍。ヘレスでのヨーロッパグランプリ直前には資金難のロータスからジョニー・ハーバートの契約をブリアトーレが買取り、ハーバートがリジェに加入。この1戦のみでブリアトーレはハーバートをベネトンへと移籍させたため、新人のフランク・ラゴルスがリジェからF1デビューするなど、ブリアトーレがオーナーとなったリジェはベネトンのセカンドチーム的存在となった。翌年からのルノーV10エンジンの使用権がベネトンに渡ったため、リジェはこの年限りでルノーエンジンを失うことが確定。このようなチーム内のドタバタがありながらマシンの信頼性は抜群で、パニスは16戦14完走と安定感を見せ好評価を得たとともに、前記のドイツグランプリでの活躍もありランキングは6位になった。前年限りでベネトンを離脱したトム・ウォーキンショーが、リジェの株式の50%を購入しブリアトーレとともにリジェの共同オーナーに就任。ニューマシンJS41は、ベネトン・B195に細部まで形状が酷似していた。当時レギュレーションでは他チームによる同一マシンの使用は禁止されていたが、両チームはデザイナー移籍による偶然の一致だと主張した。エンジンはミナルディとの争奪戦の末に無限ホンダエンジンを獲得。ドライバーはパニスが残留し、チームメイトは無限の推する鈴木亜久里がフル参戦のはずだったが、ウォーキンショーは子飼いのマーティン・ブランドルとの併用を宣言。ブランドルが11戦、亜久里は6戦という変則的な参戦となった。この年はブランドルがベルギーグランプリで無限エンジン初の表彰台を獲得。パニスも最終戦オーストラリアグランプリで2位に入るなどしばしば速さを見せランキングは5位。亜久里はドイツグランプリで自身久々の入賞となる6位となるが、日本グランプリでは予選でクラッシュしドクターストップとなったため決勝は出走できず、結果的にこの日本グランプリ予選が亜久里にとって最後のF1参戦となった。ウォーキンショーはチームの完全買収を狙い、前年途中でマネージャーのフィオリオを解雇したほか、フランス人スタッフを大量に解雇しイギリス人スタッフを大量に採用した。これが創始者のギ・リジェやフランスのスポンサーの心情を害し、さらにはフランス政府の怒りを買った。ウォーキンショーは買収を諦め株式をブリアトーレに返却しアロウズへと移籍。その際にフランク・ダーニーや主要スタッフ、自身が持ち込んだスポンサーも連れて去って行った。ジタンに替わりメインスポンサーになったゴロワーズやエルフなどのフランス企業がスポンサー額を大幅に縮小したためチームは資金難に陥った。エースとして残留したパニスのチームメイトには、1000万ドルのスポンサーを持つペドロ・ディニスを起用し、そのスポンサーマネーに頼らなくてはならない財政状態となった。よってニューマシンの開発は進まず、JS43は実質前年の改修型であった。それでもモナコグランプリでは雨の中、パニスが快走し優勝を果たす。リジェにとって1981年カナダグランプリ以来、15年ぶりとなる勝利(通算9勝目)であったが、結果的にこれがリジェにとって最後の勝利となった(パニスと無限ホンダにとってはF1初勝利)。スポンサー持込の面ばかりが話題となっていたディニスも健闘を見せ、ドイツグランプリでは予選でパニスを破った他、2度の入賞を果たし評価を上げた。1996年限りでのディニスの離脱は決まっていたが、パニスは残留し、無限ホンダとのエンジン供給契約も更新。無限の推する中野信治の加入も発表され、ブリヂストンタイヤの使用も濃厚と報道されるなど、1997年に向けてリジェは注目されていた。しかし1996年末にブリアトーレはアラン・プロストにチームの全株式を売却し、翌年よりプロスト・グランプリと改称されることになった。これによりF1からリジェの名は消滅した。2004年末にF3マシン開発、2005年からのカスタマー供給を発表していたものの、その後マシンが公の場に出ることはなかった。しかし後にアマチュア向けカテゴリーのグループCN用スポーツプロトタイプカーを開発、供給した。また、FIA 世界耐久選手権やル・マン24時間レース等で戦っているオーク・レーシングのコンストラクター部門であるオンローク・オートモーティヴと提携を結び、2014年のル・マン24時間レースに久しぶりにリジェの名前が戻ってくる事になっている。創設当初から1996年までほぼ一貫してフランス人ドライバーを採用し続けており、フランス人コンビ(もしくはフランス人ドライバーによる1カーエントリー)で開幕を迎えた年は参戦した21年中で実に10回に及ぶ。開幕当初から「外国人」コンビとなった例はともにイギリス人ドライバーのマーティン・ブランドル、マーク・ブランデルを起用した1993年のみであり、この年だけはシーズン中1戦もフランス人を起用しなかった(補欠ドライバーとしてエリック・ベルナールが所属してはいた)。リジェのF1カーの形式番号に付けられるJSは、ギ・リジェの親友で1968年フランスグランプリで事故死したフランス人F1ドライバー、ジョー・シュレッサー(Jo Schlesser、同じくレーシングドライバーのジャン=ルイ・シュレッサーの叔父)の頭文字に由来する。この時にシュレッサーが所属していたチームはホンダであり、リジェ最後の年で最後の優勝を記録した1996年(モナコグランプリ、オリビエ・パニス)、翌年JSの名前を最後に冠したJS43、どちらも搭載エンジンは(無限)ホンダであり、奇妙なめぐりあわせともなっている。
出典:wikipedia
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