オットセイ(膃肭臍、英:Fur seal)は、鰭脚類アシカ科のうちキタオットセイ属(キタオットセイ)とミナミオットセイ属(ミナミオットセイ)の総称である。アシカ科にはアシカとオットセイが属する。アシカ亜科・オットセイ亜科に分類されることもあるが、系統的には否定されている。キタオットセイは北太平洋に、ミナミオットセイはアフリカ南岸、オーストラリア南岸などに生息する。一匹のオスが複数のメスを独占しハーレムを形成する。ハーレムは一般に海岸に近い場所に形成される。メスをめぐる戦いに敗れたオスは、まとまって群れを作って生活する。その場合、居住地は内陸に入った不便な場所となる場合が多い。若いオスでは戦いに敗れても、戦いの訓練を積み体格が大きくなるまで待ち改めて戦いに挑む場合もあるが、多くのオスは再挑戦をする気力を失い、メスとの交尾の機会を持てずに同性の集団生活において生涯を終える。耳たぶがある、四脚で体を支えて陸上を移動できる、前脚を鳥の翼のように羽ばたくことによって遊泳するなど、アシカ科特有の特徴をもつ。アシカよりは若干小ぶりで、ビロード状の体毛が密生していることがオットセイの特徴である。食性としては魚、タコ、エビを主食としているが、地域的にはペンギンを捕食する場合もあることが報告されている。陸上だけでなく、水中でも睡眠を行う。この時、右脳を覚醒させたまま、左脳を眠らせることができる。陸上で眠る時は、人間と同様の方法で眠る。海の生き物だが、海水ではなく淡水でも生育可能である。いくつかの水族館では、オットセイを淡水で飼育している場合もある。高価な毛皮や、さらには陰茎や睾丸(生薬名:海狗腎)が精力剤などの漢方薬材料として珍重されたため、乱獲により生息数が激減した。江戸時代初期の慶長15年(1610年)と慶長17年(1612年)に蝦夷地の松前慶広が徳川家康に海狗腎を二回にわたり献上し、家康の薬の調合に使用されたという記録も残っている(『当代記』) 。日本は、1911年に膃肭獣保護条約を締結し、翌1912年発効の「臘虎膃肭獣猟獲取締法(らっこ・おっとせいりょうかくとりしまりほう)」を成立させ捕獲や所持を規制した。1957年には「北太平洋のおっとせいの保存に関する暫定条約」を(アメリカ、カナダ、ソ連(当時)、日本)締結(1984年失効)し、保護の取り組みを行ってきた。2006年現在、日本ではヴィタリス製薬株式会社(旧社名プロ・シール株式会社←オットセイ製薬株式会社)だけがオットセイ製剤(オットピン等)の製造を行っている。オットセイはアイヌ語で「onnep」(オンネプ)とよばれていた。それが中国語で「膃肭」と音訳され、そのペニスは「膃肭臍」(おっとせい)と呼ばれ精力剤とされていた。現代の中国語ではオットセイは膃肭獣 "wànàshòu" ワナショウと呼ばれていて、アイヌ語onnepに由来する膃肭 "wànà" ワナの部分はもっぱら「(身動きも不自由となるほどの)デブ」という意味で使われている。後に日本ではペニスの部位だけを指す「膃肭臍(おっとせい)」という生薬名が、この動物全体を指す言葉になった。あまりにも一般的になったため、1957年に北太平洋のオットセイの保存に関する暫定条約が締結された際、出席した日本代表団がオットセイを英語であると誤解。英語でオットセイと説明しても理解されず、何回か発音を変えて言い直しを行うニュース映像が残されている。また、英語では(毛皮アザラシ)と呼ばれ、アザラシよりも質の良い毛皮が取れるため、この名前がついたといわれている。日本海や銚子沖の太平洋が、キタオットセイ属の南限といわれる。たまに日本海側や北海道、東北地方の海岸に死体や、生きたまま漂着することがあるが、2006年9月9日、内陸部に位置する埼玉県川越市の新河岸川(今成2丁目付近の水田)で野生と見られる衰弱したオットセイ(後に「しんちゃん」と名付けられた生後1-2年の雄)が発見され、警察で捕獲し、翌日、上野動物園へ収容・保護された。春、日本ではオットセイの群れが南下してくるため、このオットセイを太平洋に戻すことになり、放流に向けた馴致(野生に戻るリハビリ)を行うため、12月4日に鴨川シーワールド(アザラシ授乳室)へ移され、トレーニングが行われた。翌2007年2月下旬、オットセイの群れが見られたため、しんちゃんは3月8日に銚子の沖合い(約17km)にて放流され野生復帰した。鴨川シーワールドでは今まで何頭か放流に成功している。展示は伊豆三津シーパラダイスや新江ノ島水族館などの水産庁の許諾を得た一部の水族館、動物園で行われている。
出典:wikipedia
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