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小松政夫

小松 政夫(こまつ まさお、1942年1月10日 - )は、日本のコメディアン、タレント、俳優、声優。社団法人日本喜劇人協会会長(第10代)。本名、松崎 雅臣(まつざき まさおみ)。福岡県福岡市瓦町(現:博多区上川端町)出身。愛称は親分さん、小松の親分(自らのコントから)。鐘紡福岡工場(現:キャナルシティ博多)の近くで育つ。実父は地元の実業家で名士だったが、早くして病死。以後、小松の家族は貧窮を極めた。この頃、小松は自宅前の焼け跡で行われていた露天商の口上をよく見聞しており、サクラがいるのを知っていたという。それらが自然と身に付き、学生時代から現在に至るまでの小松の明るさや笑いのセンスは作られた。福岡県立福岡高等学校定時制課程普通科卒業。高校時代の小松は陽気で努力家だったという。この頃は、亡父が懇意にしていた菓子店・石村萬盛堂で働くなどして生計を支える。RKB毎日放送の劇団に所属後、1961年に俳優を目指して上京。魚河岸など様々な職業を経験した後、横浜トヨペットのセールスマンになる。セールスマン時代、公募に応募して植木等の付き人兼運転手となり、その後芸能界入りした。芸能界入りする前には様々な営業職を転々としたが、自動車セールスマンの職は他業種から引き抜かれて就職したものだった。自動車セールスマン時代の小松はセールストークに長けていたようで、教習所と交渉し、受講者に免許を5日で取得させる手筈まで整えて、免許を持たない人にまで車を買わせるなどしたという。そういった顧客とのセールストークや会社内での上司との丁々発止のやりとりにより、小松は周囲から人気を獲得。周囲から押し上げられる形で、小松はコメディアンを志す。セールスマン時代の体験は、後に数々のギャグの礎となった。なお、セールスマン時代は初任給1万円の時代に月給12万円を稼いでいたが、植木の付き人兼運転手時代の月給はわずか7,000円だった。なお、植木からは付き人として入門する際に「お父さんを早くに亡くされたそうだが、これからは僕を父と思えばいい」と声を掛けられたという。コメディアンとしてのデビューは『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)。この番組に出演したきっかけは、同番組に出演していた植木に付いていった際、休憩中にメンバー及びスタッフと談笑していた際にふとしたことからセールスマン時代のエピソードを披露したことによる。その時に当時の課長(50歳ぐらいで、威張りくさって小松に喝を入れるが逆にその様子を見ていた34歳の部長に一喝され、途端にシュンとしてしまう)の真似をして「見ろ!お前のせいで怒られちゃったじゃないか。もう、知らない、知らない、知~らない」とオカマっぽく体をクネクネさせながら言った芝居がプロデューサーの目に留まり、翌日の収録時には台本に小松の出番が設けられていたという。また、付き人だった当時は『シャボン玉ホリデー』に松崎真がレギュラーで出演しており、植木が「松崎ー!」と呼ぶと(本名が松崎だった)小松も一緒に返事を返してしまうケースが多々あったことから「小さいほうの松崎」という意味で『小松』と呼ばれるようになりやがてメンバーやスタッフの間で定着した。そのうちに前座やチョイ役などで出演が増えて視聴者にも顔を覚えられるようになり植木より正式に『小松政夫』という芸名を授かることになった。師匠の植木からとともにクレージーキャッツのリーダー・ハナ肇からもたいへん可愛がられ、昭和42年にクレージーが梅田コマ劇場での公演に出演した際、途中15分の休憩を嫌ったハナから「5分つないでくれ」と命じられたことがあった。しかし2日目までの出し物がまったく客に受けず、背水の陣で挑んだ3日目に生まれたのが今日まで小松の十八番となっている淀川長治の物真似である。この時はハナや植木のみならず苦労を知っていた舞台裏のスタッフも一緒になって喜び、翌日以降にメガネ(紐を引くとピクピク動く眉毛が付いている)やテレビフレームなど芸を盛り上げる小道具・大道具をわざわざ作って用意してくれたといい、それらを活用することでさらに客からのウケが良くなったと述懐している。付き人兼運転手からタレントに転身する際、植木からかけられた言葉は「お前、明日からもう俺のところには来なくていいからな」というあまりに突然なものだった。この言葉に小松は驚くとともにクビなのかと一瞬当惑したが、続けて植木は「実はな、社長と話してお前を正式にタレントとして一本立ちさせてやりたいってお願いしたんだ」「そうしたら社長も大賛成でな、お前のマネージャーも給料も、全部決めてきたから」とその真意を語った。「そろそろデビューする頃か」などの前フリも無く、何年ぐらいで独り立ちできるかも知らず、覚悟すら出来ていなかった時期での発言であった。植木から言葉をかけられた後は運転中に涙がボロボロとこぼれて運転ができなくなってしまい、一度路肩に車を停めて大泣きしながらそれを植木に謝る有様だったが、植木は「うん、べつに急いでないけど、そろそろ行こうか」と優しく宥めたという。この時のことを、小松は「目にワイパーが欲しいぐらいだった」と後に述懐している。その後、学校の担任やキャバレーでのホステスの会話など身近な人からヒントを得たギャグや、レギュラー番組のコーナーからヒットした「電線音頭」(1976年発売)、「しらけ鳥音頭」(1978年発売、60万枚を売り上げた)、「タコフン音頭」(1980年発売)、前述の淀川長治の物真似などで一躍人気コメディアンとなる。正式なコンビというわけではなかったが、伊東四朗との息の合ったコンビ芸は、1970年代を代表するギャグの一つとして今なお語り継がれている。『みごろ!食べごろ!笑いごろ!』や『笑って!笑って!!60分』では「小松の親分さん」「悪ガキ一家の鬼かあちゃん」など数々の名コントを演じた(先の「電線音頭」や「ずんずんずんずん〜小松の親分さん♪」、「ニントスハッカッカ」など)。また前述の身近な人にヒントを得たギャグの誕生には伊東も大きく貢献しており、楽屋で小松が「今日、こんなやつを見かけてさ…」と切り出すと伊東が「どんなやつ?なに言ってたの?」と興味津々に前のめりになり、スタッフとのやり取りなどでそのフレーズを小松に使わせるとその様子を見ていた伊東が「これ使えるね」と評価して本採用、というケースが多々あったという。植木等の代表的なギャグ「お呼びでない」が生まれるきっかけを作ったのも、小松である。植木の付き人時代、植木が出演していた生放送番組『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)でのショートコントの最中、小松は勘違いして、出番前ではないのに「出番です」と植木に言ってしまい、植木はつい舞台に出てしまった。当然、周囲は植木の場違いな登場に唖然としたが、その瞬間に植木は機転を利かせて「お呼びでない……? ……こりゃまた失礼致しました!」とアドリブを放った。傍で見ていたプロデューサーはこのアドリブに大笑いし、以後、「お呼びでない」は毎回のように使われるギャグとなった。なお、このエピソードについて、小松自身はこのような事実はないと完全否定している。植木の「お別れの会」での弔辞でも、「『お呼びでない』は小松がきっかけだとオヤジさん(植木)はおっしゃっていたようですが、私はオヤジさんの出番を間違えるようなことはしていないと思うのです」と述べている。そして、「事実でなくても、自分のため(小松を売り出すため)に作ってくれたエピソードであり、本当に感謝している」とも語っている。また植木の逝去直後、TBSテレビで放送された追悼特番では、付き人時代から小松単独での番組出演オファーがあった時期のことを「自分は当時まだ勉強中の身でありながら、番組に出るなんてとんでもないと思っていたんです。しかしそれを植木さんに相談したら、すごく喜んで頂いて『結構なことじゃないか。行って来い。行って勉強してきなさい』と、笑顔で背中を押してもらいました。一人で番組に出ることを咎められたことはありませんでした。あの優しさは今も忘れられませんね」と懐古している。ほかにも小松は、例えば植木と一緒に蕎麦屋に食事に入った際に小松が謙遜してもりそばを注文する傍らで植木は天丼とカツ丼を注文したがいざ運ばれてくると植木は天丼を半分ほど食べたところで「お腹一杯になっちゃったから、これお前が食べてくれ」とカツ丼をスッと小松の前に差し出したり、実際の芝居の際にも本番後に植木が「どうだった?」と小松に訊ね、植木の演技は良かったが周囲のリアクションが弱かったという旨を素直に伝えると監督のもとに出向いて撮り直しを申し出たり、持ちネタが受けずに焦った小松が慌てた末に大失敗をしでかし収録に遅れを生じさせてしまった際にも自ら進んで「うちの松崎が大変なご迷惑をお掛けしてすみませんでした」とスタッフに謝ってくれたりなど、芸には厳しいがその一方では面倒見がよくて優しく温かい植木の人柄ぶりをインタビューや著書で語っている。コロッケが設立した事務所・ファインステージに所属(それ以前には藤村俊二のオフィス・オヒョイに所属していたこともある)。現在もバラエティ番組やテレビドラマ、舞台など多方面で活躍中である。また、1970年代後半から1990年代にかけては『パナソニック ドラマシアター』(旧『ナショナル劇場』)や『月曜ドラマランド』の常連キャストでもあった。時代劇では悪党の子分役などが多かったが、近年では善人役を多く演じている。伊東は小松を「こんなに引き出しのある人はいないんだから」と評し、数多くのギャグの引き出しも健在である。地元の博多祇園山笠には、現在でもしばしば参加している。かつては出身の岡流に属していたが、岡流が途絶えた後は、知り合いの多い中洲流に参加している。2011年6月20日、社団法人日本喜劇人協会の第10代会長に選出された。

出典:wikipedia

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