エスペラント()とは、ルドヴィコ・ザメンホフが考案した人工言語。母語の異なる人々の間での意思伝達を目的とする、いわゆる国際補助語としては最も世界的に認知され、普及の成果を収めた言語となっている。エスペラントを話す者は「エスペランティスト」と呼ばれ、世界中に100万人程度存在すると推定されている(使用状況を参照)。当初は特別な名称を持たなかった(単に「国際語」とされていた)が、創案者のラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフが「エスペラント博士()」というペンネームを使って発表したため、しだいにこの名で呼ばれるようになった(「エスペラント博士の国際語」と呼ぶのは面倒)。この「エスペラント」とはエスペラントの単語で「希望する者」という意味である。ザメンホフは、帝政ロシア領(当時)ポーランドのビアウィストク出身のユダヤ人眼科医で、1887年7月14日に(最初の本)でこの言語を発表した。ザメンホフは世界中のあらゆる人が簡単に学ぶことができ、世界中で既に使われている母語に成り代わるというよりは、むしろすべての人の第2言語としての国際補助語を目指してこの言語をつくった。現在でも彼の理想を追求している使用者が多くいる一方、理想よりも実用的に他国の人と会話するためや、他の国や異文化を学ぶためのものと割り切って使っている人もかなりいる。今日では異なる言語間でのコミュニケーションの為の他、旅行、文通、国際交流(文化交流の場合が多い)、ラジオ(インターネットラジオも含む。無線の場合、短波が多い)、インターネットテレビなど様々な分野で使われている。英語を国際共通語として当然視してしまう姿勢への対抗的姿勢が、とって代わるべき国際補助語としてこのエスペラントを持ち出すこともあった。中国語では「世界語」と呼ぶ。今後は翻訳ソフトの精度向上によってその内部の理論に使われたり、実生活で直接見聞きする割合が変化する可能性がある。 エスペラントは1880年代にラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフによって創案された。最初の文法書・単語集は1887年に発表された。最初、ザメンホフはラテン語の復権が言語問題の解決策になると考えていたが、実際にラテン語を学ぶとその困難さに気づいた。一方で、英語を学んだ際、名詞の文法上の性及び複雑な格変化並びに動詞の人称変化が不要であることに気づいた。言語を学習するにはたくさんの単語を覚えなければならないが、街を歩いているとき偶然、ロシア語で書かれた二つの看板を見て、解決策を思いついた。'(シュヴェイツァールスカヤ 門番所)と'(コンディテルスカヤ 菓子屋)という二つの看板には、共通して"-skaja"(スカーヤ 場所)という接尾辞が使われていた。彼は一つ一つ別々に覚えなければならないと思われていた単語を、接辞を使って一つの単語から一連の単語群として作り出せるようにする方法を考えた。基本となる語彙は、多くの言語(ただし、ヨーロッパの言語に限られる)で使われているものを採用した。1878年、現在のエスペラントのプロトタイプといえる"Lingwe uniwersala"(リングヴェ ウニヴェルサーラ)を、ザメンホフはギムナジウムの同級生たちに教えた。その後6年間、まず各民族語の文学作品の翻訳と詩作に取りかかり、新しい言語の欠陥や運用上の扱いにくさを無くすことにした。ザメンホフは後の1895年にロシアのエスペランティスト、ニコライ・ボロフコに宛てた手紙に「私は6年間を言語を完璧にするために費やした。たとえそれが1878年の段階で既にできあがっていたとしても」と書いている。彼はもう既に自らの言語を公表できる準備ができていると考えていたが、ロシア政府の検閲がそれを許さなかった。これにより公表が遅れたが、その間、彼は旧約聖書やシェークスピアの作品などをエスペラントに翻訳し、言語の改良も重ねていった。1887年、ようやく出版された"Unua Libro"(最初の本)でエスペラントの基礎について紹介した。こうして今日話されているエスペラントが世に出された。最初のうち、エスペラントの話者どうしの交流の手段としては、文通か雑誌『"La Esperantisto"』(1889年から1895年まで発行)程度しかなかった。1905年までに17のエスペラント関係の雑誌が発行された。活動は最初ロシアや東ヨーロッパに限られていたが、次第に西ヨーロッパやアメリカ、アジアに広がっていった。日本では1906年に二葉亭四迷が日本最初のエスペラントの教科書『世界語』を著した。1904年小規模な国際会議が開かれ、それが1905年8月、フランスのブローニュ=シュル=メールで行われる最初の世界エスペラント大会の開催につながる。このときは33の国から688人が参加した。大会でザメンホフは、エスペラント運動の指導者としての地位を公式に放棄した。ザメンホフ自身がユダヤ人であったため、反ユダヤ主義による偏見が言語の発展を妨げるのを恐れたためである。彼はエスペラント運動の原理に基づいたブローニュ宣言を提案し、大会出席者たちはこれを採択した。1905年にフランスのブローニュで開催された第1回世界エスペラント大会で、『エスペラントの基礎』の変更を制限する宣言が採択された。宣言は、言語の基礎をザメンホフが出版した『エスペラントの基礎』( フンダメント デ エスペラント)から変更してはならないとし、いかなる者もこれを変える権利を有しないとした。この宣言は使用者が適当と思うように新しい考えを発表しても良いとしている。しかしながら実際には、現代のエスペラントの使い方は『エスペラントの基礎』で示された「お手本」と完全に一緒というわけではない。例えば「私はこれが好きです。」の一文をエスペラント文に翻訳するときを例に説明する。『エスペラントの基礎』に沿って訳せば(ミ アーマス チ ティーウン)となるが,これは「私はこれを愛しています。」の意味となり、少し意味が強すぎてふさわしくないと感じるエスペランティストが多く、実際には(ミ シャータス チ ティーウン)で代用することが多いが、これは元来「私はこれを高く評価します。」という意味であり、元の意味からは少しずれている(ただし,現行の辞書では動詞を「好きだ」の意味で使うことを追認している)。また、(チ ティーウ プラーチャス アル ミ)と訳すこともある。逐語訳すれば「これは私に気に入る」であり、完全に同じ意味ではないが、こちらの訳の方が「私はこれが好きです。」の意味に近い。ほかの慣習的な変化としては、国名を表す接尾辞がからが主流に変わったことがある(例: → )。また、厳密に言えば、エスペラント化された単語のうちで終わる単語はすべて形容詞であるが、ヨーロッパ諸語でののようにで終わる名前が使われることがあり、これを慣習的にエスペラント化された名詞として認められる辞書もある。ただし、『エスペラントの基礎』に従うなら、エスペラント化された名詞は、すべてのようにで終わらなければならないはずであり、この立場をとる辞書もある。またĥの発音がとりわけ難しいとされてkに置き換えられるなど、語形変化も起こっている。加えてエスペランティストたちは、新しく登場した事物や概念、外来語を表すために、さまざまな新語を取り入れた。例えば1934年発行の"Plena Vortaro"は7004項目(ほぼ語根)からなるが、2005年発行の"La Nova Plena Ilustrita Vortaro"は16780項目からなる。これらはそのまま使うのではなく、可能な限りエスペラントの造語法などに従った形で取り込まれている。例えば、コンピュータ(computer)は(コンプティーロ)といった具合である(道具を意味する接尾辞を使っている)。これにより、テレビやウェブやWindowsやMacなど、ザメンホフの時代には存在しなかった事物も自由に表現できるようになっている。「CD-ROMの中のbinというフォルダにあるボールペンのアイコンをダブルクリックするとウィンドウズにワープロのプログラムやファイル、フォントなどがインストールされます。このときインターネットに自動的にアクセスするので、通信を許可するようにファイアウォールを設定してください。」といった文章も、現代のエスペラントでは表現できるのである。新語の導入はエスペランティストなら誰でも提案することができ、最終的には一種の「競争原理」を勝ち抜いて最も頻繁に使われるようになったものが受け入れられる。例えば「コンピュータ」に関しても、"komputatoro"、"komputero" など様々な提案が行われたが,最終的にエスペランティストにとって最も簡潔と思われるが勝ち残ったのである(この際,動詞「計数・計量する」に「計算機で計算(演算)する」という意味が付け加えられた)。エスペラントの言語としての統制機関としてアカデミーオ・デ・エスペラントが在るが、個々のエスペランティストをがちがちに縛り付けるようなことはしていない。新語はどんなものでも受け入れられるとは限らない。例えば「安い」を意味する新語(チーパ・英語のcheapに由来)は、長たらしい(マルムルテコスタ:=「(反対)・多く・費用・(形容詞)」)に代わるものとして造られたが、あまり使われていない。1905年以降、世界エスペラント大会は二つの世界大戦の間を除き、毎年開催されている。1920年代、国際連盟の作業言語にエスペラントを加えようという動きがあった。イギリスのロバート・セシルや日本の新渡戸稲造をはじめ10人の各国代表者が賛同したが、フランスの代表者ガブリエル・アノトーの激しい反対にあい、実現しなかった。フランス語は英語に国際語の地位を脅かされつつあり、エスペラントを新たな脅威とみなしていたからである。エスペラントは人工言語であるため、公式にはどの自然言語とも類縁関係にないとされている。どの国の言語でもないため言語による民族感情に左右されず、特定の民族に有利になったり不利になったりしないため、だれでも使用の恩恵を受けられると言われている。しかし実際には文法、語彙ともにヨーロッパの諸言語、とりわけロマンス語を基礎に成立しているため、既存の語族に分類した場合、エスペラントは印欧語族に分類されるとの見方が20世紀初頭からある。そのため、非ヨーロッパ言語の話者には習得や運用が難しい(英語等、他の自然言語よりはまし、という程度でしかない)という、日本を含む非ヨーロッパのエスペランティストからの指摘もある。発音体系はスラブ語の影響を受けているが、語彙は主にロマンス語(フランス語・スペイン語等、約75%)、ゲルマン語(ドイツ語・英語等、約20%)から採用している。ザメンホフが定義していない文法上の語用論や相については、初期の使用者の母語、すなわちロシア語・ポーランド語・ドイツ語・フランス語等の影響を受けている。特にフランスやハンガリーなどのエスペランティスト達の働きは無視できない。ラテン語及びギリシア語等と同様、語順は比較的自由であるが、慣習上、英語と同じようなSVO文型が圧倒的に多く、形容詞が名詞の前に立つことが多い。主格及び対格以外の格は、前置詞によって示される。印欧語特有の屈折語的性格と、語幹に接辞が付属していく膠着語的性格とを併せ持つ(特に膠着語的性格が際だっている)言語であり、これはドイツ語などとも共通する点が多い(ちなみに英語は孤立語と屈折語の性格を併せ持っている)。エスペラントの使用者人数調査は、ワシントン大学の心理学教授シドニー・S・カルバートによって行われた。彼自身エスペラント大会に出席したことがあるエスペランティストであった。カルバートは160万人の人々がエスペラントを "Foreign Service Level 3" の能力で使いこなすことができると結論づけた。これは「専門的で堪能な」(エスペラントで挨拶と簡単な表現ができることにとどまらず、実際に意思伝達ができる能力を有する)人々に限定した数字である。この調査はエスペラント使用者を探し出すものではなく、多くの言語の世界的な調査の一部分が元になっている。この数字は Almanac World Book of Facts と Ethnologue にも登場した。この数字は世界人口の大体 0.03% に相当する。この数字では、ザメンホフが目指した普遍語には程遠い。Ethnologue はこのほかエスペラントを母語として育った、エスペラント母語話者が 200 から 2000 人いると言及した。カルバートは研究の結果だけ公表し、調査方法の詳しい点については明らかにしなかった。それゆえ、彼の研究の正確性は疑われている。ドイツのエスペランティスト、ズィーコ・ファン・ダイクはこの数字を疑い、調査して『神話なしのエスペラント("Esperanto sen mitoj")』の中でその結果を発表した。「もし、100 万人のエスペラント話者が世界中に平均的に散らばっているとしたら、ケルンには 182 人いることになる」と予想した。ズィコゼックは 30 人しか流暢に話す人を見つけることができなかった。そして、この数字は世界の平均的な地方よりも高い方である、と言及した。彼はまた、「さまざまなエスペラントの組織の登録者数が 20,000 人おり、組織に登録されていないエスペランティストもたくさんいるだろうが、登録されている人の 50 倍もいるとは考えにくい」ということも言及した。他のエスペランティストたちも組織の登録者数と非登録者数がそんな比率で存在しないと考えている。カルバート教授のデータ、あるいはその他のデータもエスペランティストの人口を確実にはじき出すことは不可能である。エスペラントを公用語としている国は存在しない。20世紀初頭には、ベルギーとドイツの国境付近に存在した中立地帯モレネの公用語をエスペラントにする案が提案されたこともある。1968年にアドリア海上に石油プラットフォームに似た人工島をつくって独立宣言した自称国家であるローズ島共和国はエスペラントを公用語として採用したが、翌年にはイタリア海軍により爆破され消滅した。非政府組織、特にエスペラント関係団体などでは作業語として使われている。最も大きいエスペラントの組織、世界エスペラント協会(UEA)は、NGOの一つとして国連とユネスコと協力関係にある。UEAにおいて日本を代表する国別団体として、1919年に設立され、1926年に財団法人化され日本エスペラント学会が活動している。2009年12月末現在の会員数は1236人である。『エスペラントの基礎』はエスペラントを改造することを認めていない。しかしながら、年月がたつに従って、たくさんの団体・個人がエスペラントの改善を試み、その改造案を提示した。改善の対象となったのは字上符つき文字や女性形語尾-in-、形容詞の格の一致などが多い(最後についてはザメンホフ自身も失敗であったと回顧している)。改造案のほとんどは失敗か計画段階にとどまったが、唯一1907年にパリで行われた国際語選定代表者会で発表されたルイ・ド・ボーフロンによるイド改造案(イド語)はある程度の支持者を得た。イドの主な改造はアルファベット(特に,字上符付き文字の排除)と幾つかの文法事項の変更であった。初期には比較的多くの人がイド改造案に賛同したが、この運動は改造に次ぐ改造を呼び次第に分裂していった。今なお、250 から 5,000 人がイド語を使用しているとされるが、使用人口・影響力ともエスペラントとは比較にならず、これもまた「成功した」とは言い難い。Fasile などの新しい国際言語案もエスペラントを意識したものと言えるが、これもエスペラントを脅かすレベルまでには全く到達していない。エスペラントのアルファベットは(アルファベート)と呼ばれ、ラテン文字アルファベットにサーカムフレックス付きアルファベット とブレーヴェ付きアルファベット を加えた28文字を使用する(ただし、 は k に置き換えられる傾向にあり、今日ではあまり見られない)。q、w、x 及び y は人名や科学記号など特殊な場合を除いて使用しない。各字母の名称は、母音字はその発音、子音字はその子音に母音 -o を付けたものである(a アー、b ボー、c ツォー、 チョーなど)。ちなみに q、w、x 及び y の名称は、それぞれ q クーオ、w ドゥオブラ・ヴォー(又はヂェルマーナ・ヴォー若しくはヴァーヴォ)、x イクソ、及び y イプスィローノ(又はイ・グレーカ)である。英文タイプライターなどでダイアクリティカルマークが付いた文字が表示できないとき、別の文字に置き換えてダイアクリティカルマーク付き文字を表現することを代用表記()と呼ぶ。h, x あるいは ^ などを文字の後ろ(又は前)に加え、ダイアクリティカルマーク付き文字であることを示す方式が主流だが、を w に置き換えるなど、エスペラントで使用しない文字に置き換える方法もある。何を後置するかによって、H-方式、X-方式のように呼ぶ。現在はUnicodeが普及したことにより、コンピュータの上では代用表記の使用は少なくなってきている。H-方式(H-sistemo)またはザメンホフ方式(Zamenhofa sistemo)は h を後置する方法で、唯一『エスペラントの基礎』で定義されている方法である。そのため「第2の正書法」とも呼ばれる。ただし u にだけは後置しない。"flughaveno"(空港)のように代用表記に見える綴りがあると紛らわしいという欠点がある。エスペラントですでに使われている文字を転用するこの方式が採用されたのは、活字の数を増やしたくなかったためと言われている。X-方式(X-sistemo)は x を後置する方法である。x はエスペラントでは使用しないため(エスペラント文に限れば)置き換えるのが簡単であるという利点から、インターネットなどで広く使われている。ただし、フランス語の人名や名詞・形容詞(特に複数形)には -(e)aux, -eux または -oux で終わるものがあるため、このような置き換えたくない文字の処理をどうするかが問題になる。この問題を避けるため、を ux と書かずに vx と書く方法があるが、あまり広まっていない。エスペラント版のウィキペディア、ウィクショナリーには、X-方式が使われていて、cx を 、gx を と、x が付いた文字を自動的に字上符付きのものに置きかえる機能がついている。置き換えたくないとき、編集ページで uxx と入力すれば本文中で ux と表示される。置き換え処理は何度か改良されている。以前のバージョンでは
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。