恭帝(きょうてい)は、東晋の第11代(最後)の皇帝。9代皇帝孝武帝の次男。知的障害とされる同母兄の安帝と異なり、英明な資質があったと評される。劉裕が安帝を殺害して簒奪しようとしているのを察知し、常に安帝の傍にいたが、義熙4年(418年)、司馬徳文が不在の際に安帝は殺害された。その後、劉裕により皇帝として擁立されたが、これはもはや禅譲の布石としての傀儡に過ぎなかった。そして結局、元熙2年(420年)に劉裕に禅譲することを余儀無くされた。こうして東晋は滅亡し、新たに劉裕(高祖武帝)による宋王朝が成立したのである。この時、「晋氏(東晋)はとうに滅んでいたはずだった、何を恨むことがあろう」と言ったと『晋書』にはある。司馬徳文は宋によって零陵王に封じられたが、翌年殺害された。東晋の正統性を認めていない『魏書』によると、武帝の兵に服毒自殺を命じられたが、「仏教では、自殺者は人に転生できない」と拒んだので撲殺されたという。つまり、司馬徳文は仏教徒であった。また、同書によれば皇后褚霊媛の兄・褚季之と弟の褚淡之は武帝に通じて、司馬徳文の子が生まれる度に殺害したという。
出典:wikipedia
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