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美保海軍航空隊

美保海軍航空隊(みほかいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊・教育機関の一つ。30000人もの大量の志願者を募った予科練甲飛第13期の生徒を教育するため増設された予科練教育航空隊である。美保飛行場は昭和14年秋から造成が始まったが、昭和17年頃までは工事が進捗しなかった。予科練航空隊増設を機に、呉海兵団を投入して突貫工事を進めたが、開隊までには完工にいたらず、入隊したばかりの甲飛13期生も残工事に借り出された。当初は練習機を備えて機上練習も可能だったが、昭和19年1月に初歩練習隊として第二美保海軍航空隊(だい2みほかいぐんこうくうたい)として独立した。第二美保空は昭和20年2月11日をもって奈良県の柳本飛行場に移転し、「大和海軍航空隊(やまとかいぐんこうくうたい)」となる。本稿では、第一・第二美保空に加え、転出後の大和空も併記する。甲飛第13期は空前の30000人規模の募集を図った。これを収容するため、海軍は3個教育航空隊を増設する。美保空・松山海軍航空隊・三重海軍航空隊奈良分遣隊である。比較的整備された美保飛行場を活かすべく、若干の機上練習機を投入し、航空術訓練に充当した。         美保を原隊とする第三八一海軍航空隊が開隊。予科練教育の凍結を期に、14期・15期は他の部隊に派遣され、解隊を前に美保空から生徒はすべて転出した。空になった美保飛行場は、乙飛行隊の山陰海軍航空隊の作戦基地として充てられたが、本土決戦を迎えることなく終戦となった。機上練習機各種。甲飛第12期以前の予科練生の訓練に充てるべく、昭和19年より開かれた。美保空卒業生は甲飛13期に限定されるため、美保飛行場で訓練を完了できたのは彼らだけである。昭和20年に入ると、美保飛行場は実施部隊の駐留が相次ぎ、初歩練習・中間練習が困難となっていた。柳本飛行場の造成が進行したことから、練習隊は美保飛行場を明け渡して柳本に転出した。これを機に、峰山分遣隊は姫路海軍航空隊に委譲された。昭和18年頃より予備工事が始まり、19年から近隣の勤労奉仕や朝鮮人を動員して急速設営された柳本飛行場で開かれた。開隊に先立って、要員は空路で柳本に到着している。本土決戦時に紀伊半島への上陸を警戒した海軍は、第三航空艦隊司令部を柳本に進出する計画を持っていたといわれる。7月には柳本に戦闘機隊が進出し、乙飛行隊の近畿海軍航空隊司令部が置かれるなど、柳本は増強の一途をたどっていた。大和空の訓練も特攻主体となっており、稼動するわずかな機体は特攻用に温存される状況の中で終戦を迎えた。三航艦に続き、大本営海軍部の進出計画もあったといわれる。美保飛行場は、米軍の駐留の後、昭和33年に返還された。昭和30年より航空自衛隊が駐留しており、現在、防衛庁管轄の飛行場であるが、(米軍の駐留中から)民間航空にも開放され、「米子空港」(または「美保空港」)の通称で利用されている。一方、柳本飛行場は米軍の接収が終了すると農地に戻された。土地改良によって痕跡は薄れてはいるが、防空壕などの付帯設備の残骸が周辺各地にも残っている。

出典:wikipedia

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