洞爺丸(とうやまる)は、運輸省鉄道総局ならびに日本国有鉄道(国鉄)が青函航路で運航した車載客船である。戦災で壊滅した青函連絡船の復興のため、当時の国鉄であった運輸省鉄道総局がGHQの許可を得て建造した車載客船4隻の第1船である。本船の同型船には羊蹄丸、摩周丸、大雪丸があり、これら4隻は洞爺丸型と呼ばれた。1954年(昭和29年)9月26日、台風15号 洞爺丸台風(国際名:マリー〔Marie〕)の暴風と高波により転覆・沈没し、死者・行方不明者あわせて1,155名という、日本海難史上かつてない洞爺丸事件を起こした悲劇の船として、歴史に名を残すことになった。ここでは、終戦前後から本船建造に至るまでの青函航路の概略についても記述する。終戦1ヵ月前の1945年(昭和20年)年7月14日、15日のアメリカ軍による空襲で、青函連絡船は全船稼働不能となった。このため、急遽7月17日から海軍特務艦千歳丸(2,669総トン)、7月20日から同浮島丸(4,730総トン)を投入し、7月23日からは、たまたま函館船渠で定期検査修繕中の稚泊連絡船 亜庭丸 (3,391総トン)を繰り上げ出場させ投入、7月25日には船舶運営会樺太丸(元関釜連絡船初代壱岐丸1,598総トン)を投入した。また、上記の空襲で損傷し、函館船渠で修復していた車両渡船第七青函丸を7月25日から、第八青函丸を7月29日から復帰させ、運航継続に努めた。終戦直後、青函航路には、多くの引揚げ者や復員者、徴用解除の帰郷者、朝鮮半島や中国大陸への帰還者、更に食料品の買い出しの人々が殺到し、貨物は減少したものの、当時、本州と北海道とを結ぶ代替ルートのない唯一の航路で、農産物や石炭輸送の継続を迫られていた。終戦時稼働できたのは上記2隻の車両渡船と樺太丸だけで、輸送力の絶対的な不足は歴然としていた。このような中、8月20日から関釜連絡船 景福丸(3,620.60総トン)を、8月21日からはフィリピンからの拿捕船で船舶運営会の暁南丸(1,243総トン)を、8月24日からは関釜航路の貨物船壱岐丸(2代)(3,519.48総トン)を、11月29日からは稚泊連絡船宗谷丸を投入したほか、多数の商船、機帆船、旧陸軍上陸用舟艇などを傭船して、この混乱期に対応した。更に、青函航路への回航中、1945年(昭和20年)7月30日、京都府下宮津湾でアメリカ軍の空襲に遭い、擱坐していた関釜連絡船 昌慶丸(3,620.60総トン)を浮揚、修復し、1947年(昭和22年)9月23日から青函航路に断続的に就航させ、同徳寿丸(3,619.66総トン)も昌慶丸 と交互に助勤する形で、1948年(昭和23年)3月4日から5月2日までと、1949年(昭和24年)3月から8月にかけて助勤させていた。しかし、これら、他航路からの転属船は貨車航送ができず、慢性的な貨物輸送力不足の解決にはならなかった。戦時下を生き延びた、たった2隻の車両渡船も、1945年(昭和20年)8月30日に、先ず第七青函丸が函館港北防波堤に衝突して入渠休航となり、同船が復帰した同年11月28日には、第八青函丸が青森第1岸壁で貨車積込作業中、ヒーリング操作不調で、その場に沈座してしまい、翌1946年(昭和21年)1月1日ようやく浮揚するという事故も発生した。この修復工事に際し、比較的容易に実施可能な旅客輸送力増強策として、1946年(昭和21年)4月、船橋楼甲板の本来の甲板室の前後に、定員535名の木造の旅客用甲板室(デッキハウス)を造設して、“デッキハウス船”と呼ばれる客載車両渡船とし、1946年(昭和21年)5月21日より旅客扱いを開始した。一方1945年(昭和20年)10月9日には、戦時中より建造中であった、所謂“続行船”の第十一青函丸 が就航し、1946年(昭和21年)5月15日には同じく第十二青函丸が就航し、1946年(昭和21年)7月23日には同じく石狩丸(初代)が就航した。当初これら3隻は、旅客設備のない車両渡船として建造されていたが、第十一青函丸では就航1年後の1946年(昭和21年)9月に、他の2隻では建造中に、第八青函丸同様、早期の旅客輸送力増強を目指し、船橋楼甲板に定員300~400名の鋼製の旅客用甲板室を造設して“デッキハウス船”とした。しかし、戦後竣工の新造船は、就航と同時に進駐軍専用船に指定されてしまい、更に1946年(昭和21年)年6月には、就航中ならびに今後就航予定の全“デッキハウス船”を進駐軍専用船に指定する、との指令が出され、日本人向けの輸送力増強は進まなかった。1945年(昭和20年)12月24日には、相次ぐ事故による貨車航送力の回復遅延に業を煮やした進駐軍は、貸与したLST(戦車揚陸艦)(排水量(計画満載)3,590トン)の車両甲板にレールを敷設して、車両渡船として使用するように命じた。これは、船首から貨車の積卸しをする方式で、車両甲板船首端では1線、車両甲板では3線となり、連合軍がノルマンディー上陸作戦時に、イギリスの貨車をフランスへ航送するのに用いた方法であった。早速、 三菱重工横浜造船所で改装工事が行われたが、建築限界無視のうえ、車両甲板に急勾配があるなど問題も多く、小型無蓋車のトムとト限定で、積載車両数はトム換算20両となった。函館側は有川第4岸壁の裏側の、未完成の第5岸壁をLST専用とし、青森側は、当初は空襲で可動橋使用不能となっていた青森第3岸壁をLST専用として、1946年(昭和21年)3月31日から2隻のLSTが就航した。その後、1946年(昭和21年)7月1日からは、青森側を夏泊半島東側の小湊に急造したLST専用桟橋に移し、函館(有川)-小湊間航路とした。しかし喫水が船首で2.65m、船尾で3.97mと浅いため、風に流されやすく、1947年(昭和22年)1月27にはQ022号が平館海峡東岸、貝埼沖で座礁大破し以後稼働できず、1947年(昭和22年)8月20日には船舶運営会に引き渡された。残るQ021号はその後も稼働はしたが、片道8時間を要し、1日1往復しかできず、給油のため往復8日間もかけて横須賀まで行く有様で、逼迫した青函航路の窮状にとっては焼け石に水であったが、 戦後建造のW型 H型車両渡船の連続就航を目前に控えた1948年 (昭和23年)2月には運航終了となり、1948年 (昭和23年)2月26日にアメリカ軍に返還された。 戦時中から建造中であった、車両渡船 第十二青函丸 、石狩丸(初代)を含む所謂“続行船”の竣工後をにらみ、日本政府がGHQに出していた大量の新造船建造申請は、1946年(昭和21年)1月、ことごとく却下された。しかし、このような青函航路の貨車航送能力不足は、北海道に駐留するアメリカ軍自身の物資輸送にも支障をきたすところとなり、1946年(昭和21年)7月に至り、運輸省鉄道総局はGHQから、青函航路用に車載客船4隻、車両渡船4隻、計8隻(補助汽船と宇高航路の車載客船も含めると17隻)という、大量の連絡船建造の許可を取り付けることに成功した。本船は青函航路の車載客船第1船として、早くも1946年(昭和21年)9月17日に三菱重工神戸造船所で起工されたが、同造船所にとっても本船は戦後初めて起工する商船であった。翌1947年(昭和22年)2月には突然車載客船4隻の建造許可取消命令が出される(運輸省鉄道総局の説得工作で命令は撤回されたが)など、気の変わりやすいGHQの方針に翻弄されながらも、戦争で破壊された施設で、十分な資材もない厳しい造船事情の中、極めて逼迫した青函航路の早急な輸送力回復のためと、GHQによる新たな阻害が起きないうちの竣工を目指し、建造は急ピッチで進められた。洞爺丸型車載客船4隻の建造は、かつて翔鳳丸型を建造した浦賀船渠も候補にあがったが、建造体制が整わず辞退し、3隻を三菱重工神戸造船所が建造し、1隻を浦賀船渠が建造することとなった。なお、浦賀船渠では同時期、このほかに、戦時中から量産してきたW型戦時標準船の平時仕様の車両渡船2隻の建造も行い、三菱重工横浜造船所ではH型戦時標準船の平時仕様の車両渡船2隻の建造が行われた。なお、設計段階では、本船もデッキハウス船同様、竣工後は進駐軍専用船に指定される懸念もあり、当時のアメリカ軍高級将校は、寝台車に調理室を設けてホテル代わりとし、北海道を含む日本国内至る所を旅行していたため、これに対応できるよう、貨車航送力不足のこの時期に、あえて貨車積載数を犠牲にしてまで、後述するような寝台車航送を重視した設計となった。GHQが本船を日本人用にすると発表したのは着工直前であった。こうして、待望の真新しい洞爺丸は、戦後初の“大型客船”として、人々の祝福を受け、1947年(昭和22年)11月21日、青函航路に就航した。激しく混雑する列車を降り、真新しい連絡船に乗り換えた乗客たちは、給湯設備の整った洗面台で顔を洗い、整備された明るい船内でくつろぐことができた。戦後混乱期の最中にあった国鉄において一足早く、洞爺丸型各船は快適な旅のサービスを提供したのである。車載客船としての基本構造は1924年(大正13年)に建造された翔鳳丸型に準じながらも、設計期間短縮のため、 戦時中、博釜航路へ投入予定で設計されたH型戦時標準船石狩丸(初代)の船体線図を一部修整のうえ使用し、二重底に変更するなど平時仕様で建造された。垂線間長113.2mはW型船H型船と同一で、翔鳳丸型に比べ、全長が約9m延長され118.7mとなり、総トン数も3,400トン級から3,800トン級へと大型化したが、船尾扉の装備はなかった。なお船体重量軽減のため、船体肋骨の間隔をW型H型の68cmから76cmに伸ばした。新造時の旅客定員は1等44名、2等255名、3等633名、計932名と、翔鳳丸型と同等であった。同時期建造のW型H型車両渡船も平時仕様に改良されていたとはいえ、外観的には戦時標準船そのままであったのに対し、洞爺丸型では、甲板室の外観や内装だけでなく、補機類の大幅な交流電化など、当時としては相当の新機軸導入が図られていた。最上層は操舵室屋根に相当する羅針船橋で、船体中心線上に磁気コンパスが設置されていたほか、探照灯や無線方位測定機のアンテナなどが設置されていた。羅針船橋の下が航海船橋で、前後長約20m、幅約11mと広くはない。最前部に、船体全幅にわたるだけでなく、両翼は舷外へ約1m張り出した操舵室が設置され、操舵室内の船体中心線上には木製舵輪の浦賀式水圧式テレモーターが立ち、左舷側にエンジンテレグラフ、ドッキングテレグラフ、ステアリングテレグラフが、右舷側に海図台が配置され、新造時はレーダーやジャイロコンパスの装備はなかった。また操舵室前面は第三青函丸のように円弧状に丸く張り出した形に戻った。この甲板には操舵室以外の甲板室はなく、操舵室のすぐ後ろの船体中心線上には前部マストが設けられたが、W型H型のような3本足トラス構造ではなく、柱1本の通常型であった。端艇甲板には、屋上が上記の航海船橋となる小規模な甲板室があり、この前面も、直上の操舵室前面からの続きで、前方に円弧状に丸く張り出しており、更にその前側に、両舷を繋ぐ屋根付きガラス窓付きの遊歩廊が設けられたため、その幅約1.2mが、操舵室前面より円弧状のまま前方に張り出した。このため操舵室が端艇甲板室前面より1.2m後退して設置された外観となった。この甲板室には船長室、甲板部・機関部・通信部の高級船員居室と浴室、トイレ・洗面所があったほか、甲板室の左舷船尾側には無線通信室が配置された。この甲板室の後方には別棟の小さな甲板室があり、左舷が非常用発電機室、右舷が電動送風機室となっていた。電動送風機室はこのほか、4本の煙突に囲まれた位置に1ヵ所、煙突群の後方に2ヵ所設置された。端艇甲板両側には各舷5隻ずつ救命艇が懸架されていたが、4本の煙突が2本ずつ舷側寄りに設置されていたため、その部分への救命艇配置ができず、各舷、煙突の前に1隻、煙突の間に1隻、煙突の後ろに3隻で、両舷で10隻となり、右舷最前部のみ発動機付きであった。救命艇の懸架列の船首側両舷側には「TOYA」の電飾標示もあった。後方の船体中心線上には通常型の1本柱の後部マストが立ち、最後部には積載車両の積卸し作業を目視しながらヒーリングポンプの遠隔操作ができる箱型の後部操縦室が設置された。車両甲板天井に相当する上部遊歩甲板の最前部は露天の船首係船作業場で、その中央には揚錨機が設置されていた。当時の青函連絡船では、入港時の右舷投錨は、岸壁直前でのブレーキと右旋回の支点となるため、出港時は、これを揚錨することで得られる船首の右回頭が、船首を牽引する補助汽船の手助けとなるため、入港ごとに投錨していた。その揚錨機を駆動するのが80kW巻線型交流誘導電動機で、揚錨機の回転軸とは直角の前後方向に回転軸を向け、揚錨機後ろ側の船体中心線上に設置されていた。揚錨機には錨鎖を巻き揚げる軸とは別に、これと平行な回転軸があり、この左右両端に糸巻き型のワ―ピングドラムが付き、着岸時には、岸壁と繋いだ係船索を、途中甲板縁の滑車であるフェアリーダーで方向を変えながら、ここに巻き付け、適宜スリップさせつつ巻き込みながら、船体を岸壁に寄せていた。また、揚錨機から船体中心線上を船首方向へ伸びるシャフトが設置され、その先端には、回転軸が垂直の糸巻き型のも設置されていた。これらの後方には、下の船員室へ通じる階段室、倉庫、電動送風機室(サーモタンク室)が一体となった小さな甲板室があった。この部分以外は船体の主たる甲板室で、その全周には遊歩廊が設けられ、このうち前方と両側面の船首側約8m以外は側面は開放されていた。前方の遊歩廊外壁には1層上の端艇甲板同様ガラス窓が設けられ、その外壁面は端艇甲板遊歩廊前面外壁と同一面で連なっていた。遊歩廊内側の甲板室最前部両側の角部屋2室は1段寝台2人部屋の1等特別室で、特に左舷側はトイレ・浴室を付属する豪華な部屋で、特1号室と通称された。しかし、これら特別室の外側には窓付き遊歩廊があるため、室内からの外部展望は必ずしも良好ではなかった。その後ろ、2本の廊下が平行に後方へ延び、その外側に5室ずつ計10室の2段寝台4人部屋の1等船室が並び、2本の廊下にはさまれた内側には、1等旅客共用のトイレ・洗面所、浴室、船舶給仕控室があった。2本の廊下が終わると、そこは両舷にわたる広々とした1等出入口広間で、ソファーが置かれていた。その左舷船尾側壁面には木彫りレリーフの装飾が施されていた。この装飾のある壁面の後ろ側には甲板室幅の左舷側半分以上を占める1、2等食堂があり、食堂の右舷側を通る前後方向の通路兼用の1、2等喫煙室との仕切りにはガラス格子が用いられた。ただ、後述の煙路と3等船室からの脱出用階段がこの食堂と喫煙室の外壁面に設けられたため、舷側窓を十分に設置できなかった。喫煙室後方の通路右舷側には事務長室と主席事務掛室が配置され、通路は更に船尾方向へ続いていたが、ここから後方は2等区画となった。通路左舷側の食堂の後方には配膳室が隣接し、その後方は定員30名の開放2段寝台の2等寝台室で、通路をはさんだ右舷側にはトイレ・洗面所、案内所が置かれ、その後方には両舷にわたる2等出入口広間が続いた。その後方は左舷に婦人用、右舷に男子用トイレ・洗面所があり、その間の通路を通り抜けると、定員194名のじゅうたん敷きの2等雑居室に達した。翔鳳丸型では乗下船時の雑踏を喫煙室や通路で対応していたが、本船ならびに同型船では、1等と2等それぞれに出入口広間を設置した。なお、上部遊歩甲板は1等船室区画以外は最上階のため、前方の1等出入口広間から食堂、喫煙室、通路、2等出入口広間、2等雑居室に至るまで、随所に天窓を設けて自然光採光が図られた。3等旅客優遇のため、車両甲板両舷中2階の、翔鳳丸型では舷側面が開放状態の幅の狭い甲板で、左舷のみ3等旅客が利用できた下部遊歩甲板の幅を約3.2mまで拡大し、舷側を外板で囲い、大型の窓を多数設け、両舷とも3等船室とし、左舷には3等出入口、3等食堂、3等椅子席を、右舷には3等椅子席を設置した。椅子席は3人掛けボックスシートで、船体内側に配置され、窓側は通路となった。なお3等椅子席は、既に進駐軍専用船となっていた“デッキハウス船”で導入済みであった。右舷の3等船室化のため、翔鳳丸型では同所にあった機関部高級船員居室は端艇甲板へ移った。また、車両格納所囲壁前方には、両舷を繋ぐ3等旅客用通路が設けられ、その船首側には甲板部員居室と高級船員食堂、甲板部員食堂等が配置された。なお、GHQには可能な限り大型船との印象を与えないよう、下部遊歩甲板両舷船尾には“減トン開口”としての扉を設置し、総トン数への加算を回避した。下部遊歩甲板拡幅によって、車両格納所の幅は8.4mと狭くなり、船内軌道は、W型、H型車両渡船の船内軌道の中央の2線のみを敷設する形となった。このため、船尾端では船内軌道は中央の1線だけとなり、車両積卸し時は、可動橋の中央の線(橋2番線)とだけ接続された。船内ではすぐ分岐し、船内の大部分の区間で2線平行となったが、船首部では船室確保のため、W型、H型に比べ、軌道長はそれぞれ約6mずつ短くなった。新造時の軌道有効長とワム換算車両積載数は、左舷の船1番線では81m、10両、右舷の船2番線では61m、8両の計18両とされ、翔鳳丸型より7両減であった。しかし、車両甲板船尾端から車両格納所前壁までは93.5mもあり、船1番線の軌道全長も90m以上あったため、早くも1951年(昭和26年)9月施行の規程では、船1番線90m、11両、船2番線63m、8両の計19両に改定されていた。また、寝台車航送のため、車両甲板車両格納所囲壁に起倒式の簡易ホームが客車扉位置に設置され、車両甲板車両格納所船首部の両側には、車両格納所側から出入りできる航送客車旅客用のトイレ・洗面所も設置されていた。下部遊歩甲板の下の車両甲板舷側部分には、左舷には3等トイレ・洗面所、厨房とそれに隣接する配膳室が設置され、1層上の下部遊歩甲板左舷の3等食堂の配膳室、2層上の上部遊歩甲板左舷の1、2等食堂の配膳室とは内部階段で繋がっていた。右舷には3等トイレ・洗面所、事務掛居室等が配置され、船首部は船員食堂厨房、機関部員食堂、機関部員居住区に充てられた。車両甲板船尾露天部の両舷は船尾係船作業場となっており、各舷1台ずつ計2台の電動キャプスタンが設置されていた。車両甲板下の船体は元設計のW型H型船同様、8枚の水密隔壁で船首側から、船首タンク、錨鎖庫、第1船艙、第2船艙、第3船艙、ボイラー室、機械室、車軸室、船尾タンク9区画に分けられていた。このうち第1船艙の第二甲板は船客掛と調理員の居住区に充てられ、第2船艙の第二甲板と、深水タンクをやめた第3船艙の第二甲板はそれぞれ畳敷きの3等雑居室とし、前部3等雑居室、中部3等雑居室とし、機関室(ボイラー室、機械室)後方の車軸室第二甲板も同様に後部3等雑居室とした。なおW型H型船同様、第3船艙両舷にはヒーリングタンクが置かれたが、船内軌道2線のため片舷160.7トンと小容量となり、タンク高さを第二甲板以下に収め、中部3等雑居室を両舷側まで拡げることができた。しかし、この床下の船艙部分には70kWかご型交流誘導電動機駆動渦巻ポンプ使用のヒーリング装置が設置され、ポンプ室としたが、後ろ隣のボイラー室側隔壁に沿って、ポンプ室の一部が車両甲板下まで吹き抜け構造となり、その囲壁のため、中部3等雑居室は船尾側の壁が四角く突出したコの字型平面となった。3等船室が下部遊歩甲板にも新設されたとはいえ、主力は依然この車両甲板下の三つの雑居室であった。船艙レベルで、このポンプ室から後ろ隣のボイラー室、その後ろの機械室、更に車軸室との間の3枚の水密隔壁にそれぞれ水密辷戸が設置された。これらはいずれも交流電動機直接駆動方式で、通常は開放されており、船体損傷等で浸水した場合、浸水が他区画へ拡大しないよう閉鎖されるが、この開閉は車両甲板左舷の水密辷戸動力室に設置された3馬力交流電動機で行われた。その動力伝達方法は、電動機の回転出力がまずウォームギアで減速され、電動機駆動時のみ接続状態となるマグネットクラッチ、駆動軸回転方向変更時はしばらく空転して起動時の過負荷を防止する過負荷防止継手を経て、回転ロッドで動力室外へ出た後、 自在継手や傘歯車で方向を変えながら船内を進み、水密辷戸に達し、辷戸表面の上下に水平方向に取り付けられた2条のラックギアを駆動して辷戸を開閉するものであった。これらは、操舵室からの電動一括開閉、各動力室からの電動開閉と手動開閉、辷戸現場での電動開閉と手動開閉が可能であった。船内には10系統のサーモタンク方式の換気・暖房装置が設置されていた。これは電動送風機室のサーモタンクへ取り入れた外気を、電動送風機でダクトを通して全ての客室と船員室へ送風換気するもので、寒冷時は外気をサーモタンク内の蒸気加熱機、蒸気加湿器で加温加湿して送風し、外気温マイナス4℃でも室温22℃ 湿度55%に調整できた。従来の青函連絡船同様、石炭焚きボイラーに蒸気タービン2台2軸で、ボイラーは乾熱室式円缶6缶となり、十分な蒸気発生量を確保できた。ボイラーからの煙路は第一青函丸以来の車両渡船同様両舷に振り分けたが、車両格納所が2線と狭いため、上部遊歩甲板の甲板室壁内に収まっていた。終戦後の粗悪炭使用を考慮し、煙道を太くしたこともあり、2列に並ぶ4本の煙突はわずかに後ろへ傾斜し、大きく立派なものとなったが、風圧面積を増加させる結果となった。タービンには平時型で高低圧タービン2筒式の三菱神戸式1段減速歯車付衝動反動タービン2台を搭載し、プロペラは互いに外転した。舵はW型H型同様1枚舵であった。鉄道省は1936年(昭和11年)建造の関釜連絡船 金剛丸(7081.74総トン)で日本初の船内電力交流化を行うとともに、大胆な船内電化も行っていた。青函航路でも1939年(昭和14年)建造の車両渡船第三青函丸以降は、金剛丸と同じ三相交流60Hz 225Vを採用してはいたが、重要な補機類の動力には依然蒸気が使われていた。本船ではこれら補機類の交流電化も積極的に進め、金剛丸で既に採用されていた交流電動油圧式操舵機を青函連絡船として初採用した。これは、7.5kWかご型交流誘導電動機駆動で、回転数、回転方向一定のまま、吐出量も吐出方向も無段階に調節できる アキシャルプランジャ式可変吐出量型油圧ポンプ1台を運転し、その油圧でシリンダーを駆動して舵を動かす仕組みで、この油圧ポンプの遠隔操縦は、W型船、H型船の汽動式操舵機の遠隔操縦と同様、水圧式で、操舵室の舵輪の付く浦賀式テレモーターの起動筒から、船尾車両甲板下の操舵機室まで、延々と続く水圧管を経て駆動される操舵機室のテレモーター受動筒によって行われた。また既述の通り国鉄連絡船としては初めて電動式ヒーリングポンプを採用したほか、各種ポンプ類にも交流電動機が用いられた。また、その特性上、交流電動機には不向きとされ、金剛丸では電動発電機を介して直流電動機を回すワードレオナード方式を採用せざるを得なかった係船機械にも、羽根車室内の作動油量を調節してスリップ量をコントロールできるシンクレア流体継手を交流電動機出力軸に介することで、揚錨機やキャプスタンの交流電化を実現した。この方式は従来の汽動式に比べ操作は容易ではあったが、低速回転に限度があり、またそのとき十分なトルクが得られない等の問題点も指摘された。このほか、厨房、配膳室には交流電源の電気冷蔵庫、電気レンジや皿洗機も導入された。これらの電源確保のため、機械室には蒸気タービン駆動の出力500kVAという大型発電機を2台装備し、更に端艇甲板には圧縮空気で起動するディーゼルエンジン駆動の50kVA非常用発電機も設置したが、自動起動ではなかった。船体はH型船のため、見る方向により、船首部両舷外板の車両甲板高さのナックルラインが気にはなるが、甲板室前面は丸みを帯び、その最上層にも、同様の丸みを持つ操舵室が約1.2m後退させて設置され、その後ろに2列に並ぶ4本の大きな煙突はわずかに後ろへ傾き、舷側に連なる大きな角窓と、下部遊歩甲板まで下げた白と黒の塗り分け線は実際よりも甲板室を大きく見せ、堂々たる大型客船の印象を与えた。なお、後述のSCAJAPナンバー標示廃止後は、前側煙突外側のファンネルマークの下に船名イニシャルのTOが標示された。試運転最大速力は17.46ノットと、翔鳳丸の16.95ノットを若干上回ってはいたが、青森-函館間の所要時間は、1944年(昭和19年)4月からの翔鳳丸型とほぼ同様の、下り4時間30分、上り4時間40分とし、1日2往復の運航が可能であった。なお航海速力は、翔鳳丸型と第三~第十青函丸は15.5ノットとされていたが、洞爺丸を含む戦後竣工の同等速力の船は14.5ノットとされた。洞爺丸就航直前の1947年(昭和22年)10月の青函航路では、戦時中就航のW型車両渡船第六青函丸、第七青函丸、第八青函丸の3隻はいずれも客載車両渡船(デッキハウス船)化工事完了しており、日本人旅客の乗船は許されていた。戦後就航の第十一青函丸、第十二青函丸、石狩丸(初代)の3隻も客載車両渡船(デッキハウス船)化されていたが、当時進駐軍専用船で日本人旅客の乗船は許されなかった。また、LST Q021が1隻、有川-小湊間航路で貨車航送を行っていた。一方、車両航送できない船は、客船景福丸、同型の昌慶丸、客貨船宗谷丸のほか、元来は貨物船ながら、終戦直後は船艙を客室に改装して旅客輸送を行った壱岐丸(2代)も就航中で、これら11隻で15往復運航していた。1947年(昭和22年)11月21日の洞爺丸就航から、翌1948年(昭和23年)11月27日の大雪丸(初代)就航までの1年間で、GHQの許可を得て建造された8隻全船が順次就航し、一気に車載客船4隻、客載車両渡船(デッキハウス船)6隻、車両渡船4隻の14隻体制となった。この間、客貨双方の輸送力の段階的な増強に伴い、1948年(昭和23年)2月26日には運航効率不良のLST Q021 を返却してLST貨車航送を終了、同年6月5日には壱岐丸(2代)を広島鉄道局へ転属させ、同年10月10日には、途中徳寿丸と交代しながら助勤した昌慶丸も助勤解除とした。しかし、事故や故障による休航は多く、1948年(昭和23年)10月からも15往復のままとし、翌1949年(昭和24年)も、3月から8月まで徳寿丸による助勤があり、景福丸も同年7月30日の終航まで、宗谷丸も1950年(昭和25年)10月13日の有川での係船まで運航された。このような中、 大雪丸(初代)就航直後の1948年(昭和23年)12月16日から、後述の進駐軍専用列車の寝台車航送とは別に、余席があれば日本人も乗車可能な1等寝台車(1949年(昭和24年)4月末までは「特別寝台車」と呼称)(マイネ40形)航送が開始された。また、経済復興のため採られた、所謂傾斜生産方式による石炭輸送需要の増加と、貨車航送能力回復により、1948年(昭和23年)度の貨物輸送量は前年比137%、更に1949年(昭和24年)度は、1949年(昭和24年)3月発表のドッジ・ラインによるデフレ不況 にも関わらず、未だ回復しない海運貨物輸送を尻目に前年比152%の350万トンに達し、戦時中1943年(昭和18年)度の364万トンに迫った。このため臨時便増発で対応し、1949年(昭和24年)10月から旅客便5往復、貨物便13往復の計18往復設定となった。一方旅客輸送は、1948年(昭和23年)度は前年比109%の206万人に達したが、1949年(昭和24年)度は上記ドッジ・ラインの影響もあり、前年割れ87%の175万人に留まり、以後2年間は低迷を続けた。1951年(昭和26年)5月からは、たびたび出現する浮遊機雷への警戒のため、しばしば夜間運航中止となったが、1953年(昭和28年)9月以後は18往復に戻された。しかし、この浮遊機雷のため、1951年(昭和26年)5月18日から寝台車航送は中止されてしまった。それでも貨物輸送量は1951年(昭和26年)度には440万トンと戦時中 1944年(昭和19年)度の385万トンを上回り、旅客輸送人員も1953年(昭和28年)には215万人と戦時中 1943年(昭和18年)の210万人を上回った。1947年(昭和22年)12月12日 津軽海峡は西高東低の気圧配置で、前日より強い西風を伴う猛吹雪が続き、当日は進駐軍専用のデッキハウス船石狩丸が、上り1202便として11時19分出港し難航していた以外は、全船運航見合わせ中で、函館・青森とも、多数の旅客と貨車が残留していた。このため洞爺丸は、無線方位測定機と音響測深儀、機関に異常のないことを確認の上、遅れ8便として15時35分函館第2岸壁を離岸し海峡に出て、磁方位南14度西に針路をとった。しかし吹雪で視界は利かず、波が、開けた窓から操舵室内まで打ち込む状態で、函館からの航程17海里付近(津軽海峡のほぼ中央)で平館海峡への針路を決めるため、平館灯台のすぐ北にある石崎無線標識所からの電波の方位を測定したところで、無線方位測定機が海水をかぶり使用不能となった。このため音響測深儀で水深測定して船位を割り出そうとしたが、これも故障して使用できず、更に竜飛と大間の羅針局に無線方位測定を依頼したが、この無線も通じず、ここに明確に、船位を測定する手段を失ってしまった。このため18時42分、航程35海里地点(平館海峡の北側と推定)で、平館海峡への盲目状態での進入は危険と判断し、北西やや西へ転針、1時間航走後北東に転針し19時52分、前方やや右に大間崎灯台を短時間確認、20時50分北西に転針し、21時38分葛登支岬灯台をかすかに視認できたため、再び平館海峡へ向かうこととし、南西に転針、しかし天候悪化のため22時には再度断念し、北東へ転針し22時53分、函館湾口と推定される地点に投錨した。しかし錨鎖繰り出し長から水深120mと予想外に深く、函館湾に到達していないことが判明したため、吹雪の晴れ間に北北西に進み、翌13日3時25分に函館湾内で錨泊し、天候がやや回復した朝8時に抜錨し青森へ向かった。昭和天皇のお召し船となってから僅か1ヵ月余り後の1954年(昭和29年)9月26日11時05分、3便として函館第1岸壁に5分延着、折り返し4便として14時40分出航予定であった。ところが13時20分に函館第2岸壁から先発した1202便デッキハウス船第十一青函丸が、台風15号接近による風波で前途航行困難と判断し、穴澗岬沖から引き返す、との報告あり、14時48分函館第2岸壁へ着岸した。この便では、占領時代から、札幌発東京行の進駐軍専用列車1202列車の1等寝台車と荷物車の航送を行っていたが、1951年(昭和26年)5月9日の津軽海峡への浮遊機雷流入以来、寝台車航送のみ中止されていた。この1202列車を含む進駐軍専用列車はサンフランシスコ講和条約が発効した1952年(昭和27年)4月28日に先立つ4月1日から、特殊列車と呼称変更され、日本人の乗車も許されるようになっていた。このとき寝台車航送も再開され、この日もマイネフ385と荷物車マニ3216を積載していた。 当時、W型やH型のデッキハウス船や車両渡船より、洞爺丸型車載客船の方が堪航性能に優れ、前者が出港見合わせでも、後者は運航することがあり、この時もそのようなケースであった。第1岸壁の洞爺丸は、戻ってきた第十一青函丸から、アメリカ軍関係者57名と日本人119名の乗客を移乗させた後、15時頃出航のため乗船タラップを上げたが、同船からの荷物車積込中とのことで、すぐには出航できなかった。しかし、これ以上出航が遅れると、台風が来るまでに陸奥湾内へ逃げ込めなくなるため、これ以上の車両積込を拒否し、15時10分可動橋を上げようとした。しかし、ちょうどその時停電中で可動橋は上がらず、出航の機会を逸し、そのまま“天候険悪出航見合わせ”とした。停電はわずか2分間であったが、出航見合わせの決定は取り消されず、その後、引き続き寝台車の積込みが行われた。16時のNHKラジオを通じての函館海洋気象台発表の台風情報は、台風15号は15時現在、北緯41度東経136.5度(青森市西方約100キロ)の日本海海上にあって、依然毎時110キロで北東に進行中、17時頃渡島半島を通って、今夜北海道を通過、と放送された。その上、17時頃から急に風が弱まり、晴れ間も出てきた。それを誰もが台風の目と信じた(事故から2年後の1956年(昭和31年)12月 気象庁発表の「昭和29年台風第15号報告」では、この台風の目と思われた晴れ間は、台風に随伴して発生した閉塞前線によるもので、実際の台風の中心は、この頃、函館から100キロも西の日本海海上にあり、進行速度も、それまでの毎時110キロから毎時40キロに減速し、北北東に進んでいた)。船長は17時40分に、18時30分出航と決定した。18時には、すでに晴れ間は去り、空は暗くなっていたが、風はそれほどでもなかった。しかし、その後、急に風が強くなり、函館第2岸壁では、着岸岸壁の空き待ちのため、2時間以上防波堤外で待機していた1201便石狩丸が強くなった南南西の風に抗して、補助汽船5隻に押されながら着岸に難渋しつつ18時40分着岸完了した。ほぼこれと入れ違いに、洞爺丸は遅れ4便として約4時間遅れの18時39分函館第1岸壁を離岸した、しかし港口通過直前から、40mもの強風を受け始めたため、前途の航行は困難と考え、19時01分函館港西防波堤真方位300度1,574mの防波堤外に錨泊し、両舷主機械を運転しつつ船首を風上に立て船位の維持に努めた。その後も、風は一向におさまらず、波は更に高くなり、19時30分頃から大きな縦揺れによって、車両甲板船尾開口部から海水をすくい込むようになり、徐々に車両甲板上に海水が滞留していった。機械室では20時05分頃より左舷後部逃出口からこの海水の流入が始まり、その後左舷前部逃出口、前部、後部の空気口、右舷出入口からの流入へと拡大し、21時頃には流入して船底に溜まった海水(ビルジ)は多量となったが、船体動揺激しく十分排水できず、21時30分頃には左舷発電機停止し、左舷主機械に異常振動あり直ちに停止させたが、原因不明のまま5分後船位維持のため再起動させた。21時40分頃船体は左舷に20度ほど傾斜し、21時50分頃には左舷循環水ポンプを駆動する電動機が、ビルジに浸かり短絡して停止、これによって左舷主機械が停止してしまった。22時頃から船体の傾きは右舷側に変わり、22時05分には右舷循環水ポンプを駆動する電動機がビルジに浸かり停止し、右舷主機械も停止してしまった。ボイラー室でも20時15分頃左舷後部逃出口周縁からの浸水に続き、右舷後部逃出口からも浸水が始まった。20時25分頃船体が左舷に傾斜した時、左舷側の4、6号缶の石炭取り出し口から石炭が海水と共に流出、続いて右舷傾斜時には右舷側の3、5号缶の石炭取り出し口からも同様の流出あり、22時05分右舷主機械停止時には、焚火可能なボイラーは、1、2号缶のみで、右舷発電機運転継続のため、この2缶の蒸気圧を保持し、機関員は退避した。両舷主機械停止以後は操船不能となり、船位を維持できなくなった。22時26分頃、船底を軽く底触したが、以後船体は右舷に傾斜し、船首も風圧で右舷に圧流され、船体は陸岸と平行になり、左側面から大波を受ける形となった。22時39分「 SOS 洞爺丸 函館港外青灯より267度8ケーブルの地点に座礁せり」と発信、この時の船体傾斜は右舷約45度で、この直後に停電し、22時41分「本船500キロサイクルにてSOSよろしく」の通信を最後に連絡は途絶えた。22時43分頃右側へ横転沈没し、その後の波で船体は更に傾斜角度を増し、約135度の角度で船体上部を水深約10mの海底に覆没させ、左舷船底ビルジキールを海面上に露出した状態となった。この遭難により、旅客1,041名、乗組員73名、その他41名の計1,155名が死亡または行方不明となり、旅客110名、乗組員38名、その他11名の計159名が救助された。浮揚作業は1955年(昭和30年) 8月25日完了したが、損傷甚だしく、復旧を断念し解体された。なお、沈没当時の総トン数は下部遊歩甲板減トン開口閉鎖その他で、4,337.40トンに増加しており、旅客定員も1,231名と大幅に増加していた。上記のように、いくつもの不運が重なり、洞爺丸は出航してしまった。ちょうどその頃、台風は函館西方100キロの日本海海上にあり、函館はまさに台風の「危険半円」内であったが、当時の台風情報や、函館での現況からそれを推測することは困難であった。函館湾は、津軽海峡から日本海に向け、わずかに南西方向に直接開いていた。台風はこの函館湾の開口方向線の約100キロ西を平行に進行したため、函館湾には台風による強い南西風が吹き込み、日本海から津軽海峡に至るその長い吹走距離と、連吹時間により生じた異常な高波が函館湾を直撃した。洞爺丸はその強風と高波をかわすため、錨泊した。こうすれば船首は風上を向き、横波を受けて横転する危険は抑えられる。更に走錨しないよう、両舷の主機械を運転して船位を維持した。この態勢をとれば、風下側の船尾開口部から、車両甲板上に海水が大量に浸入することはない、とそれまでの経験から、当時の関係者は考えていた。しかし、当夜の函館湾の高波は、波高6m、波周期9秒、波長は約120mで、洞爺丸の水線長115.5mよりわずかに長かった。このような条件下では、前方から来た波に船首が持ち上げられたとき、下がった船尾は波の谷間の向こう側の斜面、つまり、その前に通り過ぎた波の斜面に深く突っ込んでしまい、その勢いで海水が車両甲板船尾のエプロン上にまくれ込んで車両甲板に流入、船尾が上がると、その海水は船首方向へ流れ込み、次に船尾が下がっても、この海水は前回と同様のメカニズムで船尾から流入する海水と衝突して流出できず、やがて車両甲板上に海水が滞留してしまうことが、事故後の模型実験で判明した。そして、波周期が9秒より短くても長くても、車両甲板への海水流入量は急激に少なくなることも判明した。洞爺丸のような船内軌道2線の車載客船では、車両格納所の幅が車両甲板幅の約半分と狭いため、車両甲板船尾開口部から大量の海水が浸入しても、その滞留量は250トンとも360トンとも言われているが、この程度では転覆することはない、とされた。しかし、洞爺丸は石炭焚き蒸気船で、石炭積込口等、車両甲板から機関室(ボイラー室、機械室)への開口部が多数あり、これらの閉鎖は不完全で、滞留した海水が機関室へ流入し、主機械停止に至って操船不能となり、走錨もあって、船首を風上に向けることができなくなった。更に不運なことに、流されて座礁した場所は、海図上は水深12.4mで、喫水4.9mの洞爺丸が座礁するはずがなく、台風の大波でかきまわされた海底の砂でできた浅瀬に座礁したのであった。この砂地に、右舷船底の揺れ止めの鋼鉄製のヒレであるビルジキールが引っ掛かり、左舷からの大波を受け、右舷側に転覆、やがてこの浅瀬から陸側の深みに転がり落ち、その角度135度と、ほとんど真っ逆さまの状態となって沈没してしまったと推定されている。まさに不運の連鎖による大事故であったが、この台風により、同夜函館湾では、洞爺丸以外にも4隻の車両渡船が沈没した。ことの重大さに鑑み、運輸省は1954年(昭和29年)10月に学識経験者による“造船技術審議会・船舶安全部会・連絡船臨時分科会”を、国鉄総裁は同11月にやはり学識経験者による“青函連絡船設計委員会”を設置した。これらの審議会では、5隻の青函連絡船の沈没原因と、その対策等が審議検討され、答申書が出された。その答申内容に沿って、急遽補充の新造船だけでなく、沈没を免れた在来船や、浮揚後修復された復元船においても、車両甲板上に大量の海水が浸入するような悪条件下でも復原性が確保され、機関室の水密性も維持されて、推進機器類が容易に無力化されないよう対策が施された。各船の対策の詳細はW型船への対策、H型船への対策、日高丸への対策、大雪丸への対策、羊蹄丸への対策、檜山丸型への対策、十和田丸(初代)への対策の各項を参照のこと。敗戦後、総トン数100トン以上の日本の全ての商船の配船、運航、造修等一切がGHQ管理下に置かれることになり、その実施機関である日本商船管理局SCAJAP(U.S. Naval Shipping Control Authority for Japanese Merchant Marine)の指令により、1945年(昭和20年)12月15日 からSCAJAPナンバーという管理識別番号が付与され、船体側面にこれを標示することが義務付けられた。青函連絡船においても、SCAJAPナンバーが標示され、洞爺丸型では洞爺丸、羊蹄丸、大雪丸では側面中央部下部遊歩甲板角窓上の白地に黒で、摩周丸は塗り分け線直下の黒地に白で標示されていたが、全期間にわたり、上記位置に標示されていたかどうかは不明である。なお、この標示は1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ講和条約発効まで続けられた。各船のSCAJAPナンバーは下記の通り(4桁の1文字目は船名のイニシャル、後ろ3桁は同一イニシャル内での通算番号)なお、貨車航送を行ったアメリカ軍貸与のLST Q021、Q022もSCAJAPナンバーであった。洞爺丸型をS型と呼ぶこともあるが、これは同時期に建造されたW型、H型車両渡船と区別するため、便宜上S型と呼んだのが始まりで、洞爺丸型の設計の基本となった翔鳳丸SHOHO MARUのSに由来した。
出典:wikipedia
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