デビッド・アメリコ・オルティーズ・アリアス(David Americo Ortiz Arias、1975年11月18日 - )は、ドミニカ共和国サントドミンゴ出身の元プロ野球選手(指名打者、内野手)。愛称は、ビッグ・パピ(Big Papi)またはクッキーモンスター(Cookie Monster)。1975年11月18日、サントドミンゴに生まれた。貧しい生活だったが、オルティーズは「よい家族に恵まれ、よい教育も受けさせてもらった」と述べている。地元の高校を卒業後、1992年11月28日に17歳でシアトル・マリナーズと契約を結んだ。登録名は「デイヴィッド・アリアス」であった。マイナーリーグのウィスコンシン・ティンバー・ラトラーズで活動していた。9月13日に後日発表選手としてデーブ・ホリンズとのトレードでミネソタ・ツインズへ移籍した。この時「デイヴィッド・オルティス」として登録した。ツインズ傘下AAA級ソルトレイクにいたころから「打球を遠くに飛ばすことにかけては右に出るものがいない左バッター」として注目されていた。9月2日にメジャーデビューするが、メジャーとマイナーの間を行き来するようになる。にはAAA級ソルトレイク・ビーズで30本塁打を記録し、将来の大砲として期待されるようになった。に右手首の手術をしたが、にはメジャーで自身2度目のシーズン100試合以上出場を果たし、打率.272・20本塁打・75打点の成績を残したが、ツインズのチームカラーであるスモールボールにオルティーズは息苦しさを感じていた。打席での積極性を逆手に取られ厳しい速球を手元に投げられて打ち取られることが多く、故障も多かった。ツインズは12月16日にオルティーズを放出した。1月22日にボストン・レッドソックスと契約。移籍1年目から5番・指名打者に定着すると打率.288・31本塁打・101打点の成績を残し、同年のMVP投票で5位につけた。翌2004年には主に4番を打ち、139打点(リーグ2位)・打率3割1厘・41本塁打(リーグ2位)の活躍を見せた。3部門以外でも47二塁打・75四球・出塁率.380・長打率.603・150試合出場と抜群の強打を発揮している。5月には2年総額1250万ドルで契約延長した。マニー・ラミレスと「打率.300・40本塁打・100打点」コンビを形成したが、これは1931年のベーブ・ルースとルー・ゲーリッグのコンビ(ヤンキース)以来だった。ポストシーズンではさらに勝負強さを発揮し、強く印象付けた。2004年は、エンゼルスとのディビジョンシリーズ第3戦で10回に決勝本塁打を放つ。ヤンキースとのチャンピオンシップでは、0勝3敗と追い詰められた第4戦の12回にサヨナラ本塁打を、第5戦では8回まで2-4と敗勢濃厚な状況から逆転ののろしとなる本塁打を放ち、延長14回にサヨナラヒットを放つ。史上初の3連敗4連勝でヤンキースを破ったこのチャンピオンシップで、オルティーズはMVPに選出された。カージナルスとのワールドシリーズでも、第1戦第1打席に3点本塁打を放ってチームを勢いづけ、レッドソックス86年ぶりのワールドシリーズ制覇に大きく貢献した。この年のオフには日米野球MLB代表として訪日すると、渡辺俊介(千葉ロッテマリーンズ)から推定飛距離160mの本塁打を放ち、日本のファンにもそのパワーを見せた。には148打点で打点王を獲得し、メジャーで最もチャンスに強い打者と評されるようになった。開幕前の3月に第1回WBCのドミニカ共和国代表に選出された。シーズンでは4月10日に4年総額5200万ドルで契約延長し、この年は自己最多・球団新記録の54本塁打を放ち本塁打王と打点王の2冠に輝き、ハンク・アーロン賞を受賞。2年連続でMVPの有力な候補となったが、守備で貢献しない指名打者であることが影響したとされ、投票結果は2005年はアレックス・ロドリゲスに次ぐ2位で、2006年は3位に終わった。2006年の投票に関しては、1位のジャスティン・モルノー、2位のデレク・ジーターの2人を、打率以外では圧倒しており、モルノーの守備位置が一塁手だということも考慮すれば、2人との差は所属チームのプレーオフ進出の有無だとも考えられる。はひざの状態が悪く、本塁打・打点ともに前年よりも少なく、本拠地のフェンウェイ・パークでは4月22日から7月13日にかけて本塁打を放てずにいた。打率.332はリーグ5位、88長打・111四球・出塁率.445はリーグ最高だった。ポストシーズンでは打率3割7分、3本塁打、10打点で3年ぶりのワールドシリーズ制覇に貢献した。 また、最優秀指名打者賞(エドガー・マルティネス賞)を史上初の4年連続受賞した。2003年の移籍以降、オルティーズは5年連続でMVP投票5位以内に入っている。その信頼できる打棒と愛想の良さから、ボストンでは絶大な人気を誇っている。は故障もあって平凡な成績に終わった。6月にアメリカ市民権を取得している。開幕前の3月に第2回WBCのドミニカ共和国代表に選出され、2大会連続2度目の選出を果たした。シーズンでは開幕から絶不調で、シーズン第1号本塁打が出たのは5月20日だった。あまりにも深刻な打撃不振により、年齢詐称疑惑も浮上した。それでも最終的に本塁打・打点は前年より増えたが、打率は規定打席に到達したシーズンでは自己最低の成績に終わった。は前年同様4月は本塁打1本とスランプに陥るも、5月には10本塁打を放ち月間MVPを受賞。オールスター前日のホームラン・ダービーでは第2ラウンドで13本塁打を放ち、ハンリー・ラミレスとの決勝ラウンドでも11本塁打を放ち優勝した。最終的に自身のキャリアを通じて最多となる145三振を喫したが、大きな故障もなく2年連続で規定打席に到達。リーグ2位の対右投手OPS1.059を記録し、3年ぶりの30本塁打と100打点を記録した。は8月に右かかとの炎症で離脱したものの、シーズンを通じて概ね好調で4年ぶりに打率3割をクリアし、こちらも4年ぶりとなるシルバースラッガー賞を受賞した。10月20日にはロベルト・クレメンテ賞も受賞した。シーズン終了後の10月30日にFAとなったが、レッドソックスは翌年の契約オプションを行使し、12月7日に年俸1457万5000ドルの1年契約で残留が決まった。はOPSが10割を超えるなど開幕から好調で、7月4日には通算400本塁打を達成。ところが、7月16日にアキレス腱を痛めて離脱し、後半戦はほとんどを棒に振ってしまった。シーズン終了後の10月19日にFAとなったが、11月2日に2年2600万ドルでレッドソックスと再契約を結んだ。出来高も含めれば、最大で総額3000万ドルとなる。この年監督だったボビーバレンタインが退任後の10月23日にテレビ出演し右アキレス腱痛で終盤戦を欠場したオルティスについて「彼がこれ以上プレーしないことを決めた」と発言。これに対してオルティスが「医師、首脳陣、監督、自分で決めた。チームドクターからは“プレーを続ければ症状は悪化する”と言われた」と反論し、「精神的に問題があるか、薬か何かが必要な人間なんだと、自分に言い聞かせた」とバレンタインを批判した。は引き続きアキレス腱痛で開幕から故障者リスト入りしていたが、4月20日に復帰した。試合前のセレモニーでは"This is our fucking city, and no one is going to dictate our freedom. Stay strong."とスピーチし、爆弾テロ事件の衝撃冷めやらぬ地元ボストンを鼓舞した。7月2日に通算500二塁打、7月10日にはハロルド・ベインズを抜いて、DHとして最多となる1689安打を記録した。9月4日には通算2000本安打を達成。3月23日にレッドソックスと2015年シーズン・1600万ドルの1年契約(2016年と2017年の球団オプション付き)に合意した。4月3日、スポンサー契約を結んでいるサムスングループと事前に打ち合わせた上で、バラク・オバマ大統領と並んで自分撮りをした。この写真はサムスングループに営利目的で利用された。6月29の対ニューヨーク・ヤンキース戦で、3回にシーズン19本目の本塁打を放ち、通算450本塁打を達成。9月20日の対オリオールズ戦にて、ホームラン2発を放ち、3打点を記録。シーズン通算で34本塁打・102打点とし、自身8度目となる「30本塁打以上・100打点以上」を達成。テッド・ウィリアムズを抜いて球団最多の回数となった。最終的には、4年ぶりに打率.300を下回ったが、35本塁打・104打点はここ7年間で最高の数字であり、打棒健在をアピールした。一方、チーム全体の打撃成績が低調だったこともあり、35本塁打を放ちながら、レッドソックス在籍12年間で最も少ない59得点に終わった。9月12日のタンパベイ・レイズ戦で、マット・ムーアから通算500本塁打を記録した。最終的には打率.273・37本塁打・108打点・OPS0.913という好成績をマーク。39歳となったシーズンにおいて、本塁打と打点は3シーズン連続で上昇した。また「30本塁打・100打点」を同時達成したのは通算9度目となり、この年も主砲として打線を牽引した。11月18日に2016年シーズンをもって現役を引退することを発表した。4月15日のトロント・ブルージェイズ戦、相手の警戒がない中で自身3年ぶりとなる盗塁を記録したが、レッドソックスの40代の選手としては史上4人目のことであった。8月24日のタンパベイ・レイズ戦の初回にマット・アンドリースから30号2ランを放ち、この2打点でシーズン100打点となり、通算10度目の「30本塁打・100打点」を同時に達成した。2016年はシーズン通じて調子を大きく落とす事なく打ちまくり、打率.315・38本塁打・127打点・出塁率.401・長打率.620・OPS1.021という全盛期並みの好成績を記録。引退するシーズンにして、自身3度目となる打点王のタイトルを、ブルージェイズのエドウィン・エンカーナシオンと分け合った。また、長打率とOPSはリーグトップであり、キャリア最後のレギュラーシーズンも、メジャーを代表する大砲として大暴れした。同年のALDSで、チームはインディアンズに3連敗を喫して終戦。オーティズはキャリア最後の打席で、8回に四球を選んで出塁すると、両手で観客を盛り立て、代走を送られると大歓声を浴びる中でキャリアに終止符を打った。10月2日、レッドソックス時代の背番号34が2017年よりレッドソックスの永久欠番となることが発表された。爆発的なパワーを生かし、アッパースイングで低目のボールをすくい上げてスタンドに叩き込むローボールヒッター。2004~2006年は3年連続で40本塁打(球団史上初)、130打点以上を記録し、同僚のマニー・ラミレスと共に驚異的なコンビとして活躍した。基本的には引っ張って強い打球を放つことが多いが、流し打ってグリーンモンスターに当て二塁打を稼ぐ技術を持つ。また三振は多いが四球も多く選ぶことができ、高い出塁率を誇る。2008,2009年は大きく成績を落としたが、2010年には復調。以後は往時ほどのパワーは見られず、怪我による離脱は増えたものの、依然として勝負強い打撃を見せている。特に勝敗がかかるチャンスや土壇場で強く、レギュラーシーズンとポストシーズン通算で13本のサヨナラ本塁打を含む、20本のサヨナラ打を放っている(13サヨナラ本塁打はミッキー・マントルに次いで歴代2位)。2004年は上述したポストシーズンの神がかり的な活躍を、また2006年は5回もサヨナラゲームを演出した。特に7月24日のフィラデルフィア・フィリーズ戦では延長10回裏にトム・ゴードンからサヨナラ2ランを、2日後の7月26日(25日は試合無し)には延長12回裏に同じフィリーズのから再びサヨナラヒットを放ち、2試合連続サヨナラ打でフィリーズのファンを落胆させた。ホームランを打ち本塁を通るたび、2002年1月に46歳で交通事故で亡くなった母アンジェラ・ローザ・アリアスに敬意を表して、両手の人差し指を立てて空を見上げる。上腕二頭筋に母の名のタトゥーが刻まれている。妻ティファニーとの間に3人の子がいる。妻がウィスコンシン州グリーンベイ近郊出身のため、結婚後NFLのグリーンベイ・パッカーズのファンになった。2013年4月、別居を発表したが、復縁した。2008年6月11日、ボストンにあるジョン・F・ケネディ図書館でアメリカ合衆国の市民権を得た。数年で広告費用約450万ドルを獲得している。2007年4月、スポーツ・グッズ会社リーボックはスパイクシューズ「ビッグ・パピー10Mミッド・ベースボール」を発表し、オルティスはカリフォルニア州サンフランシスコで行われた2007年のMLBオールスターゲームで初めて試合で着用した。2009年10月、生まれ故郷ドミニカ共和国にナイト・クラブ「フォーティ・フォーティ」を開業した。2010年4月、ラッパーでプロデューサーのジェイ・Zとビジネス・パートナーのホアン・ペレスはオルティスがジェイ・Zのニューヨークのスポーツ・クラブ・チェーンから名前を盗用したとして商標権侵害の訴えを起こす準備を始めた。2011年3月、和解に達した。2016年4月11日、レッドソックスの開幕日、娘アレックスが国歌を歌った。2007年、デイヴィッド・オルティス子供基金が創立された。ボストン、ドミニカ共和国などの子供たちがどうしても必要な時にいつでも寄付金を使用できることを目的としている。2008年、自身のチャリティ・ワインを発表し、全利益がこの基金に入ることになった。このワインは「ヴィンテージ・パピー」と呼ばれ、15万ドルが寄付された。ドーピングに強く反対する立場を取っており、2009年2月には、薬物検査で運動能力向上薬の陽性反応が検出された選手に対して、1年間の出場停止処分を科すことを求めていたオルティズだったが、2009年7月30日、ニューヨーク・タイムズ紙は、オルティーズがマニー・ラミレスと共に2003年のドーピング検査で陽性反応を示していたとされる選手リストに名前が上がっていると報じた。同日、オルティスは声明を発表し、「大リーグ選手会に確認したら、自らが陽性だったことが分かった」と報道内容を認めた。また、「それを知り、驚いている。どの薬物に違反したかを調べたい」とも述べた。ただし、報道されたリストは、匿名の弁護士による、本来極秘扱いの裁判資料を不正に漏洩させたものが情報源であるため、どういった薬物に対して陽性だったかなど詳細な内容は公表はされていない(2015年7月現在)。10日後の試合前の記者会見でオルティーズは今まで一度もステロイドを購入したり使用したことは無いと述べた上で、今回の陽性反応について、当時使用していたサプリメントやビタミン剤のせいではないかと主張した。実際、合法なビタミン剤でも、その薬物検査で陽性反応が出てしまうことは大リーグ選手会側も認めている。また選手会は声明を出し、今回の検査で陽性反応があったとされる選手リストに入っているからといって、必ずしも薬物を使用したということではないと述べた。その理由は、実際の検査で陽性と出た選手の数よりも、そのリストに上がっている名前の方がはるかに多かったこと(つまり陽性でない選手も多数リストに含まれており、リスト自体の信用性が低いということ)、また2003年段階では検査体制が整っておらず、検査の精度に疑問点があることなどを挙げている。
出典:wikipedia
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