原 博実(はら ひろみ、1958年10月19日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者、サッカー解説者。栃木県那須塩原市(旧・黒磯市)出身。公益社団法人日本プロサッカーリーグ副理事長、日本サッカー協会常務理事。横浜スポーツ&カルチャークラブでスタジアムDJを務める原大悟は実子。小学5年生時からサッカーに傾倒し、中学生の頃には長身を活かしたヘディングを得意とした。1974年に矢板東高校へ進学し、栃木県選抜として国体でベスト4入り。当時は西ドイツのFWウーヴェ・ゼーラーのプレーを参考にしていた。1977年に早稲田大学教育学部へ進学。1978年の総理大臣杯では法政大学を相手に得点を重ねて優勝を果たした。大学選抜として参加した1979年のユニバーシアードでは、ゼーラーに影響されて身に付けた相手よりも早く跳ぶヘディングで海外の190cmクラスのセンターバックを相手にしても競り負けず8試合で7得点を挙げた。A代表に選出されても偉ぶらず真剣に練習に取り組む姿勢は周囲からの信頼を集め、大学4年時には主将を務めた。1981年に三菱重工業に入社し(勤労管理課)、日本サッカーリーグ(JSL)の同社サッカー部(のちに三菱自動車サッカー部。現在の浦和レッドダイヤモンズの前身)に所属。ポジションはフォワード(FW)で、エースストライカーとして活躍した。中盤の構成力に欠ける三菱では、田口光久らが原を目掛けてフィード、原が頭で落とし、川添孝一らがゴールを狙うというシンプルなカウンター攻撃も多用された。1982年には尾崎加寿夫と共に得点源となりJSL優勝を達成。社員選手としてプレーを続けていたが、31歳の時にJリーグ参入を控えるクラブからの呼び掛けに「サラリーマンやるために三菱に入ったわけじゃないから」と応じてプロ契約を結び三菱重工業を退社した。Jリーグでのプレーを望んでいたが、コーチ就任を要請されたため、1992年5月に現役を引退。臆せず競り合いに臨んでいたため、鼻骨骨折は現役通算で9度に及んだ。大学在学中に日本代表に初選出され、通算で国際Aマッチ75試合に出場。釜本邦茂に次いで歴代2位となる37得点を記録した(国際Aマッチ以外にも日本サッカー協会が認定した日本代表の試合を含めると171試合出場72得点。)。森孝慈監督の下、尾崎や柱谷幸一と共にセンターフォワードの候補ともなったが、持ち前の体力・運動量からサイドで守備にも貢献することを求められたため、左ウイングに配された。中央へ切れ込んで放つヘディングシュートを武器とし(ただし、本人はヘディングよりも左足シュートの方が得意だったと回想している)、その得点力で「アジアの核弾頭」の異名を取った。特に1986年ワールドカップ予選・ホーム北朝鮮戦で水溜りに入ったボールを足先で浮かせてDFをかわし決めた「雨中ゴール」、1987年ソウルオリンピック予選・アウェー中国戦での強烈な決勝ヘディングシュートが有名である。1992年5月に引退後、浦和レッドダイヤモンズのコーチ・ユース監督を務めた。1998年にトップチーム監督に就任。主軸FWの福田正博が負傷離脱する中、新人の小野伸二をトップ下に抜擢し、変則的な中盤を菱型にした4-4-2(左MFのチキ・ベギリスタインを攻撃的、右MFの石井俊也を守備的にプレーさせることで、バランスを取った。)を形成してチームを躍進させる。セカンドステージでは過去最高順位の3位に入った。また、怪我が多かった福田に替えて、若手の山田暢久を「一皮向ければ」と主将に据えている。翌1999年ファーストステージは負傷者が続出した影響もあって13位と振るわず、解任。原は守備の人材不足を感じていたためシーズン途中に補強がなされたものの、その補強が活かされる前の解任だった。この年浦和はJ2降格を喫するが、後にGMの横山謙三は、降格の主要因について「原監督を途中で替えたということが大きい」「(原を留任させていれば)後半盛り返せただろうと思っている」と語っている。原自身は後に雑誌のインタビューで「弱いといわれた時期も、誰もが誇りは持っていた。ある意味王者のスピリットを持っているチームだった」と浦和を評する。また、2000年1月に発売された本『』にも寄稿している。2000年以降は浦和の育成担当としてクラブに残留するという選択肢も有ったが、監督として再び勝負する機会が遠のきかねないと判断し、浦和を退団。その後スペインへ渡りリーガ・エスパニョーラの数チームを視察。ベギリスタインを通じて紹介を得たこともあった。帰国後はサッカー解説者としてスカイパーフェクTV!の欧州サッカー中継を中心に活動。多くのファンを得た(後述)。2002年からFC東京の監督に就任。新興クラブであるFC東京は、J2降格を避けるべく負けないサッカーを志向してチーム作りを行っていたが、「攻撃サッカー」を掲げる原の招聘によって、勝つためのサッカー、面白いサッカーを標榜するように転換。原によれば、チームには大熊清前監督が築いたひたむきに守備をこなす姿勢が残っていたので、攻撃重視で指揮を執っても守備が疎かになることは無いだろうという目算があったという。初采配となった2002年Jリーグ開幕戦では、前年度リーグ優勝の鹿島アントラーズを相手に、前がかりに走り続ける積極的なサイドアタックを繰り返し、4得点を挙げて圧勝。後の語り草となった。4-2-3-1の布陣を基本としつつ、同年獲得したMF石川直宏、DF加地亮のコンビで右サイドから打開し、左サイドには戸田光洋らFWタイプの選手を置いて中央へ走りこませるという左右非対称の斬新な攻撃で上位進出に成功。2004年ナビスコカップでは延長PK戦の末に古巣浦和を下して、チームに初のJリーグタイトルをもたらした。解説者時代同様に親しみやすいコメントと、自チームの得点時には何度もジャンプして体全体で喜びを表現する姿でチーム成績とは別の部分でもサポーターから慕われ、人気を集めた。古巣・浦和をライバル視する発言が多かったが、2003年に行われた福田の引退試合では、テレ玉での中継解説者を務め、2004年のナビスコカップ優勝後の場内インタビューでは「浦和も非常に素晴らしいチーム。是非リーグ戦で頑張ってもらって優勝して欲しい」とエールを送っている。2005年は出だしこそ首位に浮上したものの、4月以降主力を次々と負傷で欠いたことなどからJ2降格圏まで成績を低迷させたが、シーズン終盤は12戦負けなしと持ち直した。しかし4・5月の躓きによってクラブ首脳は次期監督候補の選定を本格化しており、契約期間終了と共に退任することとなった。退任報告の集会には5000人近くのファンが詰め掛けた。2007年、監督に再任。身上としているリスクをかけて攻撃に比重を置くサッカーを続けたが、大量失点での敗戦も多く1年限りで退任となった。2009年2月、日本サッカー協会(JFA)は技術委員会を強化・育成の2部門に分割再編。原のJリーグでの指導実績や欧州サッカーへの精通が評価され、JFA技術委員長(強化担当)に就任した。グラつきの見られた岡田体制を支えた他、JFA特任理事及び国際マッチメイク委員にも任ぜられ、Jリーグ各クラブとの調整や戦術分析、マッチメイクを統括した。また、霜田正浩と共に2010 FIFAワールドカップ終了後の日本代表新監督選定の中心としても奔走。2010年8月、新監督はアルベルト・ザッケローニに決定したが、ザッケローニの就労ビザ取得が間に合わなかったため、同年9月に行われたキリンチャレンジカップにおいて代行監督を務め、2試合を指揮しいずれも勝利を収めた。ロンドンオリンピックではU-23日本代表の団長を務めた。2013年12月より、JFA専務理事を兼務。激務が続く中でも公式戦・合宿を問わずに現場視察を欠かさず、ザッケローニとの戦略擦り合わせに腐心した。2014年9月、同年6月開催のFIFAワールドカップ総括とザッケローニの後任であるハビエル・アギーレの就任決定をもって技術委員長を退任し、以後は専務理事に専念。日本代表やJリーグだけでなく各種サッカー大会を精力的に視察し、日本サッカー界の底上げに注力した。2015年2月のJFA理事会において、大仁邦彌JFA会長や霜田と共にアギーレの解任に伴う処分が提議されたが、3名とも任命責任は認められなかったため、給与を自主返納することで収拾を図った。2015年6月、日本体育協会常務理事に選定され、国体委員長として冬季国体の開催地選定や、2020年東京五輪に向けた女子種目の拡充を担った。2016年1月、JFAは史上初となる会長選挙を行った。当時JFAのNo.3でもあった原は「自分も出ないと(選挙戦にならず制度が)変わらない」と立候補を表明。原とNo.2の田嶋幸三副会長が争う構図になるのは「規定路線」であり、原は劣勢が確実視されていたが、秋春制の導入に慎重なJリーグクラブや、JFAとJリーグの関係強化を推進した実績により支持を集め、45%の評議員票を獲得、僅差での敗退となった。2016年2月、田嶋から原を理事に降格させる人事案を聞いた村井満Jリーグチェアマンは各クラブの強化部門に影響を及ぼせる人物として、原にJリーグ副理事長就任を打診。原もこれに快諾し、3月より同職に就任。JFAを離職し、自身の「専門とするところ」であるクラブ目線での日本サッカー強化を担う。翌3月、Jリーグからの選出で、JFA常務理事に就任。同年4月の熊本地震に際しては、自ら現地入りして活動休止中のロアッソ熊本と協議し、リーグ戦再開に向けての調整に当たった。指導者としての評価に際しては、特に若手の積極起用に注目して語られることが多い。自身も「監督をやっていて楽しいのは、(チームの勝利よりも)選手がみるみる伸びていき、顔を輝かせているのを見ているとき」「タイトルをとれれば楽しいけど、人がぐんぐん伸びていく時期を見るのがうれしい。それが一番好き」と語る。浦和でも小野、山田を抜擢し、大きく成長させているが、小野は元々注目度の高い期待株であること、盛田剛平ら新人選手を重用してチームを低迷させたこともあったことから、原の評価を低く見る者もある。原の下でもプレーした浦和OB福田正博は「サテライト・ユースの指導経験しかなかった原にいきなりトップチーム、しかも浦和レッズという独特の雰囲気を持つチームの監督を任せるのは非常にプレッシャーのかかることだったのではないか」という趣旨のコメントを、雑誌に寄せた原稿で述べている。その後に就任したFC東京でも若手登用の傾向は強く、石川、加地、茂庭照幸、今野泰幸を獲得してレギュラーに据え、日本代表に選出されるまでに成長させた。横浜F・マリノスで出場機会のなかった石川に対しては「(故障者が出ている)今なら使っちゃうよ」という口説き文句で移籍を決断させた。選手として原と4年間(2002-2005)過ごした戸田は、原と選手との距離感・信頼関係の構築について「“試合に出てくるんじゃないか”と思わせるくらい選手と一緒の目線で戦っている」「顔色を伺ったってどうこうなる人じゃない」とコメント。原の下で5年間(2002-2005,2007)コーチを務めた長澤徹は、原は選手の短所を包み隠さず指摘し、時に敗因として名指しするが、それでも選手からの信頼を損ねない。選手と正直に向き合うことができるコミュニケーションの天才だと評している。4バックシステムを好み、『ニュースステーション』がJリーグ全クラブの監督に対して行った、3バックと4バックに関するアンケートに対し(このアンケートが行われた当時は3バックシステムを採用するクラブが多く、このようなテーマが議題となった)、回答の理由を「4バックが好きだから」とだけ説明した。原曰く、布陣を決める時にまず考えることは、選手個々の長所を出せるかどうかである。しかし、選手の個性・特徴を最大限発揮させることを理想としていることから、2007年には、不安定ながら新たなプレースタイルの模索を始めた石川と、石川には元来の能力を発揮してほしいと原点回帰を求める原との間で、微妙な溝が生じたこともあった。原はテレビ解説者としても、多くのファンを得ている。解説者としての原のファンのことを「ヒロミスタ」と呼ぶことがある。ゴールが決まった時に、それが開始1分であろうが後半ロスタイムであろうが、あるいはVゴールであったとしても「いい時間帯に得点しましたね」と発言したり、選手がまだシュート態勢であり、実際にそのシュートがゴールインするか否かがわからない状態にもかかわらず「あ、入った」などと発言したことが、そのきっかけとなった。試合に熱中するあまり解説を忘れることもしばしばだが、広い視野からの的確な指摘を分かりやすく視聴者に伝えるという解説者としての技量がある、さらに選手への批判も臆せず口にする。解説者を辞する時はスカパー!で特別番組が何本も作られた。コラムニストのえのきどいちろうもヒロミスタの一人である。また、浦和レッズ監督時に指導したベギリスタイン(後にFCバルセロナ技術部長など)と親交を深めたことを機に日常会話に支障が無い程にスペイン語を習得。スペイン語に近いとされるポルトガル語を話すブラジル人選手とも通訳を介さずに会話している。料理をはじめとするスペイン文化全般にも造詣が深い。FC東京の監督時にも、チームのラ・コルーニャ遠征やポストシーズンの視察に合わせて、原がスペインを紹介する番組が作成された。JFA技術委員長就任以降も不定期にメディア出演を行なっている。!colspan="4"|日本!!colspan="2"|リーグ戦!!colspan="2"|JSL杯!!colspan="2"|天皇杯!!colspan="2"|期間通算176||56||||||||||||16||9||1||0||||||||192||65||||||||||||その他の公式戦|-!通算
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