中畑 清(なかはた きよし、1954年1月6日 - )は、福島県西白河郡矢吹町出身の元プロ野球選手(内野手)。労働組合日本プロ野球選手会初代会長。2012年より初代横浜DeNAベイスターズ監督(大洋ホエールズからの通算では第29代)に就任し、2015年シーズン終了まで在任した。2016年から野球解説者、野球評論家、タレントに復帰。2015年12月25日、自身の出身地である福島県西白河郡矢吹町において「名誉町民第1号」の称号が与えられた。1980年代の巨人の中心打者として活躍。労働組合日本プロ野球選手会初代会長。2004年のアテネオリンピック野球日本代表監督を務めた。安積商業高校で三塁手、遊撃手、捕手を務め、駒澤大学では直射日光を避ける為の偏光サングラスと一本足打法で注目を浴び、2年の春には東都大学リーグで首位打者争いをする。リーグ通算82試合出場、300打数92安打、打率.307、10本塁打、51打点。1973年秋季リーグ最高殊勲選手。ベストナイン4度受賞。2度の全日本入り。「駒澤三羽ガラス」(「駒大トリオ」)と呼ばれた平田薫、二宮至と共に1975年のプロ野球ドラフト会議の目玉となる。巨人からの1位指名が有力視され駒澤大学の合宿所に報道陣が殺到したが、銚子商業の篠塚利夫が1位指名された。報道陣が帰って行くのを見て中畑は別室で将棋をしていたが、3位指名されたと聞き慌てて戻った。「高卒の人間に先に指名された」とがっかりした反面、ファイトが増したという。中畑は北海道拓殖銀行への就職が内定していたが、当時監督だった長嶋茂雄の存在などが後押しとなり、内定を辞退してプロ入りを決意。指名されなかった平田と二宮も一緒なら入団すると申し入れ、巨人もこれを受け入れた(2人はドラフト外で巨人に入団)。当時巨人は王貞治、張本勲、土井正三、高田繁らが現役で活躍し選手層が厚かったため、入団後3年間は1軍での出番に恵まれなかったが、3年目オフのに開催された日米野球第1戦のシンシナティ・レッズ対巨人戦で、高田に代わって途中出場してレッズのクローザー、マリオ・ソトから2ランホームランを放った。この日は試合前、コンタクトレンズをなくして何も見えない状態だったが、妻が後楽園球場まで届けた新品のおかげでよく見えるようになったという。レッズ監督のスパーキー・アンダーソンは、長嶋に「あの三塁手(中畑)はハッスルしてファイティング・スピリットに溢れているのがいい。バッティングは荒削りだけど、ぜひ使うべきだ」と進言している。日米野球での活躍がきっかけとなり、に一軍に定着。三塁手の高田が怪我で離脱した際に先発で起用され、高田の復帰後もレギュラーを守った。この年の新人王の資格もあったがシーズン終盤で骨折し、新人王はならなかった。初の規定打席に到達したの秋、長嶋が監督を辞任し王も引退。入れ替わるように、大学野球のスター選手で中畑と同じ三塁手の原辰徳が入団したが、新監督の藤田元司ら首脳陣は原を二塁にコンバートさせた。しかし中畑はシーズン途中怪我で戦線離脱。その間に原が三塁にコンバートされ、二塁には元々守備には定評のあった篠塚が入り、.357という高打率を記録しレギュラーに定着。一塁には山本功児が入ったが、中畑が戦線復帰すると山本に代わり一塁に収まり、その後も一塁手として出場することになった。この年巨人は1973年のV9以来の日本一を奪回し、中畑も規定打席に到達したシーズンでは自己最高打率の.322、16本塁打、66打点という成績をあげた。、守備走塁コーチの末次利光が最終戦で3割前後の選手の打率を1打席ごとに電卓で計算し、3割に乗ったところで交代させたため、打率は3割ジャストであった。この点を指摘された中畑は「3割だけは契約更改の席の印象が変わるので勘弁してほしい。その代わり、もし自分がタイトル争いをしたら絶対休まない」と返答した(実際に中畑は駒澤大学時代に最終戦まで出場して首位打者を逃した経験があった。プロでは1987年に篠塚、正田耕三、落合博満らと一時首位打者争いをしたが、結局タイトルは獲得できなかった)。、オールスターゲームで第2戦、第3戦にまたがる2打席連続本塁打を放つ。また、公式戦では不振の原に代わりシーズン途中には4番を任され自己最多の31本塁打を記録した。、前年監督へ就任した王貞治を「ワン公」と呼び批判した取材オフレコテープの存在が問題となる。のちに電話で謝罪し、王から「何も聞かなかったことにする」と許されている。王政権下では長嶋第一次政権に若手だった選手が主力を担っており、そのことによる派閥争いが度々雑誌、新聞媒体で記事にされた。また、同年11月5日には日本プロ野球選手会が労働組合としての認可を受けた事に伴い労組としての初代会長へ就任した。は途中怪我で戦線離脱するが、首位打者を狙えるほどの打率を残していたため、復帰後規定打席に達するまでは打席数を稼ぐために1番打者として起用された(首位打者は篠塚が獲得)。、監督復帰した藤田により三塁への再コンバートが試みられたが、シーズン序盤、甲子園での試合中に牽制球で一塁に戻った際に指を痛め、長期戦線を離脱。その間に三塁は一塁から岡崎郁が、また一塁も外野から駒田徳広が定着したこともあり、定位置を失った中畑はこの年終盤に早々と引退を表明した。リーグ優勝を決めた試合(大洋戦・横浜スタジアム)で二塁打を放った際に球場に起こったウェーブについて、のちに、自分が日本の球場で最初に起こしたもの、と発言している。チームのシーズン最終戦にも途中出場し本塁打を打つ。さらに現役最後の試合となった同年に行われた近鉄との日本シリーズ第7戦(藤井寺球場)では、吉井理人から本塁打(この後、もう1打席回ったが、最終打席は三塁フライに終わった)を放ち、有終の美を飾った。引退後は日本テレビ、ラジオ日本、スポーツニッポンの野球解説者、評論家を経て、から巨人の監督に復帰した長嶋監督の下で打撃コーチに就任。しかし、前年好調だった打撃陣が一転して1993年はチーム打率が12球団最下位に終わり、また駒田の横浜へのFA移籍にあたり中畑との確執がその原因として取り沙汰されるなど、コーチとしての評価は低かった。翌は一塁ベースコーチとして、ムードメーカーの役割に徹した。チームはリーグ優勝・日本一になったが同年オフに退団。その後は再び日本テレビ、ラジオ日本、スポーツニッポン野球解説者・評論家となり、日本テレビでスポーツニュースのキャスターも務めた。のアテネオリンピック野球日本代表のヘッドコーチを務め、監督の長嶋茂雄が病床に伏してからはチームの指揮を執った。本大会では、国際オリンピック委員会の規定により長嶋の監督登録が認められなかったため正式に監督に就任したが、オーストラリアに準決勝で敗退し、銅メダル止まりに終わった。中畑は、敗因を当時中日の監督だった落合が協力を拒んだせいにしていたが、落合は負けたのは中畑の野球に問題があったからと後の講演会で中畑を批判している。同オフ、巨人から助監督を要請されたが固辞した。2010年5月9日には、たちあがれ日本が同年7月に執行の第22回参議院議員通常選挙の立候補者として擁立する方針であると報じられ、5月11日にたちあがれ日本の代表である平沼赳夫、共同代表の与謝野馨が同席する中、正式に出馬表明記者会見を行った。7月11日の投開票の結果、111,597票を獲得し同党内で2位になるも同党が比例区で1議席(片山虎之助)しか獲得できなかったため落選。翌年の8月末に離党したが、後に「結果的に受からなくてよかった」と発言している。その真意を問われ、「(議員になっていれば、)震災の後に自由に支援に故郷を訪れることができなかっただろうから」と述べている。2011年12月9日、新しくGMに就任した巨人時代の先輩の高田繁からの要請で、DeNAに買収された横浜DeNAベイスターズの監督に就任。自身の誕生日でもある2012年1月6日に就任会見を行い、会見の中での発言、「熱いぜ!DeNA」が正式にチームのシーズンスローガンとなった。58歳にして監督初就任となったが、これは2017年からの森繁和(63歳で監督初就任)に破られるまでは日本プロ野球史上最年長であった。しかし前年度よりさらに勝率を下げ、最下位に終わった。12月5日、妻の仁美を子宮頸がんのため亡くした。2013年、9月24日の対阪神戦に敗れ、チームのクライマックスシリーズ進出の可能性がなくなり、試合後に監督辞任を示唆するコメントをしたが、10月3日に2014年度の続投が決定した。2014年、2年連続5位に終わる。9月2日の阪神戦で暴力行為で退場処分、審判員への度重なる暴力行為が問題視され、労組審判支部から球団へ抗議文が送られ、GM補佐の山下大輔(当時)から説明を受けた。2015年、監督就任4年目を迎えた。球団史上、同一監督が連続して4シーズン以上指揮を執るのは1968-1972年の別当薫監督以来43年ぶり、また1978年の横浜移転後では監督15人目(大矢明彦が二期務めたため16代目)にして初となる(愛称名がベイスターズになってからでも初)が、この年は再び最下位でシーズンを終えた。成績不振の責任を取って今季限りで辞任する意向を固めていたが10月2日、南場智子オーナーに正式に辞意を伝えた。入団間もないころ、監督の長嶋茂雄から「調子はどうだ?」と尋ねられた中畑は「まあまあです」と返事をしたところ、それを聞いていたコーチの土井正三から「まあまあなんて言うやつを監督が起用するか?絶好調と答えろ!」と叱られた。それ以来、中畑は何を聞かれても「絶好調!」と答えるようになり、「絶好調」が中畑の代名詞となった。まだ若手時代の1978年7月。江夏豊と対した打席の途中でコーチから「(江夏のリズムを狂わす意図で)ボールを替えてもらえ」と指示された為、ボールの交換を要求すると江夏から「10年早いんだ!」と一喝された。迫力に圧倒された中畑は、頭よりも高いボール球を振って三振。すぐに二軍落ちとなった。コーチが余計な事を言わなければ良かったと回顧している。自称「元祖自打球王」。自打球避けのレガースを最初にミズノに発注したのは自分だったと言っている。一塁手として1982年から1988年まで7年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。その一方で、江川卓の登板する試合に、よく守備で足を引っ張っていたので、江川から「150キロの牽制球」を投げられたこともあった。また、中畑を三塁から一塁へコンバートした藤田元司監督は、後年、中畑がサード向き、原はファースト向きの性格でありながら原をサードに、中畑をファーストにしたのは最大の失敗だったと語っている。就任当時、開幕前から「守れない選手は使わない」をチーム方針として、守備を重視したチーム作りを徹底して行うことを表明している。また、機動力を使うことも明言し、盗塁、エンドラン、スクイズなどを積極的に行なっている。この機動力を使った野球は就任1年目の頃は「せこいぜ野球」と呼称されていた。就任2年目あたりから送りバントも多用するようになり、2014年にはリーグ最多犠打を記録している。また、オーダーを固定することは少なく、好不調で選手や打順を入れ替えることが多い。投手陣は基本的に投手コーチにほぼ一任しているが、小刻みな継投を好み、シーズンののべ登板数の日本記録を作った前任監督の尾花高夫とは異なり、先発投手はイニングを引っ張る傾向が強い。特に三浦大輔にはかなりの信頼を置いており、2012年はリーグ最多の6完投をさせている。試合後の監督インタビューは、勝った試合はもちろん、敗れた試合でも行っている。またチームの勝利時のヒーローインタビューはベンチでチームメンバー全員で聞く事にしている。また、野球は集団スポーツであることから全員の気持ちが一つにならないとそのチームは機能しないというポリシーを持っており、成績が奮わない選手や見込みがない選手に対しては見限ったり、チームの和を乱す行為を嫌っているなどのシビアな側面も持っており、DeNAの監督に就任してからその姿勢を見せている。愛称は「絶好調男」、「ヤッターマン」など。1953年(昭和28年)度生まれのプロ野球選手(梨田昌孝、落合博満、真弓明信、吹石徳一など)による親睦会「プロ野球28会」(にっぱちかい)の会長を務めている。2012年12月、長年中畑を支えてきた妻・仁美(59歳)が癌のために死去した。以来、東京・調布市にある100坪の豪邸で、一人暮らしをしている。長男(2016年・38歳)が調布市内でホルモン焼き肉店の店長をしており、友人たちと共に週に1〜2度、長男の店を訪れて飲み食いしている。友人たちとカラオケにも行く。
出典:wikipedia
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