サルバドール・イサベリーノ・デル・サグラード・コラソン・デ・ヘスス・アジェンデ・ゴスセンス(Salvador Isabelino del Sagrado Corazón de Jesús Allende Gossens、1908年6月26日 - 1973年9月11日)は、チリの政治家。1970年から1973年まで同国大統領であった。アジェンデ政権は、世界で初めて自由選挙によって合法的に選出された社会主義政権である。1908年にチリの港町バルパライソにバスク系の子孫として生まれる。チリ国立大学の医学部を卒業した後、チリ社会党結成に参加したアジェンデは、1938年に急進党を中心とする人民戦線政府に保健大臣として入閣、その後社会党と共産党の連合である「人民行動戦線」から1958年と1964年の大統領選に出馬した。1958年の大統領選では28.8%の得票を得たが、ホルヘ・アレッサンドリ(独立右派)とわずか3万票、得票率で3ポイント足らずの差で当選を逃した。冷戦下、資本主義陣営の盟主を自認するアメリカ合衆国はこれを脅威と見なし、CIAを通して対立候補に密かに援助を行ったという。1964年の選挙では、アジェンデは得票を39.9%まで伸ばしたものの、対立候補であり、チリを「進歩のための同盟」による開発計画のモデル国家とすることを目指していたエドゥアルド・フレイ・モンタルバが右派の国民党と中道のキリスト教民主党の一致した支援を受けたため、大差での敗北となった。CIAやチリ国内の反共主義勢力による執拗なプロパガンダにも拘らず、アジェンデは労働者の男性を中心に支持を広げていた。続く大統領選挙は1970年であったが、アジェンデ政権の成立を憂慮した各勢力は、最悪の場合軍事クーデターも辞さない構えで、反共派の多いチリ軍部と接触した。しかし、チリ陸軍司令官のレネ・シュナイダー(1913-1970)は憲法に則った解決を主張した。1970年の大統領選挙に、アジェンデは従来の人民行動戦線から参加政党が拡大した人民連合の統一候補として出馬し、得票率が対立候補を僅差で上回った。憲法に則り、最終決定は議会で行なわれることになった。CIAと反共勢力はシュナイダーの排除を目論んで、CIAは軍部の反シュナイダー勢力に武器などを譲渡、シュナイダーは10月22日に暗殺された。しかし、この暗殺は完全に裏目に出た。これに反発した各党はアジェンデを支持、チリ史上初の自由選挙による社会党政権が成立した。企業や鉱山の国営化を進め、キューバやソ連などの共産主義国との友好を促進した。同時期に隣国ペルーで「ペルー革命」を推進していたフアン・ベラスコ・アルバラード政権との友好関係も確立され、アジェンデはベラスコを同志として賞賛した。「共産主義国は暴力革命によってしか生まれない」と認識し、また共産主義の不当性の宣伝材料としてきたホワイトハウスにとって、選挙によって選ばれたアジェンデ政権は自説の正当性を揺るがしかねない存在であった。リチャード・ヘルムズCIA長官は、「おそらく10に1つのチャンスしかないが、チリを救わなければならない!……リスクはどうでもいい……1000万ドル使え、必要ならばもっと使える……経済を苦しめさせろ……」と指示し、どんな手を使ってもアジェンデ政権を打倒する姿勢を見せた。合衆国などの西側諸国は経済封鎖を発動、もともと反共的である富裕層(彼らの多くは会社・店などを経営している)は自主的にストライキを開始した。さらに1972年9月にCIAは物流の要であるトラック協会に多額の資金を援助しストライキをさせたほか、政府関係者を買収してスパイに仕立て上げた。同様の工作はアジェンデ支持派でも行われ、背後にはソ連KGBの物心両面での援助があったとされるが、事実上の選挙を通じた典型的な冷戦構造であり、米ソ両超大国間の代理戦争の様相を博した。加えて、アジェンデ政権の経済的失政も苦境に拍車を掛けた。実際に成功していた当時の高度経済成長システムである護送船団方式経済を「資本主義的である」として認めようとしなかった他、本来の社会主義から外れる強制的な価格設定などが行われ、チリ経済はアジェンデ政権の下で急速に傾いて行った。これに伴い国民の支持も失われ始めたため、当初アジェンデ政権のペドロ・ブスコビッチ経済相の経済政策は政府支出の拡大、国民の所得引上げによって有効需要を生み出すことにあり、そのための手段としての賃金上昇政策と農地改革が採用された。農地改革は驚異的なペースで進み、フレイ政権が6年間で収用したのと同等の農地面積が就任してから1年で収用された。さらに、それまでチリの銅産業を支配しており、チリの税制から、チリにとって極めて不利な資本流出を起こしていたアメリカ合衆国系のアナコンダ・カッパー・マイニング・カンパニーとケネコット・カッパー・カンパニーなどの外資系の鉱山会社が国有化され、コデルコに統合され、チリの銅山は「ポンチョを着て、拍車をつけ」チリの下に戻った。この時国有化された鉱山には、西側の石油メジャー系資本など大規模な外資導入によって鉱山が操業開始した事には目を瞑り、国有化に際してはチリの大手マスメディアが左派勢力で占められて事もあり、ただ単に「国民が求めているから実行する」というアジェンデ大統領の独裁的決断によって強行された。当時から国際法の専門家などからは国有化が国連加盟国に求められる在外資産の尊重という理念に違反しているとの指摘があったが、当時のチリ国内ではマスメディアの扇動により熱狂的な雰囲気が渦巻いていたとされ、この国際法違反の疑いが強い鉱山接収は迅速に強行された。その実行の際に掲げられた法的根拠は大統領による指示という事以外何も明確に示しておらず、戦前に資本投下した末に合法的に鉱山を経営していた西側資本にとってはこの措置は「国家による石炭強盗」と呼ばれた。実質的にはなんの法的根拠すら存在しないままに膨大な外資系鉱山没収を強行した事が、チリ国内の保守系メディアは当初からチリが独立以来守ってきた法治国家としての根本が揺らぐとして問題視していたが、マスコミに扇動された大衆人気に陶酔していた大統領は聴く耳を持たず、これがその後のアジェンデ政権の権力基盤動揺につながっていったとされる。。コデルコはその後のピノチェト時代にも新自由主義政策にもかかわらず、民営化を逃れチリの巨大な歳入源として存続した。しかし、チリ経済の実力に見合わない支出拡大により外貨準備は1971年末に3000ドルにまで減少するなど急速に底を着き、加えて合衆国による銅価格の操作や援助の削減、国際金融機関によるチリへの貸付停止措置はチリ経済に深刻な影響を与えた。このような状況が複合的に進行した結果、民間投資は激減し、更なる資本流出が進む悪循環が生じた。こうした混乱により、1971年末から野党は連合して人民連合政府を批判するようになり、さらに1972年6月には人民連合内部での路線対立が尖鋭化した。アジェンデはキリスト教民主党との妥協工作を図り、社会主義的な経済政策を追求するブスコビッチ経済相を更迭し、経済回復を重視する方針を打ち出した。しかし、経済の衰退に歯止めはかからず、チリ国内では悪性のインフレが進行し、物資が困窮し、社会は混乱した。同年9月にトラック業界のストライキが始まったが、このストは10月に入ると全国的な規模に拡大し、一ヶ月以上続くことになった。この「資本家スト」に対抗し、内戦の危機に備えてアジェンデは軍から立憲派の陸軍司令官カルロス・プラッツ将軍を入閣させ、11月にストを終わらせた。しかし、経済の衰退に歯止めがかからないことには変わらず、極右と極左の衝突、混乱は激しさを増すことになった。これらの混乱はしかし、アジェンデ政権の誘導もあって、その真偽を問わずチリ国民の多くを占める労働者からは反対派による陰謀と認知された。「敵の攻撃」は結果として労働者の団結を促進し、1973年の総選挙で人民連合は大統領選より更に得票率を伸ばした。こうした状況に失望した反アジェンデ勢力は、ホワイトハウスの支援と黙認の下で、武力による国家転覆を狙うようになった。チリ全土でストやデモが勃発する中、6月29日には軍と反アジェンデ勢力が首都サンティアゴの大統領官邸を襲撃するが、プラッツ将軍の軍への統制による努力により、このクーデター未遂事件()は失敗した。アジェンデはこの事件への報復に労働者への工場占拠を呼び掛け、500以上の工場が政府の直接統制に置かれ、労働者と軍の間で内戦の危機が迫った。このような左右対立の図式の中で、野党内部では秩序回復のための軍の政治介入を求める運動が広がり、次第にチリ軍内部でのクーデター派のコンセンサスが確立すると、アジェンデにとって最大の軍内の同盟者だったプラッツ将軍は孤立し、8月22日に辞職した。陸軍の後任司令官にはアウグスト・ピノチェト将軍が就任した。万策尽き、行政力も権威も失ったアジェンデは国民投票に訴えようとしたが、投票が実施される直前の9月11日に、ピノチェト将軍が陸海空軍と警察軍を率いて再度大統領官邸を襲撃した(チリ・クーデター)。アジェンデはクーデター軍と大統領警備隊の間で銃弾が飛び交う中、最後のラジオ演説を行なった後死亡した(死因については後述)。ラテンアメリカでは現在でも「9・11」というと、2001年のアメリカ同時多発テロ事件ではなく、1973年のチリ・クーデターを指す事も多い。先述のプラッツ将軍はクーデター直後の9月15日に妻とアルゼンチンに亡命するが、翌年9月30日にブエノスアイレスでピノチェトの創設した秘密警察「」の仕掛けた車爆弾により妻とともに暗殺された。チリ・クーデターの結果、クーデターの首謀者であったピノチェト将軍が大統領に就任し、チリは彼による軍事独裁下に置かれることになった。その後16年の長きに亘る軍事政権下で、数千人(数万人という説もある)の反体制派の市民が投獄・処刑された。ピノチェト大統領は経済政策において、アメリカのシカゴ学派のミルトン・フリードマン教授が提唱する政策(フリードマン教授が主張する政策や理論に対する批判派から新自由主義という表現で非難され糾弾される)を実行し、その結果、一部の富裕階級が利益を得ただけで、アジェンデ時代以上に大きな社会格差と貧困をチリ社会にもたらしたといわれている(チリ国内における左派の間では、ピノチェト政権時代の16年間が「失われた10年」と批判されている)。なおピノチェト政権時代の国家や社会を構成する様々な指標の統計は、民政復帰後から2011年現在に至るまで、チリ政府のWebサイトでも、国連やその他の国際機関のWebサイトでも、確認不可能な統計資料として空白になっている(一般的に独裁政権下では国家や社会の統計は非公開であるか、公開されても民主主義国と比較して信用度が低い)。そのため、今日において検証は困難となっている。この間、ピノチェトの後見人であったホワイトハウスは1989年にベルリンの壁が崩壊して冷戦が終わった事で、「南アメリカの共産化による自国への脅威」が消えた直後の1990年3月まで、ピノチェトの軍政による人権侵害を黙認し続けた。長年アジェンデ大統領の死因についてクーデター軍との戦闘による戦死か、クーデター軍によって殺害されたか、自殺したのか、論争があり真実が不明だったが、2011年5月23日、チリ司法当局は調査を行い長年の論争に決着をつけるため、アジェンデ元大統領の遺体を墓所から発掘し鑑定した。 クーデターを率いたピノチェト将軍は、アジェンデ大統領の最期について、大統領府モネダ宮殿でキューバのフィデル・カストロ首相(当時)から贈られた自動小銃を使い自殺したと発表していた。しかし、「フィデル・カストロから私のよき友サルバドーレ・アジェンデへ」という刻印が彫られた金板が取り付けられていたとされる銃も弾も見つかっていない上、当時の軍は遺族に遺体を見せようとしなかったため、軍による射殺説も根強く残っていた。チリ政府は2011年7月19日、発掘された遺体(白骨化していた)を外国人も含む専門家チームによる鑑定を行った結果、カストロ議長から贈られた自動小銃による自殺だったことが確認されたと発表し、元大統領の娘イザベル・アジェンデ上院議員もこの結果を受け入れることを表明した。チリ国内ではピノチェト同様、評価は未だに二分されている。親ピノチェト派にとっては左転回により国に混乱をもたらした唾棄すべき存在である一方、ピノチェトの圧政に苦しんだ労働者たちなどにとっては今でも英雄視されている。実際、2006年12月10日にピノチェトが死去した際には、チリ国内外で亡命チリ人がピノチェトの死を祝うデモを行っていたが、その随所でアジェンデの肖像画が掲げられていた。これにより、生前のアジェンデ政権を直接知らない若い世代の間でも、彼の人気が絶大であることが改めて示された。また、カラカス、ハバナ、パリ、ボローニャ、マドリッド、マナグア、モンテビデオなど、中南米や欧州諸国の各地にアジェンデの名前を冠した通りや広場などが続々と建設されている事例は、民主主義を通じて社会主義を実現しようとしたアジェンデに対する国際社会の評価の一例と見ることができるだろう。
出典:wikipedia
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