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立見尚文

立見 尚文(たつみ なおふみ/なおぶみ、弘化2年7月19日(1845年8月21日) - 明治40年(1907年)3月6日)は桑名藩士、日本の裁判官・陸軍軍人。陸軍大将、男爵。通称は鑑三郎。号は快堂。変名に倉田巴。父は桑名藩士江戸勤番・町田伝太夫。松平定敬が桑名藩を継いだときに小姓となる。少年期より風伝流の槍術、柳生新陰流の剣術の使い手として知られる。藩校立教館、湯島の昌平坂学問所に学ぶ。藩主松平定敬の京都所司代就任に伴い京都で藩の周旋役を任される。その後幕府陸軍に出向。歩兵第3連隊に籍を置きフランス式用兵術を学ぶ。徳川慶喜謹慎後も抗戦を主張し、鳥羽・伏見の戦いにおいて大敗を喫した桑名藩の軍制を立て直す。その後土方歳三と連繋し宇都宮城の戦いで功あり。桑名藩領の柏崎へ移ってからは実績を買われて投票で雷神隊の隊長に選抜され、続く鯨波戦争・北越戦争ではゲリラ戦を展開して官軍を度々苦しめた。特に北越戦争における朝日山の戦闘では、奇兵隊参謀時山直八を討ち取る殊勲を挙げる。その後会津若松城に赴き、城下の戦いで敗走。出羽国寒河江の長岡山において最後の抵抗をするが、奥羽列藩同盟の中で最後まで抵抗していた庄内藩が降伏した後、明治政府軍に降伏した。戊辰戦争の敗戦の後は謹慎生活を送り、しばらく世間から離れて過ごしていたが、士族の反乱が相次いで起きると指揮能力を評価され、請われて明治陸軍入りする。西南戦争では陸軍少佐として新撰旅団一個大隊を指揮。日清戦争では陸軍少将で歩兵第10旅団長。その後、陸軍大学校長事務取扱、台湾総督府軍務局長。日露戦争では陸軍中将として第8師団を率い出征する。黒溝台会戦では、ロシア軍の冬季大規模攻撃を受けた日本軍左翼の重要拠点である黒溝台を救援に向かう。数倍のロシア軍との戦闘は激烈を極め、日本側も増援する中、立見は師団兵力の半数を失いながらも黒溝台を回復し、会戦はロシア軍の退却で終結した。これらの功績により、旧幕府軍出身者ながら陸軍大将に昇進。薩長出身の将軍たちも、戊辰戦争時の苦い経験から立見の前では頭が上がらないことが多く、特に山縣有朋は北越戦争の際、何度も煮え湯を飲まされていることから、生涯避けていたという話もある。

出典:wikipedia

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