地球平面説(ちきゅうへいめんせつ)とは地球の形状が平面状・円盤状であるという過去の宇宙論。古代の多くの文化で地球平面説がとられており、そのなかには古典期に入るまでのギリシア、ヘレニズム期に入るまでの青銅器時代~鉄器時代の近東、グプタ朝期に入るまでのインド、17世紀に入るまでの中国がある。地球平面説は典型的にはアメリカ先住民の文化でも受容されており、逆さにした鉢のような形状の天蓋がかぶさった平面状の大地という宇宙論は科学以前の社会では一般的である。地球球体説というパラダイムはピュタゴラス(紀元前6世紀)によって生み出されてギリシア天文学において発展したが、ソクラテス以前の哲学者はほとんどが地球平面説を維持していた。紀元前330年頃にアリストテレスが経験的見地から地球球体説を採用し、それ以降ヘレニズム時代以降まで地球球体説が徐々に広がり始めた。コロンブスの時代のヨーロッパでは教養人も地球平面説を信じており、コロンブスの航海によってそれが反証された、という近代に生まれた誤解は地球平面説神話と呼ばれてきた。1945年に(イギリスの)歴史学協会で作成された歴史に関するよくある誤りのリストの20項目中2番目にこの誤解が掲載された。ユダヤ人の地球平面説は聖書の書かれた時代からその後にかけて形成された古代エジプト人およびメソポタミア人は世界が大海に浮かぶ平らな円盤として表せると考えていた。同様のモデルは紀元前8世紀のホメーロスによる「オケアノス、大地の円状の周囲を取り囲む水を人化した者、は全生命の、そしてもしかしたら全ての神々の父である」という説明にも見出される。聖書に記述される大地も水に浮かぶ平らな円盤である。ピラミッドや棺に刻まれた文書から、古代エジプト人はヌン(大洋)が円状の身体をもってンブウト(「乾いた島々」あるいは「島々」を意味する言葉)を取り囲んでいると信じていたことがわかっており、それゆえに同じく古代の近東でも水に囲われた平面状の大地という宇宙論が信じられていた。ホメーロスとヘシオドスの両者がアキレウスの盾を引き合いに出して円盤状の大地を説明している。この大地を取り囲む ("gaiaokhos") 海(オケアノス)と円盤状の大地という詩の伝統はキプロスのシタシノス、ミムネルモス、アリストパネス、ロドスのアポローニオスにも見出される。ホメーロスによる周囲を取り囲む海とアキレウスの盾という宇宙論ははるかに時代を下って紀元後4世紀のスミュルナのコイントスのトロイア戦争を描いた『ホメーロス以降』でも繰り返されている。何人かのソクラテス以前の哲学者は大地が平面状だと考えていた: いくつかの文献によればタレース(紀元前550年頃)が、アリストテレスによればレウキッポス(紀元前440年頃)およびデモクリトス(紀元前460年頃 – 紀元前370年頃)がそうである。タレースは平面状の大地が丸太のように水面に浮かんでいると考えていた。アナクシマンドロス(紀元前550年頃)は、大地は平べったく円状の底面を持った短い円筒だが万物から等しい距離に存在するために安定していると考えていた。ミレトスのアナクシメネスは「大地は平面であり空気に乗っている; 太陽や月や他の天体と同様に。それらはみな燃えており、平面状であるがゆえに空気に浮かぶのだ」と考えていた。コロポンのクセノパネス(紀元前500年頃)は大地が平面であり、その上部は大気に触れていて下部は限りなく下に伸びているものだと考えた。地球平面説は紀元前5世紀まで存続した。アナクサゴラス(紀元前450年頃)が地球平面説に同意し、彼の弟子アルケラオスは日の出・日の入りが万人にとって同時刻でないことを説明するために、平面状の皿のような大地が中空に浮き沈みしていると考えた。ミレトスのヘカタイオスは大地は平面状であり水に取り囲まれていると考えていた。ヘロドトスは『歴史』において水が世界を取り巻いているという考えを嘲笑したが、彼が大地の「端」という表現を用いていたために殆どの古典学者は彼も地球平面説をとっていたと認めている。古典古代のインドでは、大地はスメール山(須弥山)()の周囲に花弁のように集まった四つの大陸から成る円盤であるという宇宙論が優勢であった。さらに大陸の周囲を外海が取り囲んでいると考えられた。この考えは伝統的なジャイナ宇宙論や仏教宇宙論で練り上げられた。それらの宇宙論では宇宙は空虚で(小さな惑星系並の大きさの)平たい円盤状の海であって山によって区切られておりその中に大陸が小さな島々のように配置されているとされた。古代のノース人およびゲルマン人は、その中心に世界軸(世界樹ユグドラシルあるいは柱イルミンスル)を持った大地が海に取り囲まれているという地球平面説をとっていた。世界を取り囲む大洋の上にヨルムンガンドと呼ばれる蛇が座しているとノース人は信じていた。ギュルヴィたぶらかし (VIII) に遺されているノース人の創造神話では、世界が創造される際に航行不可能な海が大地の周囲に輪状に配置されたと述べられている:一方、より後の時代のノース人による文献Konungs skuggsjáにはこう記されている:日本書紀第1章には大地は平面状で乾いた島々が「油のように」水に浮かんでいるという古代日本の世界観が描かれている:古事記やアイヌの民話でも、水面を「漂う」大地という地球平面説がみられる。古代中国では、大地は平面であって四角く、対して天はまるいという考えが優勢であり、実質17世紀にヨーロッパの天文学が導入されるまでこの考えが問い直されることはなかった。イギリスの中国学者カレンが古代中国の天文学には地球球体説は存在しなかったという要点を強調している:中国人による世界の形状に関する考えは初期から17世紀のイエズス会宣教団を通じた近代科学との初めての接触までほとんど変化しなかった。天に関しては傘のように大地を覆っている説(盖天の説)、球状で大地を取り巻いている説(渾天の説)、天体は自由に漂っていて天は実質を持たず空虚であるという説(宣夜の説)など多様に描かれてきたのに、大地は実際にはやや膨らんでいるかもしれないのに常に平べったいものとされてきた。天を球状のものだと説明するために卵のモデルが張衡(78年-139年)等の天文学者によってしばしば用いられた:この曲がった卵との類比によって何人かの近代の歴史学者、特にジョゼフ・ニーダムが結局中国の天文学者は大地が球状だと気付いていたと推測している。しかし卵への言及はむしろ平面状の大地の天に対する相対的位置を明確化するために用いられたのである:ニーダムが翻訳しなかった張衡の宇宙起源論に関する一節で、張衡自身はこう言っている: 「天はその体を陽から得ているので、球状で運動するのである。大地はその体を陰から得ているので、平面状で静止しているのである。」 玉子の類比の要点は、Kai Tianが述べたように覆いかぶさっているだけなのではなくむしろ大地が完全に天に包まれているということを単に強調することなのである。中国の天文学者はいかなる水準からいっても非常に優れた人々であるが、17世紀まで地球平面説を奉じつづけた; この驚くべき事実は、紀元前5世紀に地球球体説を受容した明らかな才能を再考察する開始点になるかもしれない。古代中国の総意に異議を唱える声を例証するニーダムが引用している他の例は例外なく大地が四角いと述べており、平たいとは述べていない。それによれば、13世紀の学者で丸い天の動きが四角い大地によって妨げられると主張した李冶は地球球体説を支持していないが大地の端は円状であるために角がないという説を支持していた。『淮南子』に記されているように、紀元前2世紀の中国の天文学者はエラトステネスによる地球の曲率の計算を上手く反転させて地球から太陽までの距離を計算した。地球が平面だという前提を置けば10万里という結果が得られたが、これは実際の3分の1の大きさであった。紀元前6世紀のギリシアの哲学者ピュタゴラスおよび同じく紀元前5世紀のパルメニデス地球は球形であると洞観して以降、球体説はギリシア世界に急速に広まった。紀元前330年頃には、アリストテレスが自然学的理論と観察的根拠から地球は球形であると主張した。地球の周長は紀元前240年頃にエラトステネスによって初めて算出された。紀元後2世紀までにプトレマイオスが曲がった球から地図を作りだし、緯度・経度・気候の理論を発展させた。彼の『アルマゲスト』はギリシア語で書かれ、11世紀にやっとアラビア語訳を介してラテン語に翻訳された。紀元前2世紀に、マロスのクラテスが地球儀を作ったがそこでは世界は大きな川もしくは大洋によって四つの大陸に分けられており、そのそれぞれに人が住んでいると考えられていた。エクメーネ(人の住んでいる地域)の裏側である対蹠地へは大洋および灼熱地帯(赤道地帯)に阻まれて到達できないと考えられた。この考えは中世の心性を強く拘束した。ルクレティウス(紀元前1世紀頃)は重いものが向かう中心点など無限の宇宙に存在しないと考えたために地球球体説に反対した。それゆえ、地球の裏側では動物がさかさまに歩いているというのは不合理であると彼は考えた。1世紀までに、皆が地球球体説に同意していると大プリニウスが主張しているが、対蹠地の性質という点や大洋がなぜ曲がったままでいられるかという点で議論が続いた。大プリニウスも「[...]松かさのような形をしている」不完全な球である可能性を考察した。 古代末期にはマクロビウス(5世紀)やマルティアヌス・カペッラ(5世紀)のようなよく読まれた百科事典編集者が地球の周長、地球が宇宙の中心に位置するのかどうか、北半球と南半球の季節の違いその他の地理的な詳細について議論した。キケロの『スキピオの夢』に対する註釈の中で、マクロビウスは地球を宇宙の残りの部分からすれば取るに足らない大きさの球として描いた。初期教会の時代には、いくつかの例外を除いて、ほとんどのキリスト教徒が球体説を支持しており、ほんの2、3の例を挙げればアウグスティヌス、ヒエロニムス、アンブロシウスがそうである。『神聖教理』第3巻においてラクタンティウスは「頭より高い場所を歩く」対蹠人が存在しうるという考えを嘲笑している。彼は数種類の主張を挙げたうえで天地球体説の支持者に帰してこう書いている:ヒッポのアウグスティヌス(354年–430年)は対蹠人が存在すると考えることに対してより慎重なやり方で反対している:これらの人々がアダムを祖先とするなら彼らはいつかの時点で地球の反対側へ旅をしていなければいけないであろう; アウグスティヌスは続けてこう述べる:伝統的にアウグスティヌスの著作の研究者たちは上に引用したテクストや『創世記逐語註解』における有名な科学的証明から、アウグスティヌスを彼の同時代人と地球球体説を共有するものと理解している。しかしこの伝統は近年カナダ地球平面協会のレオ・フェラーリによって挑戦されており、彼は「世界の底で」というアウグスティヌスのひとことが本質的に地球平面説を支持しているのだと結論している。タルソスのディオドロス(394年死)は聖書に基づいて地球平面説を主張した; しかし、ディオドロスの意見はコンスタンティノープルのフォティオスによるそれに対する反論によってのみ知られる。ガバラ司教セウェリアヌス(408年死)は地球は平面であり、太陽は夜にはその下を通るのではなく「壁によってさえぎられているかのように北方を旅する」と書いている。エジプトの修道士コスマス・インディコプレウステース(547年)は『キリスト教地誌』において全世界を聖櫃に準え、神学的見地から大地は平たく四つの大洋によって囲われた平行四辺形だと主張した。『教理説教集』においてヨハネス・クリュソストモス(344年–408年)は聖書読解に基づいて明らかに蒼穹のもとに集められた大地が水面に浮かんでいるという説を支持しており、アレクサンドリアのアタナシオス(293年頃 – 373年)も『異端論駁論』において同じ意見を述べている。世界の形状の問題に関する起源から古代までの議論に関するLeone Montagniniのエッセイに、教父たちが平行する哲学的・神学的観念全体への異なるアプローチを共有していたことが示されている。彼らのうちでプラトン的観念により親しんでいたオリゲネスのような者は平和的に地球球体説を受容できた。次に、バシレイオス、アンブロシウス、アウグスティヌス、ヨハネス・ピロポノスのような人々は地球球体説や放射重力説を受け入れたが批判的なやり方で受け入れた。彼らは特に放射重力に関する自然学的推論に多数の疑問を投げかけ、アリストテレスやストア主義者たちによる自然学的推論を受け入れるのに躊躇した。しかし、「地球平面主義」的なアプローチがシリア地方の教父全員に多かれ少なかれ共有されていた。彼らは旧約聖書の字義どおりの意味に従う傾向が他より強かったのである。ディオドロス、ガバラのセウェリアヌス、コスマス・インディコプレウステース、クリュソストモスらがまさにこの伝統に属していた。少なくとも一人のキリスト教著述家、つまりカイサリアのバシレイオス(329年–379年)がこの問題は神学とは関係がないと考えていた。初期中世のキリスト教著述家たちはプトレマイオスやアリストテレスの著作には曖昧な印象しか持っておらず、プリニウスにより強く依拠していたが、地球平面説へ向かう気持ちをほとんど持っていなかった。 ローマ文明の終わりとともに西欧は中世に入り、大陸部の知的生産に大きな困難を抱えた。古典古代の(ギリシア語で書かれた)学問的論文のほとんどが利用不可能になり、単純化された概論や抜粋集のみが残された。しかし、初期中世の多くの教科書は地球球体説を支持していた。例えば: 初期中世に作られたマクロビウスの写本には世界地図が含まれるが、そのなかには対蹠地、球体説を前提としているプトレマイオスの気候区分図、惑星の秩序の中で地球("globus terrae"、つまり「地の球」と名付けられている)が中心に位置すること、などが記載されている。そうした中世の図表を含む他の例は『スキピオの夢』の中世の写本に見いだされる。カロリング朝期には学者たちは対蹠点に関するマクロビウスの主張に関して議論していた。彼らのうち、アイルランドの修道士であるボッビオのドゥンガルは、自分たちの住んでいる可住地帯と南側にある可住地帯との間の熱帯酷暑地帯はマクロビウスが信じていたよりも狭いと主張した。古代末期から中世初期までのヨーロッパ人の世界の形状についての考えは初期のキリスト教徒の学者達の著作に最もよく表されている:文字ではなく視覚的に中世人が地球球体説を信じていたことを示せるものは諸王国や神聖ローマ帝国のレガリアにおけるオーブ(宝珠)の使用である。これは古代末期のキリスト教徒ローマ皇帝テオドシウス2世(423年)から中世まで証明されている; 「ライヒスアプフェル」がハインリヒ6世の戴冠式に用いられた。しかしオーブという言葉は円を意味し、西方では古代から1492年のマルティン・ベハイムまで地球を表すのに球が使われた記録がない。さらにオーブは世界全体、宇宙を表すために使われた。中世の地球球体説に関する近年の研究では「8世紀以降、言及に値する宇宙論者で地球が球体であることに疑問を挟む者はいなくなった。」 ただし、これらの知識人の著作は大衆の意見に大きな影響を持たなかったかもしれず、一般大衆が世界の形状をどう考えていたか、そもそも彼らがそういう疑問を持つことがあったかは不明である。11世紀までにヨーロッパはイスラーム天文学を学んだ。1070年頃から12世紀ルネサンスが始まり、ヨーロッパにおいて強い哲学的・科学的起源のもとに知的再活性化が進んだ。それに伴い、自然哲学への関心も増大した。ヘルマヌス・コントラクトゥス(1013年–1054年)はエラトステネスの方法に則って地球の周長を計測した初期のキリスト教徒の学者である。最も重要で広く学ばれている中世の神学者トマス・アクィナス(1225年–1274年)は地球が球状だと考えていた; そして彼は自分の読者が地球が球形であると知っていることを当然の前提としていた。概して中世の大学における講義は地球球体説を支持する根拠を提出した。また、13世紀に最も影響力のあった天文学の教科書で西欧の全ての大学の学生が読むことを要求された『地球球体論』には世界が球形であると書かれている。トマス・アクィナスは著書『神学大全』において「天文学者と自然学者は、たとえば地球は丸いというような同一の結論を論証するが、天文学者が、数学的な方法、すなわち質料からの抽象という方法を使うのに対して、自然学者は、質料をめぐって考察される方法を使う」と書いている。地球の形状の問題はラテン語で書かれた学問的著作でのみ論じられたわけではなかった; より広い読者に向けて書かれた口語・地方語による文献でもこの問題は扱われた。1250年頃のノルウェーの文献『Konungs Skuggsjá』では地球は球形であり、ノルウェーの日中には地球の裏側では夜であると明らかに述べられている。本書の著者は対蹠人の存在も論じており、(存在するとすれば)彼らは空の北側の真ん中に太陽を見て、北半球とは逆の季節を体験するだろうと述べている。しかし12~13世紀のフランス語で書かれた口語の著作では地球は「リンゴのように丸い」ではなくむしろ「テーブルのように円い」と書かれていることをTattersallが示している。「叙事詩や非『歴史的』ロマンス(つまりあまり教養のない人物による著作)から[...]引用した例の実質全てにおいて用いられている言葉の実際の形式は球よりも円を強く提示している。」ポルトガルのアフリカ・アジア探検、コロンブスのアメリカへの航行(1492年)、そしてフェルディナンド・マゼランの地球一周(1519年–21年)が地球球体説の最終的で実践的な証明を与えた。9世紀のアッバース朝期に天文学と数学が大きく開花した。この頃にムスリムの学者がプトレマイオスの著作を翻訳して『アルマゲスト』となり、さらに球体説に基づいて彼の研究を拡張・発展させ、以降広い敬意を集めることとなった。しかし13世紀にイスラーム黄金時代が終焉するとより伝統的な観念がじょじょに勢力を増した。クルアーンには世界が「広げられた」とか「平たく作られた」などと言及されている。これに関して16世紀初期に書かれた古典的なスンナ派注釈書『タフスィール・アル・ジャラーラーイン』には「『平たく広げられた』といった彼の言葉sutihatに関しては、[開示された]法の学者達の意見通りに字義通りに読めば地球は平たいということになり、たとえ天文学者たち (ahl al-hay’a) の説が法の柱に矛盾しないとしても彼らの言うのとは違い球状ではない。」 「平たく作られた」ではなく「広げられた」と訳されている場合もある。1595年に中国に来た初期のイエズス会宣教師マテオ・リッチが中国人の宇宙論について記録している: 「世界は平たくて四角く、空は円い天蓋である; 彼らには対蹠人の可能性を想定することなど思いもよらなかった。」 大地が平たいという宇宙論は当時、1609年に出た中国の百科事典でも確実視されており、その事典では天球の地平の直径面まで平たい大地が広がっているものとされた。17世紀にはイエズス会の影響により地球球体説が中国に広がり、イエズス会士たちが宮廷で天文学者として高い地位を得た。日本には16世紀後半まで地球という概念が存在しなかった。宣教師フランシスコ・ザビエルはその報告において、日本人が地球が球体であったという事を知らなかったと報告している。その後マテオ・リッチの坤輿万国全図が伝わり、南蛮図屏風などで円形の地球が描かれるようになった。しかし近世儒学の祖の一人林羅山は儒教的な秩序論により、この説に反対していた。羅山は宣教師ハビアンとの対談において、「万物にはすべて上下がある」とした上で、地球が球体であるというのは儒教の渾天説の世界観を模したものであると非難した。また従来の須弥山的世界観を持つ仏教者の中からも地球球体説に対する反発が起きている。一方で幕府天文方の渋川春海は地球球体説を含む西洋の天文学知識を取り入れていた。また国学の立場からも、本居宣長はその説がよければ取り入れてしかるべしとして、儒学者や仏教者を批判している。19世紀にはヨーロッパで「暗黒時代」に対するロマン主義的な憧憬が高まり、中世以上に地球平面説に対する関心が高まった。1945年に歴史学協会が作成した歴史に関するよくある間違いのパンフレットには、20個の間違いのうち2番目に「コロンブスと地球平面説」が挙げられていた。この間違いはいくつかの広く読まれた教科書でも繰り返された。トマス・アンドリュー・ベイリーの『アメリカン・ページェント』の以前の版では「[コロンブスの艦隊の]迷信深い水夫たちは[...]ますます反抗的になった[...]というのも彼らは世界の端を越えてしまうのを恐れたからであった」と書かれている; しかし、そのような歴史的事実は知られていない。実際には水夫たちは、例えばどうして船出して海岸から遠くに行くと水平線の下に山が見えなくなるのだろうといった日々の観察から最初に大地が湾曲していることに気付いたかもしれない。中世のキリスト教徒に地球平面説を投影した初期の主唱者たちは非常に影響力が強かったと考える歴史家もいる(アンドリュー・ディクソン・ホワイトがこういった19世紀のものの見方を代表する); 近年の歴史家たち(歴史家・宗教学者のジェフリー・バートン・ラッセルが20世紀後半のものの見方を代表する)は地球平面説をキリスト教徒に投影するホワイトらの記述は不正確だと中世の神学的文献を引用して主張し、こうした不正確さを流布する動機づけを提案している。ラッセルによれば、大航海時代以前の人々が地球平面説を信じていたという一般的な誤解は1828年にワシントン・アーヴィングが『クリストファー・コロンブスの生涯と航海』を出版してから広まったという。アーヴィングによってコロンブスの反対者たちに帰せられた主張には彼らの死後すぐに記録されたものもあるが、それらの主張中で地球平面説に基づいていると思われるものは一つしかなく、その主張においては海が無限に広がっていると述べられていると後の歴史家たちは繰り返している。他の主張は対蹠人の不可能性、地球の果てしない大きさ、一方の半球からもう一方の半球へと行くことの不可能性などに基づいた主張もあり、これらは地球球体説に基づいている。現代の歴史家たちは彼らが地球平面説をまだ信じていたというのはアーヴィングのでっちあげであろうと簡単に片づけてしまっている。1496年にザカリア・リリオによって発表されたローマのサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の式文は当時唯一の地球球体説を否定する文献である。「地球が球形でないこと」と題された一節において彼は「プトレマイオスやプリニウスは地球が丸いと主張するが、根拠を足すことも実際に集めることもできず、ほとんど憶測に基づいた憶測をするだけだ。」 コロンブス航海のわずか20年後の1514年にニコラウス・コペルニクスが地球平面説を2文で簡単に切り捨ててしまい、支持者を見つけるために初期のギリシア人にまで遡っているのに、当時存在した他の説が誤っていることを示し地球が球形であることを証明するのに多大な紙面を費やしているのは注目に値する。事実上、1490年代のコロンブス航海の際の問題は地球の形状ではなく大きさであり、またアジア東岸の位置であった。近代においても個人や集団が散発的に地球平面説を主張してきたが、注目に値する科学者で主張した者はいなかった。イングランドの作家サミュエル・ロウボタン(1816年 – 1885年)は「Parallax」という変名を用いて1849年に『探究的天文学』()というパンフレットを作成して地球平面説を主張し、長い排水管の中の水の湾曲度合いを調べる実験を多数行った結果を発表した。これに続いて「近代天文学の矛盾とその聖書に対する背馳」なる文書も出された。彼の支持者の一人ジョン・ハムデンは地球平面説を証明しようとする有名なベッドフォード水位実験でアルフレッド・ラッセル・ウォレスと賭けをして負けた。1877年にはハムデンは『新しい聖書宇宙地理学』()を作成した。また、ロウボタンは、船が水平線の下に消えていく現象は人間の眼との関係で視点の法則から説明できると称する研究も行った。1883年には彼はイングランドおよびニューヨークで真理探究協会を設立し、ニューヨークへは『探究的天文学』の数千ものコピーを船で送った。この挑戦はニューヨークのデイリーグラフィック紙で報じられ、地球が自転していることを証明した者には1万ドルが支払われるとされた。もともとイングランドのグリニッジの印刷業者だったウィリアム・カーペンターという男がロウボタンの支持者となり『暴かれた理論天文学 ― 地球が球体でないことの証明』()を1864年に『コモン・センス』()の題で8部構成として出版した。彼は後にボルチモアに移住し、1885年に『地球が球体でないことの百の証明』()を出版した。彼の主張はこうである:同世代の南部の牧師・聖職者の中で最も多くの人に対して説教したとされる元奴隷の黒人説教師ジョン・ジャスパーは友人の大工の意見に対して自身の最も有名な説教を引用して「麗しの太陽は動き、地球は四角い」と。この説教は250回も使われた。1887年にニューヨーク州ブロックポートでM.C. Flandersが球体説を擁護する二人の科学的な紳士に対して三晩にわたって地球平面説の場合を主張した。審判として選ばれた5人の村人は最終的に満場一致で地球平面説を支持した。この事件は『ブロックポートの民主主義者』()に報告されている。元治安判事のメーン州の「プロフェッサー」ジョゼフ・W・ホルデンはニューイングランド州で無数の講義を行い、シカゴ万国博覧会で地球平面説の講義を行った。彼の名声はノースカロライナ州に鳴り響き、同州のステイトヴィルのセミ・ウィークリー・ランドマークで1900年に彼の死が報じられた: 「我々は地球平面説を奉じるとともに我々の一員の逝去の報を聞き及んで深く悼むものである。」ロウボタンの死後、エリザベス・ブロントが1893年にイングランドで世界真理探究協会を設立し、『Earth not a Globe Review』という雑誌を創刊して2ペンスで売ったが、『Earth』という雑誌もありこちらは1901年から1904年まで続いた。彼女は自然世界に関しても聖書が疑いのない権威であると考えており、地球が球体だと信じている者はクリスチャンではないと主張した。世界真理探究協会の著名なメンバーには、三位一体聖書協会のメンバーでもあるEthelbert William Bullinger 、ダブリン大学トリニティ・カレッジの自然科学の上級議長でもある大司教エドワード・ホートンらがいた。彼女はロウボタンの実験を繰り返し、いくつかの興味深い反証実験を生み出したが、第一次世界大戦後には関心が薄れていった。この運動によりデイヴィッド・ワルドー・スコット『確固とした大地』(羅:Terra Firma)などの地球平面説を主張するいくつかの書籍が発表された。ジョシュア・スローカムは世界一周旅行中の1898年にダーバンで地球平面論者の一団と出会った。一人の聖職者を含む三人のボーア人が彼にパンフレットを贈ったが、それには地球平面説の証明が記されていた。トランスヴァール共和国の大統領ポール・クリューガーも同じ考えを広めていた: 「You don't mean "round" the world, it is impossible! You mean "in" the world. Impossible!」の宗教都市であったイリノイ州を1906年から支配したは、1915年から地球平面説を説教で主張し始め、ウィスコンシン州のウィネベーゴ湖の12マイルの長さの湖岸線を水位より3フィート上から撮った写真を用いて地球平面説を証明した。1928年に飛行船イタリアが北極旅行中に遭難した際、彼は世界中の新聞に飛行船が世界の端を越えてしまうと警告した。また、5000ドルの懸賞をかけて彼の課した独自の条件のもとで地球が平面でないことの証明を募集した。ザイオンでは地球球体説を教えることが禁じられ、WCBDテレビで地球平面説が流布された。1942年、ボリヴァは死ぬ直前に教会で行った数々の不正を告白し、教会は崩壊に追い込まれた。ナイジェリアのサラフィー・ジハード主義組織ボコ・ハラムの創設者モハメド・ユスフは地球は平たいという自身の信念を表明している。1956年にサミュエル・シェントンがイギリスのドーヴァーで立ち上げた「国際地球平面協会」(、略称IFFERS)は地球平面協会としてよく知られ、世界真理探究協会の直接的な後継者である。これはソ連が最初の人工衛星スプートニクを打ち上げる直前のことであった; 彼はこれに応えて「ワイト島の周囲を航行することで球体説が証明できることがあろうか? 人工衛星もそれと同じことだ」と述べている。彼の最初の狙いは地球が球形であることを当然視するようになる前の子供に届くことであった。宣伝に大きな力を注いだものの宇宙競争によってシェントンに対する支持は浸食される一方であったが、1967年には彼はアポロ計画によって有名になり始めた。彼の郵便箱はいっぱいになったが彼の行動は基本的にワンマン活動であったため1971年に死去するまでその健康は蝕まれ続けた。1972年に彼の役割は彼の文通者の一人、カリフォルニアのチャールズ・ケネス・ジョンソンに引き継がれた。彼はIFERSを法人組織化し、会員3000人に達する強固な組織に育てた。彼は長期間を費やして地球平面説と球体説のいずれが学ばれているかを調査し、地球平面説に対する陰謀の証拠を提起した: 「回転する球体という考えはモーセ、コロンブス、FDRの皆が戦う間違いの陰謀にすぎない[...]」 彼の記事が1980年に『サイエンス・ダイジェスト』誌に記載された。さらに続けて「もし球体ならば、大量の水が湾曲するに違いない。ジョンソン一族はタホ湖とソルトン湖の表面を調査したが湾曲しているという証拠は存在しなかった」と述べられた。地球平面協会はカリフォルニアの根拠地が火災に見舞われ2001年にジョンソンが死去すると衰退した。協会は2004年にダニエル・シェントン(サミュエル・シェントンの親戚ではない)によってウェブサイトとして復活した。彼は誰も地球平面説を反証できていないと信じている。地球平面説は様々な文脈で生き残っている。平面説に対する間接的な言及には「地球の四つの角」という決まり文句も含まれる。「平面地球人」()という言葉は愚かにも時代遅れの考えを抱いている者を軽蔑する意味でしばしば用いられる。文学作品における初期の言及はルズヴィ・ホルベアの喜劇『エラスムス・モンタヌス』(1723年)にみられる。同作品中でエラスムス・モンタヌスは地球球体説を主張すると激しい反論に遭う、というのも小作人たちはみな地球平面説を信じているのである。彼は婚約者と結婚することを許されず、「地球はパンケーキのように平たい」と叫ぶのであった。ラドヤード・キップリングの『地球平面説に票を投じた村』()において主人公は教区会議が地球平面説に投票したという噂を流す。映画『ミラクル・ワールド ブッシュマン』(1980年)ではカラハリ砂漠に住むブッシュマンが邪悪な力を感じたコカコーラの壜を処分するために「世界の端」へ旅することになる。オックスフォード英語辞典によれば「平面地球人」という語の最初の用例は1934年の雑誌パンチにおけるものである: 「頑迷な平面地球人ではなく、彼[sc. Mercator]は[...]南の海を発見するために[...]世界を放浪し[...]不快な目に遭った。」 「平面地球マン」()という語は1908年に記録されている: 「彼が平面地球マンであれば一票も得票を得られなかったであろう。」ファンタジーは特に地球平面説への言及が豊富である。C・S・ルイスの『朝びらき丸 東の海へ』においてナルニアのフィクション世界は「ボールのようにまるい」ではなく「テーブルのようにまるい(つまり円形)」であり、登場人物たちはこの世界の端へと航行する(が地球自体は受け入れられて球形のものと書かれており、ナルニアの王カスピアン10世がその事実に驚いている)。テリー・プラチェットのディスクワールドシリーズ(1983年、継続中)は円盤状の世界を舞台としているが、その世界は4頭の巨大な象の背中に乗っており、象はさらに大きな亀の背中に乗っている。多くの探検者は世界がそのような形状でないことを証明しようとして世界の端から落ちて死ぬ。1996年に発表した風刺文において、コロラド大学ボルダー校の物理学の名誉教授アルバート・アレン・バートレットは球体の地球では資源が必然的に有限なため持続的な成長が不可能であることを算数で証明した。彼は地球平面説のモデルにおいてのみ二つの地平の広がりの中で、そして垂直下方へ向かっての無限の発展が永久に成長する人口の必要を満たすことができるであろうと彼は説明している。ジュリアン・サイモンの『無限の資源』に言及しつつバートレットは「だから、『限界を引き上げよう!』という人々を『新地球平面協会』と考えてみよう」と提案している。この文章の風刺性はバートレットの発表した他の文章と比較しても明確になる。彼は他の文章では人口増加を抑制することが必要だと説いているのである。
出典:wikipedia
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