太田城(おおだじょう)は、大阪府茨木市にあった日本の城(平城)。太田城は、この地域では最も古い城で平安時代末期、1180年前後太田頼基が築いたと言われている。この周辺では池田城が建武元年(1334年)前後に築城されたが、太田城はそれより150年前に築城されたと思われている。太田城の正確な位置は解っていないが、西国街道に接した南側、安威川と東岸、城の半分は現在の東芝中央倉庫が推定地、規模としては東西、南北150m前後ではないかと考えられている。城の東端に高さ2m程度の城の山という場所があり、その位置から推定すると物見櫓的な働きをしていたと思われるが、現在そのような場所は確認できない。昭和35年(1960年)、太田城の跡地の半分を東芝が取得し、中央倉庫を建設するために土地造成を実施、西方で青味がかった巾2-3mの土が50m続いて出てきたが、遺物はなにも出土されなかった。この東芝工場は2008年3月末で閉鎖された。平安時代の城であった太田城は、南北朝時代、戦国時代の本格的な城郭とは違い、砦、居館、館城の域を脱しなかったのではないかと思われている。太田城は太田頼基が築城したと思われているが、明確な古文献は見受けられないの細部に関しては不明な点が多い。ただし、太田頼基に関する記述はいくつか残っている。平家物語巻第四の治承4年(1180年)4月9日の夜の一節にとあり、行綱、朝実、高頼、太田頼基共に多田源氏の一族で太田頼基は摂津国でも有力な武士であったと思われる。河原津の合戦は『平家物語』巻第十二に記載されている。これによると、平家を倒した源義経は、兄源頼朝が源義経を討ち取るため京に攻め上るという噂話を聞いたため、手勢500騎を引き連れて文治元年(1185年)11月3日に都から西国に落ち延びていった。この報を聞いた太田頼基は「我が門の前を通しながら、矢一つ射かけであるべきか」と、太田城を出撃、河原津という場所に追い詰めた。この河原津はという場所は、太田城から西国街道を通って、安威川にかかっている太田橋の西側の地名、現在の茨木市西太田町周辺である。太田頼基は60騎で、源義経500騎を取り囲み「余すな、漏らすな」と鼓舞し散々攻め立て奮戦したが、太田頼基自身も手負い、多くが討たれ、馬も腹射され退いた。勝利した源義経は「門出よし」と悦んで、大物(現在の尼崎市)の浦より船に乗って下っていった。その後約350年間この地域を治めていた太田城であったが、細川晴元と細川高国との争いの中、桂川原の戦いの前の大永7年(1528年)2月、波多野稙通軍は茨木にあった城を次々と降服し開城した。その後史上から太田城の名が消えたので、この時廃城になったものと思われている。
出典:wikipedia
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