蔵王県境裁判(ざおうけんきょうさいばん)とは、山形県と宮城県にまたがる観光地、蔵王連峰でのリフト建設に端を発した、山形県上山市と宮城県七ヶ宿町との間の県境をめぐる騒動及び民事裁判のことである。この事件は、1962年(昭和37年)の山岳有料道路、蔵王エコーライン(現在は、無料化して宮城県道・山形県道12号白石上山線)の開通を契機に勃発した。この開通を機に、山形県と宮城県の県境付近にある大型駐車場である刈田駐車場から蔵王観光のハイライトである「御釜」まで、直接リフトで連絡しようと、山形市に本社がある2社が同時にリフト建設の申請を行った。1社が北都観光、もう1社は山形交通である。当時、蔵王連峰の上山市と七ヶ宿町の県境・市町境の一部は未定地であったが、双方とも、その場所が未定地という認識はなく、お互いが、勝手に県境が定められていると思い込んでいた。すなわち、上山市側は、刈田駐車場から御釜を望む稜線へと向かい、そこから稜線上を刈田岳神社へと向かう登山道を勝手に県境と認識していた。一方、七ヶ宿町では、林班界(営林署の管理境界)を勝手に県境と認識していたのである。そして、北都観光と山形交通は、ともに、林班界が県境という認識であった。1963年(昭和38年)、北都開発が山形側の営林署管理区域を通り、途中登山道をまたぐ格好になるリフトの申請を、新潟運輸局、山形営林署、上山市に行い、山形交通が、宮城側の営林署管理区域を通るリフトの申請を、仙台運輸局、白石営林署、七ヶ宿町に行った。宮城側に申請した山形交通のリフト申請はすんなり認められたが、山形側に申請した北都観光の申請は、上山市から、宮城側への申請が行われていないとして不受理にされ、さらに工事中止命令まで出される事態となった。この時点で、ようやく県境の未定地問題が明らかになったが、この混乱の中で北都観光のリフト申請が延び延びになってしまい、山形交通のリフト(山交リフト)が先に営業開始することとなった。山交リフト営業開始から1年以上経った1964年、ようやく北都観光リフトの申請が通り、営業開始にこぎつけることが出来たが、それまでの間に山交リフトは観光客の囲い込みに成功していたため、集客が出来ず、北都観光リフトは開始当初から深刻な営業不振にあえぐことになった。そのため、北都観光は、上山市の行為により営業開始が遅れ、結果多大な損害を蒙ったとして、同年、上山市など関係機関を相手に4000万円の賠償を求める民事訴訟を行ったのである。1965年には当時の山形営林署長が、勝手に県境を移動させたとして、公務員職権乱用罪で起訴された。山形・宮城両県の県境未定地問題は、裁判沙汰になったことで一気に日本中の注目を集めることとなった。そこで自治省(現総務省)が介入し、専門家による現地調査を行い、両県及び上山市、七ヶ宿町への聞き取り調査も行い、一旦は、林班界を県境とするという裁定を行った。ところが、今度は七ヶ宿町が、林班界を境界にする裁定に不服を申し立てたため、混乱に拍車をかけることとなった。もともと七ヶ宿町は、林班界を境界として認識していたが、それが固定化すると、もっと獲得できるはずの町域が狭まってしまうという思惑があったためである。結局、県境問題はこのまま棚晒しにされ、ようやく県境が確定したのは1984年(昭和59年)のことであった。実に20年も県境問題が放置されたことになる。結局、県境は、登山道と林班界の中間に引くという玉虫色の決着となった。その間、上山市と七ヶ宿町の両住民は、藩政時代からの因縁まで持ち出し、一時は険悪な雰囲気になったと言われている。営林署に対する損害賠償請求裁判はその後も続き、794万円の支払いで結審し、裁判が終わったのは1995年(平成7年)のことである。足掛け30年にも及ぶ裁判であった。結局、北都観光は、裁判の結審を迎える前に、営業を軌道に乗せることが出来ず、リフト事業からの撤退に追い込まれてしまった。なお、北都観光のリフト跡は2012年5月現在も残っており、そのリフト乗り場の壁には本件に関してのペンキ塗りも残されている。2015年1月、国はリフト跡の設備の撤去と原状回復を求め、山形地裁に提訴を行った。
出典:wikipedia
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