LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

ポルシェ・962

ポルシェ・962("Porsche 962" )は、1984年にポルシェがIMSA-GTPクラス用に開発・製作したプロトタイプレーシングカー。グループCレギュレーションで行われていたWEC用に開発・製作された962Cとともに1980年代のスポーツカー・レースにおいてポルシェに多くのタイトルとビッグイベントでの優勝をもたらした。ポルシェ・956のIMSA-GTP仕様車。FIA-グループCとIMSA-GTPの車両規定は似ていたが、安全性に関する考え方が異なっており、グループC用の956はIMSA-GTPのフットボックス・レギュレーション(ドライバーのつま先がフロント車軸より後ろになくてはならない)を満たしていなかった。このためIMSA-GTPの規定に合わせて956の軸距を120mm長い2,770mmに伸長し、そのスペースをキャビンに当て、フロント・バルクヘッドやサスペンション取付位置を再設計した。エンジンは、IMSA-GTPのレギュレーションに合わせてSOHC2バルブ、シングルターボエンジンで、デビュー当初は排気量2.87リットルの962/70型を搭載していたが、1985年からは3.16リットルに排気路用を拡大した962/71型が、1987年には排気量3.0リットルの962/72型をそれぞれ供給した。製作台数はワークススペックが1台、カスタマースペックがモノコック製作数ベースで17台である。962は、ワークスにより1984年IMSAシリーズ開幕戦デイトナ24時間でデビューした。予選でポールポジションを獲得したが、レースはギヤボックストラブルでリタイアした。ワークスによるIMSAでの活動はこのデイトナ24時間のみで以降の活動はカスタマー・チームに委ねられた。IMSAシリーズ第5戦リバーサイドからカスタマー・チームによる活動が始まり、第6戦ミドオハイオで初優勝を記録。1984年、962は14戦に出走し5勝を挙げ、マニュファクチャラ―・タイトルで2位に入った。962は翌年からIMSA-GTPで圧倒的な強さを発揮し、1985年は17戦12勝、1986年は17戦13勝、1987年は16戦13勝を記録しマニュファクチャラー・ドライバーの両タイトルを3年連続で獲得した。1988年、日産・GTP ZX-Tが8連勝を含む9勝を挙げIMSAシリーズを支配するようになった。962の戦闘力に陰りが見え始め、優勝回数は3回にまで減った。マニュファクチャラー・タイトルこそ防衛したものの、ドライバー・タイトルは日産のジェフ・ブラバムが獲得した。IMSAはシーズン中盤になってポルシェ・ユーザー救済のためツインターボ・エンジンの使用を許可し、962CがIMSA GTPにエントリーできるようになった。1989年になると、競争力の落ちた962/962Cのエントリーは減少したが、バスビー・レーシングが日産、ジャガー、トヨタ相手に孤軍奮闘、開幕戦のデイトナ24時間優勝を含む2勝を挙げた。1990年、前年最も強力なポルシェ・ユーザーだったバスビー・レーシングが日産・GTP ZX-Tにマシンを変更し、その他のポルシェ・ユーザーも962Cで活動するようになり962のエントリーは減少していった。1985年からグループCの安全規定はIMSA-GTPに準じたものに改定された。これにあわせてポルシェは962にツインターボエンジンを搭載した962Cを開発・製作した。962Cの製作台数はワークススペックが14台、カスタマースペックがモノコック製作数ベースで60台である。カスタマースペックがモノコック製作数ベースなのは、ポルシェ956からポルシェ962Cへのアップデートサービス用として交換用に製作されたモノコックが6台、ワークスポルシェ962Cのスペア用に製作されたモノコックが10台、カスタマー向けスペア用として製作されたモノコックが4台、テスト用モノコックが2台が含まれているためである。962Cに搭載されたDOHC4バルブ・水平対向6気筒ツインターボエンジンは、空冷エンジンをベースにヘッドのみ水冷とした空水冷の935/82型と全水冷の935/83型の2種類がある。エレクトリック・コントロールユニットは935/82型、935/83型ともボッシュ製のモトロニックを使用している。フロント17in/リヤ19in径のタイヤ・ホイールに対応し、それに伴う新しいリヤサスペンション、新しいボディカウルを組み合わせた。ポルシェは956時代からデュアルクラッチトランスミッションのPDKを搭載したマシンを実験的に投入しており、1984年のイモラ1000kmで初めて実戦投入し、962にマシンを切り替えた後も実戦でテストが続けられた。当初はMT仕様より40kgも重く、ギヤシフト時のタイムロス減少等PDK使用のメリットを相殺していたが、1987年にはケーシングをアルミニウムからマグネシウムに変更し15kg重量軽減され、油圧システムによるパワーロスが減少されたものが使われるようになった。1986年のル・マン24時間レースにも出場し、モンツァで行われたレースでは優勝も記録している。その後もドイツ国内のスプリントレースに出場するも1987年のワークス撤退、CARTプロジェクトの始動にともない開発を中断せざるを得なくなった。しかしPDKの技術は十数年後、フォルクスワーゲン/アウディのDSGなどに転用され、さらに2008年発表のポルシェ・997後期モデル等のモデルからその名もPDKとなるデュアルクラッチトランスミッションが搭載されている。962Cは基本的には956の「エポリューションモデル」とも言うべき存在であったが、ル・マン24時間レースにおいて「同一車種」としては最多優勝記録を誇っており、さらにブルン・モータースポーツやヨースト・レーシングなどのプライベーターも多数使用したこともあり、今でもグループCと言えばこのマシンを思い浮かべるファンがいる等、まさしくグループCのみならず、レーシングカー史においてもその名を長く刻む名車となっている。1985年から、956に引き続きノバ・エンジニアリングやレイトンハウス、トラストなどのプライベーターから全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)に参戦した。各チームともに、オスカー・ララウリや高橋国光、フォルカー・ヴァイドラーなどのトップクラスのドライバーのドライブでトヨタ自動車(トムスやサードなど)や日産自動車(ホシノインパルやハセミモータースポーツなど)のワークス、セミワークス勢と対峙し、1985年から1989年にかけてチャンピオンを獲得した。各チームは、バブル景気を受けた豊富な資金力を元に、エアロダイナミクス面を中心に日本独自のモディファイを行い戦闘力を高めたほか、ル・マン24時間レースなどへの遠征も行なったものの、1990年に入ると国産勢の戦闘力が増してきたことから相対的に戦闘力が低下し優勝戦線から遠ざかった上、グループC自体の衰退とJSPCの消滅を受けてその姿を消すこととなった。グループC消滅後、全日本GT選手権(JGTC)仕様に仕立て直し、1994年シーズンからチーム・タイサンより出場した。ドライバーは1992年の全日本F3選手権チャンピオンで1990年のル・マン24時間レースで3位の経験もあるアンソニー・レイドと茂木和男(途中から近藤真彦に交替)であった。当時のJGTCはスタンディングスタートであったが、本来グループCカーはローリングスタートしか想定しておらず1速ギヤが設定されていないため、決勝ではスタート時に出遅れることがよくあった。その他にも規定を満たすべく300kgのウエイトを積んだり、吸入孔にリストリクターを装着したため、本来のポテンシャルを発揮できなくなっていた。緒戦ではタービンがサージングを起こしてタービンブローし、長時間のピットインを余儀なくされている。しかし第1戦、第3戦の富士スピードウェイにおいて予選でポールポジションを獲得し、第3戦では優勝している。ライバルである国産ワークスチームのタイムがマシンの改良によって速くなる中で、962Cは上記のようにレギュレーションによる規制による制限事項が多く、それ以上のタイムアップが困難であったので、タイサンは962Cでの参戦を初年度の1994年限りで中止し、翌年からはフェラーリ・F40で参戦している。この962Cは最近までチーム・タイサン監督の千葉泰常の自宅に保存されていた。962の最初の公道仕様車はケーニッヒが製作したC62で、1991年にドイツの道路交通法に合致させた。3.4リットルに排気量を拡大し、モトロニックシステムで出力800PSだったという。1992年にDPモータースポーツがDP62を製作した。これはヘッドライトの仕様変更や3.3リットルツインターボエンジン搭載等の改造を受け3台製作された。その他ヴァーン・シュパンのシュパン・962CR、ダウアー・シュポルトヴァーゲンのダウアー・962LMがある。日本国内のヒストリックカーイベントでたびたび目にできるM'sバンテックポルシェ962Cも、ターボをポルシェ・993GT2用KKK製K26ハイブリッドタービンに置換し、エンジン制御もボッシュ製モトロニックMP1.2からMotecM48に変更して燃料噴射、点火時期、加給圧などを任意に変更できるようにしてあり、タイヤも前後同サイズの18inにしてあり、日本のナンバーがついている。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。