大塚 晶文(おおつか あきのり、1972年1月13日 - )は、千葉県千葉市出身の元プロ野球選手(投手)、コーチ。2003年から2007年までの登録名は大塚 晶則(読み同じ)。横芝敬愛高等学校時代、八千代東高校と4回戦で対戦し、3-2で八千代東を下した。この試合後、八千代東のエースだった恩田寿之(のち、新日鐵君津・かずさマジック)から千羽鶴を手渡された。しかし5回戦で八千代松陰高校に敗れ、甲子園行きはならなかった。大塚は後年、「これが僕の高校時代の一番の思い出です」と話している(当時の新聞記事)。首都大学野球連盟所属の強豪校東海大学に入学し、硬式野球部で活躍する。卒業後は、社会人野球・日本通運硬式野球部に進む。のドラフト会議で近鉄バファローズから2位指名され入団。背番号は、野茂英雄のメジャー移籍後空き番号となっていた11を自ら希望して継承した。から50試合以上に登板し、リリーフばかりの登板で100奪三振を超えるなど、主にセットアップとして活躍した。には赤堀元之に代わるクローザーとしてパ・リーグ新記録の35セーブを挙げて最優秀救援投手に輝く。には故障でシーズンの半分を棒に振るも、その後も不動のクローザーとして活躍。2000年は39試合に登板して1勝3敗24セーブ、防御率2.38の成績を残し、最下位に沈んだチームの中で奮闘した。は、開幕戦からセーブを挙げるも3点差の場面を1点差まで詰め寄られ、その後も不安定な投球が続いて中継ぎに降格し、更に二軍に降格する屈辱を味わう。しかしシーズン後半には復調し、9月には自身2度目の月間MVPを受賞する活躍を見せ、シーズン終盤三つ巴という混戦をチームが抜け出すのに大きく貢献し、最終成績は48試合で2勝5敗26セーブ防御率4.02と安定感を欠いたものの近鉄は12年ぶりのリーグ優勝を果たした。当時、自身のニックネームを公募するという企画があり、背番号11にちなみ「鉄人11号」という候補などあったが、意に合うものがなく企画を白紙にした。ヤクルトと対戦した日本シリーズは球団にとって最後の日本シリーズとなり、自身は第2戦と第5戦に登板した。第2戦でセーブを挙げたが、このセーブが近鉄の投手で日本シリーズで最後にセーブを挙げた投手となり、第5戦の登板は大塚が最後に登板し、チームはその第5戦で敗れ日本一を逃した。そして2004年シーズン終了後にオリックスと合併し、消滅したため、大塚が日本シリーズで近鉄で最後に登板した投手となった。は開幕直前に脇腹痛で出遅れたこともあり、41試合と前年より少し登板数は少なくなったが、2勝1敗22セーブ防御率1.28と安定感抜群の投球内容を見せた。シーズン終了後、ポスティングシステムでのメジャーリーグ移籍を目指して入札を募集したがメジャーからの入札はなかった。大塚はポスティングにかけられた時点で余剰戦力になったはずであると主張し、自由契約を希望する。2002年オフ、金銭トレードで中日ドラゴンズへ移籍。は、退団したエディ・ギャラードに代わってクローザーを務め、1勝3敗17セーブ防御率2.09の成績を挙げ、セ・リーグでも力を見せつけた。シーズン途中に登録名を晶文から晶則に変更(登録名を変えたのは、「晶文」では「あきのり」とあまり読んでもらえなかったため)。シーズンオフに再びポスティングでの移籍を目指した。サンディエゴ・パドレスが30万ドルで落札し、2年契約で同球団に入団した。4月6日の対ロサンゼルス・ドジャース戦でメジャーデビュー。最初は敗戦処理としてのスタートだったが、4月に初勝利と初セーブを挙げると以降はセットアッパーとして定着。6月11日の対ニューヨーク・ヤンキース戦では、8回と9回を投げて打者6人を完璧に抑え、松井秀喜とも対戦した。9月にはESPNの選出する「お買い得だったFA選手ベスト10」の6位にランクインした。最終的に日本人選手シーズン最多記録となる73試合に登板し、リリーフ投手中リーグ3位の防御率1.75と同5位の奪三振率10.13、2位の被打率.199を記録し、リーグ最多の34ホールドを獲得した。はアウェイで0勝8敗、防御率6.92、WHIP2.08と打ち込まれ前年より成績を下げたが、ホームでは防御率1.23、WHIP0.95と好投しチーム7年ぶりの地区優勝に貢献した。1月4日にクリス・ヤング、エイドリアン・ゴンザレス、ターメル・スレッジとのトレードによりビリー・キリアン、アダム・イートンと共にテキサス・レンジャーズへ移籍。3月には第1回WBC日本代表に参加。クローザーとして5試合に登板し、日本代表の優勝に貢献した。特に決勝戦では8回裏1死で1点差に迫られた直後という厳しい場面からの登板となったが、わずか4球で2アウトを取り、1点差に追い詰められていた日本代表を救った。味方が4点を追加した後の9回を1失点で切り抜け、WBC初の胴上げ投手となった。レギュラーシーズンではクローザーを務めていたフランシスコ・コーデロの不調に伴い、クローザーに抜擢。メジャー屈指の投手有利の球場であったペトコ・パークをホームとしていた前年と変わり、メジャー屈指の打者有利の球場であるレンジャーズ・ボールパーク・イン・アーリントンをホームとすることとなったが、ホームでは防御率1.67、WHIP0.99と好投した。9月3日の対クリーブランド・インディアンス戦では佐々木主浩以来日本人メジャーリーガー2人目となる30セーブを達成。その後は頭痛により19日から登板がなくシーズンを終了したが、最終的にリリーフ投手中リーグ7位の与四球率1.66と安定した制球力で2勝4敗32セーブ、リリーフ投手中リーグ8位の防御率2.11、同8位のWHIP1.07の成績を残した。はエリック・ガニエの加入により再びセットアップマンとして起用されることになった。6月20日の対シカゴ・カブス戦ではサミー・ソーサがメジャーリーグ史上5人目となる通算600号本塁打を放ち、ブルペンで投球練習をしていた大塚がそれを捕球し、ソーサ本人に手渡した。その後も好投を続けていたが、7月9日に右肘を痛め故障者リスト(DL)入りし、そのままシーズンを終える。オフには球団側から契約延長の申し出がなくFAとなった。1月9日にトミー・ジョン手術を受け、その後リハビリを続けていたが、1月22日に3度目の肘の手術を行ったその後も現役復帰へ向けてリハビリを続け、5月20日にはペトコ・パークで始球式に出席し、トレバー・ホフマンの発案により東日本大震災のチャリティーの一環としてホフマンと共にサイン会を行った。6月にはこの年サマーリーグに初参加したサムライオールジャパンで投手兼コーチとして実戦復帰することとなったが、登板機会はなかった。8月には、NOMOベースボールクラブの青少年育成活動の一環として行われた中学生チームによる日米親善試合で、長谷川滋利が総監督を務めるアメリカ代表チームで投手コーチを務めた。右肘の状態が上向かないため左投げにも挑戦していたが、は再び右投げ一本での現役復帰を目指した。5月、独立リーグ「ベースボール・チャレンジ・リーグ」の信濃グランセローズへ入団することが決定。登録名も本名に戻すことになった。6月8日に中野市営野球場で記者会見を行い、正式に入団した。だが、6月下旬の練習中に遠投した際に右肩を痛め、シーズン終了まで登板することなくシーズンを終えた。12月3日に同年限りで辞任した岡本哲司にかわる信濃グランセローズの新監督に就任することが発表された。は投手コーチを兼ね監督兼選手として信濃に所属。7月21日の試合後に、ベンチ前で行ったミーティングで、3選手を平手打ちしたとして、7月24日に7試合の出場停止処分を受ける。9月15日の新潟戦(長野五輪)で実に7年2ヶ月ぶりとなる公式戦登板を果たし、打者1人を空振り三振に抑え、現役引退を表明した。より、古巣の中日で二軍投手コーチを務める。背番号は74。には、春季キャンプで一軍投手陣を指導していた。1月に腰のヘルニアを除去する手術を受けた一軍投手コーチ・近藤真市の長期休養に伴う措置で、本来の担当である二軍投手コーチには、前年に現役を引退したばかりの朝倉健太が編成部員との兼務扱いで就任した。なお、近藤が現場復帰を果たした2月23日以降は、再び二軍の投手陣を指導している。9月26日に第1回WBSC U-23ワールドカップの日本代表コーチを務めることが発表された。ボールの出どころの見えにくいフォームから最速96mph(約154.5km/h)の速球と縦のスライダー、フォークボール、チェンジアップを投げる。特にスライダーはイチローから「球が消える」と評された他、ラモン・ヘルナンデスからは「他の球種が必要ないほどのスライダーだ」と評された。近鉄時代、調整のために出場した二軍戦(藤井寺球場)で、場外ホームランを打ったことがある。近鉄在籍時の背番号が11であったのは、大塚の尊敬する選手が野茂英雄であり野茂と同じ背番号を希望したため(大塚がメジャーリーガーとしてのキャリアをスタートした際の背番号16も、野茂がロサンゼルス・ドジャースでメジャーリーガーとしてのキャリアをスタートした際の背番号である)。WBC、レンジャーズでの背番号40は「四球ゼロ」及び「試合が締まる」を意味している。中日移籍後も近鉄時代の先輩である久保康生から譲り受けた(デサント製の)グラブを使用していた。中日には1年しかいなかったにもかかわらず、中日の選手たちとの交流は続いている。落合英二とはメル友。日米野球で日本に凱旋した際には「対戦したい選手は仲の良い井端」と言っていた。岡本真也も大塚を師匠のように慕い、「2004年のリーグ優勝に大きく貢献できたのは大塚さんのおかげ」とも言っている。このようなこともあり、中日からポスティング移籍をする際にはメジャー移籍か中日残留かで随分と迷いがあったという。しかしその背中を押してくれたのが自分を一番必要としているはずの、当時新監督として中日に来た落合博満であり、「自分が一番後悔しないように道を選ばなくちゃいけないぞ」といわれ、メジャー移籍を決断したという。パドレス時代には抑えたときの口癖である「ヨッシャー!」がチームメイトに流行し、その後、実況アナウンサーまでもが「ヨッシャー!」を使用するようになり、ペトコ・パークでは大塚が最後の打者を打ち取るとバックスクリーンの大型ビジョンに「YOSSHAA!」と表示された。2005年8月に開設したブログでは、通常1S、2S……と表記するセーブ数の記録を1Y、2Y……(Yは「ヨッシャー!」の略)と表している。日本代表としてWBC第1回大会への出場が決まった際には、アメリカ国内で放送されたESPNのWBC関連のコマーシャルに日本代表として出演した(台詞は全くなし)。当時のパドレスのクローザーだったトレバー・ホフマンとは親交が深く、パドレス時代にはシーズン中に病院や孤児院への慰問を共同で行うなどもしていた。テキサス・レンジャーズ移籍後は、登板の際に流す入場曲はホフマンのトレードマークとも言えるAC/DCの『ヘルズ・ベルズ』を使用していた(ホフマンに2006 ワールド・ベースボール・クラシックの際に連絡を入れて決勝のみの使用を当初は許可してもらったが、その後さらに話をしてレギュラーシーズン中の使用を快諾してもらったそうである)。また、決勝戦はパドレスの本拠地であるペトコパークで行われたため、観戦していたパドレスファンは曲を聴いて大いに盛り上がった。2004年にはホフマンとジェイク・ピービーと共にパドレスの球団CMに出演。ホフマンとピービーから自身の入場テーマ曲を決めてはどうかと勧められた大塚が、和服を着た女性の三味線演奏をバックにモーニング娘。の「LOVEマシーン」を歌うというコミカルな内容であった。また、サンディエゴの害虫駆除会社のCMにも出演し、この時は食事中に害虫を見つけた大塚が「なんじゃこりゃ!?」と驚いた後にバットでその害虫を叩く(勢い余ってテーブルごと破壊する)というものであった。野球のワールドカップ(現実世界のワールド・ベースボール・クラシックに相当)などを舞台にした、NHKのテレビアニメ『メジャー』において、長谷川滋利に代わって第5シリーズの野球監修を務めていた。
出典:wikipedia
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