弓取式(ゆみとりしき)は、大相撲の本場所で結びの一番の勝者に代わり作法を心得た力士が土俵上で弓を受け、勝者の舞を演ずることである。全取組終了後、打ち出し前に行われる。平安時代に行われた相撲節会で左近衛府と右近衛府に分かれ相撲を取り、勝った方の立会役が矢を背負って勝者の舞を演じたことが始まりといわれている。「織田信長が相撲を観覧した際、勝者に褒美として弓を与え、力士がその返礼として舞ったことに由来する」とする俗説があるが、これは正しくない。今日の原型は1791年7月11日(寛政3年6月11日)に横綱である2代谷風梶之助が徳川家斉の上覧相撲で、土俵上で弓を受け「敬い奉げて四方に振り回した」ときにできあがったとされている。本来は三役揃い踏みに大関として登場した2人のうちの勝者が行っていたが千秋楽に幕内の取組がなくなり、幕下力士が行うようになった。なお明治以降に幕内力士が弓取を行った記録も数例存在する。元々は千秋楽にのみ行われ、この場所最後の勝者を称えてのものだった。そのため千秋楽結びの一番が引分や痛み分けの場合は中止された。1952年5月場所からは、毎日行われるようになった。千秋楽で幕内の優勝決定戦が行われるときは決定戦を行う前に弓取式を行う。弓取を行う力士は向正面に控えとして座り、結びの一番で東が勝てば東から、西が勝てば西から土俵に上がり弓を振り、四股を踏む。なお控え席には何も敷いておらず、基本的に地べたに座る(関取が弓取を行う場合は座布団が用意されている)。弓取を行う力士は原則として幕下力士であるが特別に大銀杏を結い、化粧廻し(協会所有のものを使用、3月場所は東西会所有のものを使用)を締めて土俵に上がる。基本的に横綱がいる部屋の力士によって行われ、横綱不在の場合は大関のいる部屋から選出される。弓取式を行った力士は関取になれないというジンクスが相撲界にあったが1990年5月場所まで弓取を務めていた九重部屋の巴富士が同年7月場所で十両に、最終的には小結まで昇進したことによりこのジンクスは影を潜めた。2007年3月場所まで弓取を務めていた高砂部屋の皇牙は2006年5月場所から十両に昇進した。十両力士(関取)が本場所の弓取式を務めることになったのは、1975年3月場所の板倉(後の前頭・大豪)以来実に31年ぶりだった。一方で、元十両の秀ノ花は関取から陥落した後に弓取を務めた。力士が弓を落とした場合は足で拾う。これは、手を土俵につくと負けとなり縁起が悪いことからである。拾い方は足の甲に弓を乗せ、足で弓を上に跳ね上げたところを掴み取る。弓を土俵の外に飛ばした場合は、呼出が拾って手渡すことになっている。2010年3月場所の中日、高砂部屋の男女ノ里が弓を落としてしまい、作法通りに足で拾い上げることもできず、手を使ってしまうハプニングがあった。弓取式後、男女ノ里は「(足で弓を拾い上げる動作を)2回挑戦したが上手くいかなかったので(諦めて)手を使ってしまった」とコメントしている。出羽錦は栃錦の、玉椿は自分の引退相撲で、舞の海は日本相撲協会設立70周年のファン感謝祭で弓取を行った。本場所において毎日実施するようになった1952年5月場所以降:
出典:wikipedia
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