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絵島

絵島(えじま、天和元年(1681年) - 寛保元年4月10日(1741年5月24日))は、江戸時代中期の江戸城大奥御年寄。名前は「江島」が正しいとされている。歌舞伎役者・生島新五郎とともに大奥につとめる多数が処罰された風紀粛正事件、江島生島事件の中心人物である。本名はみよ。天和元年(1681年)、甲府藩士・疋田彦四郎の娘として誕生。三河国に生まれ、江戸で育つ。実父・彦四郎の死後、母が旗本・白井平右衛門久俊に再婚したため、その養女となる。はじめ尾張徳川家、次いで甲府徳川家の桜田御殿に仕え、藩主・徳川綱豊(後の徳川家宣)が江戸幕府6代将軍になるとともに大奥入りする。家宣の側室で7代将軍・家継の生母であるお喜世の方(後の月光院)に仕え、その月光院の右腕とも言われていた。正徳4年(1714年)、月光院の名代として前将軍・家宣の墓参りのため奥女中の宮路らと共に寛永寺、増上寺へ参詣。その帰路の途中、木挽町(現在の東京都中央区東銀座界隈、歌舞伎座周辺)の芝居小屋・山村座に立ち寄り、帰城が遅れた。その門限に間に合わなかった咎で評定所の審理を受ける。山村座の役者であった生島新五郎との密会を疑われ、拷問にかけられたが、彼女は自白しなかった。死罪を減じての島流し処分と裁決が下りたが月光院が減刑を嘆願したため、結局は信濃高遠藩(現在の長野県伊那市高遠町)へ流された。また連座者として、旗本だった絵島の兄・白井平右衛門勝昌は斬首、同弟は重追放の処分を受けた。絵島は屋敷に幽閉され、朝夕二度、一汁一菜の食事を摂り、酒、菓子類を口にすることを禁じられ、着用する衣服も木綿のもののみと定められた生活のなか、お経などを読んで時を過ごした、ともいう。しかし、大奥在籍のころから信仰していた日蓮宗の蓮華寺に行くことは許された。ただ、大奥の事を一切口にしなかったほどの清廉な姿勢が後に高遠藩の藩主に一目置かれるようになったという。現在では高遠城址公園に隣接した伊那市立高遠町歴史博物館の敷地に、絵島が幽閉された建物が復元され絵島囲み屋敷として公開されている。往時は老中の指図で城下から一里離れた非持村火打平にあった。それは一見、普通の屋敷や家屋のようにも見えなくないが、庭に面した格子戸は「はめ殺し」で開けられず出入りできず、唯一の出入り口の脇には詰所が設けられ監視人が配置され、板塀の上には二重の忍び返しがあり、外部の世界と完全に遮断。つまり屋敷は実質的には監獄であった。また、手紙のやりとりも出来なかったという。しかし徳川吉宗が8代将軍となり、享保7年(1722年)に高遠藩主内藤頼卿が江戸家老の野木多宮に絵島の赦免嘆願書を届けさせ、翌年月番老中安藤信友から内藤家の江戸藩邸に「非公式ながらこれを許可する」という達しがあった。そのため絵島は高遠城内での起居は比較的自由になり、囲い屋敷の周囲の散歩は認められた。藩主や内藤蔵人の厚意で、月に何度かは城に出てきて、城に勤める女性たちの躾の指導をしていた。そして27年間の幽閉(閑居)生活の後、寛保元年(1741年)に風邪をひいて全身がむくみはじめ、それが元になって死去した。墓所は高遠の蓮華寺にあるが、大正5年(1916年)に高遠を訪れた田山花袋に発見されるまで、永らく放置されていた。後に東京の歌舞伎関係者によって墓を囲む玉垣が奉納された。法名は「信敬院妙立日如大姉」。

出典:wikipedia

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