綿貫観音山古墳(わたぬきかんのんやまこふん)は、群馬県高崎市綿貫町にある前方後円墳。国の史跡に指定されている(指定名称は「観音山古墳」)。6世紀後半(古墳時代後期)の築造と推定され、数多くの副葬品が出土したことで知られる。綿貫観音山古墳は、高崎市の市街地の東方6キロメートル、井野川西岸の平野に立地し、北面して築造されている。規模は、を有し、二段築成で、二重の馬蹄形の周堀を持ち、また、上記のとおり、前方部の幅と後円部の径、前方部の高さと後円部の高さはほぼ等しい数値を示しており、きわめて整然とした形態を有している。出土した副葬品や須恵器の特徴から6世紀後半以降の造営と見られている。墳丘上の各所には埴輪を配置しているが、葺石は全く認められない。1973年(昭和48年)4月14日、「観音山古墳」として国の史跡に指定され、現在は史跡公園として整備されている。横穴式石室の開口部から前方部にかけて中段テラスに配列された形象埴輪は、新首長の首長権継承儀礼ではないかと考えられている。あぐらをかいて座している男子に容器を差し出す女子、そのそばに三人の女子、靫(ゆぎ)を背負う男子三体の集団が中核集団になっている。さらに、付き従う皮袋をもつ女子、威儀を正しした女子、盛装男子、甲冑武人、農夫、盾を持ち人などが続いている。この中核場面と離れた前方部に飾り馬が並べられ、後円部頂には複数の家形埴輪や鶏の動物埴輪、器財埴輪が立てられている。埋葬施設としては、後円部中段に両袖型横穴式石室がある。西南に向かって開口するように設けられており、石室内はほぼ埋葬当時の状態を保っている。石室の規模は群馬県最大で、全長12.65メートル、玄室の長さ8.12メートル、幅(奥)3.95メートル、(前)3.16メートル、羨道の長さ4.53メートル、幅(奥)2.40メートル、(前)1.34メートルである。壁石は角閃安山岩が使用され、天井石には牛伏砂岩と呼ばれる石が使われている。重さは最大で22トンあるが、古墳の周りには巨大な石はない。玄室からは2枚の銅鏡、金製・銀製・ガラス製の装身具、大刀、小刀、刀子、矛、鉄鏃、冑、挂甲などの武具、金銅製轡、鞍、鐙、雲珠などの馬具、須恵器の大甕、壺、坏、土師器の壺、高杯、銅製の水瓶などの容器類が見つかっており、副葬品の総数は500点を越える。中でも銅製水瓶と、韓国の公州で発見された百済・武寧王陵の石室内から出土した獣帯鏡と同笵鏡(同じ鋳型から製作された鏡)である獣帯鏡は東アジアとの交流を示すものとされている。
出典:wikipedia
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