フェラーリピサは日本の競走馬である。馬名は車名のフェラーリと冠名の「ピサ」が由来となっている。1月に京都競馬場で行われた芝の新馬戦が競走馬デビュー戦となり、秋山真一郎が騎乗して1番人気に支持されたがレースではトーセンキャプテンに敗れて2着だった。続く3週間後に行われたダートの未勝利戦は、武豊が騎乗して単勝1.3倍の1番人気に支持され、レースではスタートで出遅れたものの2着馬に4馬身差をつけてデビュー2戦目で初勝利を挙げた。昇級初戦は格上挑戦でヒヤシンスステークスに岩田康誠が騎乗して出走し、レースでは同じく市川義美の所有馬で2着となったピサノデイラニに4馬身差をつけて勝利しオープン馬となった。オープン初戦は重賞競走初挑戦となったスプリングステークスに出走することになり、柴田善臣を鞍上に迎えて2番人気に支持されたが9着という結果に終わった。次走はニュージーランドトロフィーにも出走登録を行っていたがクラシック初戦となる皐月賞に出走することになった。鞍上は岩田康誠が若葉ステークスを制したヴィクトリーに騎乗せず当馬に再度騎乗することになったが、レースではそのヴィクトリーに敗れ14番人気で16着という結果に終わった。芝で結果を出すことはできなかったため再びダート路線に戻り、次は兵庫チャンピオンシップに出走することになり、レースではスタートで出遅れたものの2着となったヤマカツブライアンに3馬身差をつけ勝利し重賞競走初勝利を挙げた。続くユニコーンステークスでは、当時3連勝中だったロングプライドに次ぐ2番人気に支持され、レースでは落鉄したこともありロングプライドに3/4馬身差で敗れダート戦で初黒星を喫することになった。さらにその後に骨折し、秋まで療養することになった。そして11月頃に帰厩し、骨折明け初戦は12月の師走ステークスとなり、クリストフ・ルメールが騎乗して1番人気に支持されたが2着だった。古馬となっての初戦の門松ステークスは岩田康誠が鞍上に戻り1番人気に支持されたが4着、続く平安ステークスと千葉ステークスは共に7着だったが、3月のコーラルステークスで2着、オアシスステークスで5着となった。そして5月に欅ステークスをレコードタイムで制して約1年ぶりに勝利すると、続く大沼ステークスも制して2連勝するものの次のマリーンステークスではトーセンブライトにクビ差で敗れて2着、続くクラスターカップはプライドキムに敗れて2着だった。秋競馬となった9月13日、エルムステークスに出走、トーセンプライトに1馬身1/4の差をつけて勝ち、重賞2勝目を挙げて秋のダート重賞戦線に向けて好スタートを切った。しかし、その後に原因不明の右顔面神経麻痺に襲われるなどした為に休養を余儀なくされ、目標としていたジャパンカップダートへの出走を断念した。2009年2月1日、明け5歳の緒戦であり、前年9月以来の休養明けとなった根岸ステークスに出走。レースでは直線好位から抜け出し、ヒシカツリーダーの追走を完封。重賞3勝目を挙げた。そして、大一番のフェブラリーステークスに出走したが、最後の直線で失速、5着に終わった。その後、交流重賞の黒船賞に出走。1番人気に推されたが、トーセンブライトから5馬身差離され2着に終わった。続くかしわ記念では道中2番手につけ、4コーナーで一気に上がって来たエスポワールシチーとの直線の叩き合いとなるも、残り100m付近で振り切られ、さらに外から猛追するカネヒキリにも交わされ3着に敗れた。休養を挟んで、9月23日の日本テレビ盃に1番人気で出走。レースでは向正面で先頭に立ちペースを作ったが、最後の直線でマコトスパルビエロにかわされ2着に敗れた。その後、JBCスプリント出走に向けて調整されていたが、レース2日前に右寛跛行を発症したため出走を取り消した。その後、2年の長期休養を挟んで2011年12月11日のカペラステークスで復帰したが12着。明け8歳緒戦の根岸ステークスでも15着と大敗した。2012年6月13日付けで競走馬登録を抹消、滋賀県甲賀市のグリーンファーム甲南で乗馬となる。
出典:wikipedia
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