竹筋コンクリート(ちくきんコンクリート)は鉄筋の代わりに竹を骨組に用いたコンクリートである。英語ではBamboo Reinforced Concrete (BRC) とも呼ばれる。第二次世界大戦当時の日本において鉄が戦略物資として軍に優先的に回されたため、民間事業や公共事業において鉄筋コンクリート構造物の建造に支障が生じるようになった。当初は、鉄筋の代替として木筋による構造物が考案されたが、コストや強度等の点で劣るために戦前より幾つかの研究事例が纏められていた竹筋によるコンクリートが注目されるようになった。竹は亜熱帯性の気候で良く生育し、鉄材の産出に乏しい日本においては、古くは土壁に網状に組んだ割竹材を埋め込んで強度を上げるなど、第二次世界大戦以前から比較的ポピュラーな建材の一つでもあった。竹筋コンクリートの科学的な研究は既に大正年間に始まっており、幾つかの構造物が大正から昭和初期に掛けて竹筋で試験的に施工されていた。本格的な技術体系は日中戦争勃発後、太平洋戦争前夜の1941年に滋賀県水口土木出張所長であった土木技師、河村協の著書「竹筋コンクリート」の大成によって一応の完成を迎え、竹筋コンクリートは採用する構造物の用途を見極め、施工指針に則った慎重な施工を行う事で重量対強度等の点で必要充分であると評価されるようになり、当時建設された多くのコンクリート建造物に利用された。このような経緯の元で工法として確立された為、建設当時は竹筋コンクリートの建物を永久構造物として捉えていたものも多く、戦争の期間だけ使用する戦時設計とは言い難い側面もあるが、竹の材質的な欠点としてコンクリートとの接着性が悪く(特に皮の部分)骨組みが離脱する恐れがあったことと、コンクリートのアルカリに弱く竹材内の脂質が分解されることで長期的に強度が低下する恐れがあったこと、竹材そのものが吸水乾燥によって膨張収縮するためにコンクリートにひび割れを発生させる恐れがあったことなどが問題点として指摘された。河村はこれらの竹の欠点を克服する為、竹筋コンクリートの施工に当たっては、等の施工方法を推奨している。但し、このような厳格な施工指針を遵守した場合であっても、大きな曲げ強度の掛かる梁や桁橋においては施工可能なスパンは最大でも4m程度が限界であり、多くは柱や底版、橋脚基部などの圧縮強度が掛かる構造物に用いられる程度に留まり、終戦後間もなく鉄筋材の供給体制が回復し、鉄筋コンクリートが復活すると竹筋コンクリートは瞬く間に廃れていった。日本においては現在でも一部に竹筋コンクリート構造物が現存し、中には現役の構造物も存在する。また未確認ながら竹筋の可能性が囁かれている現役の構造物もある。他に、独立行政法人国際協力機構 (JICA)が東南アジアの国々において、経済的事情から鉄筋の購入が難しい貧困地域向けの小規模建造物建設技術指導に、戦前の河村・細田の竹筋コンクリート施工法を用いている例がある。東南アジアでも竹材の産出量が多い地域では、均しコンクリートの補強材等として補助的に竹筋コンクリートが施工される例は、元より多く見られる傾向ではあるが、日本の大学などがバイオマス研究の一環として現地の研究機関と共に技術開発を模索している例も見られる。日本以外での本格的な竹筋コンクリートの研究例としては、1966年にアメリカ海軍土木研究所(現・)の土木技師、Francis E. Brink及びPaul J. Rushによって「BAMBOO REINFORCED CONCRETE CONSTRUCTION」というレポートが発表されている。なお、上記のような建材としての施工法を確立し、構造計算なども十分配慮して施工される事例とは全く別に、単純に手抜き工事の一環として竹筋が悪用される事例がある。1990年代以降の中華人民共和国では、本来鉄筋を使うべき工事現場において、違法な手抜き工事(現地では俗に豆腐渣工程と呼ばれている)により竹筋コンクリートが使用された構造物の存在が多数発覚して問題となった。また、中国では公道上の鋳鉄製品がすぐに盗難に遭ってしまう事情などにより、本来鋳鉄製品を使用すべき高速道路のマンホール蓋に竹筋コンクリートが使用されている事例も福建省の福寧高速公路等で報告されている。河村の著書では真竹(苦竹)、淡竹、孟宗竹の3種類の竹について、機械的強度の紹介が成されている。使用説があるもの、着工しても完成しなかったものも含む。※印は竹筋であると確認されたもの。
出典:wikipedia
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