板戸井(いたとい/Itatoi)は、茨城県守谷市の地名。旧北相馬郡板戸井村。郵便番号は302-0101。当地域の人口は1,207人(2010年1月1日現在、常住人口調査による。守谷市調べ)。守谷市北部に位置する。地域の中心に鬼怒川が流れ、地域内を県道野田牛久線が通り、新守谷駅前通りの終点となっている。地域内には北守谷公民館がある。地域の中央を鬼怒川が流れていることから、鬼怒川の東を通称「東板戸井」、西を「西板戸井」と呼ぶ。東は松前台、西は常総市菅生町・野田市木野崎、南は大木・薬師台、北は常総市内守谷町と接している。当地域は、古くは守谷郷に属し、全域が下総国相馬郡板戸井村となっていた。元は鬼怒川は流れていなかったが、鬼怒川掘削のために働いていた内守谷村の人夫が1625年(寛永2年)に土砂崩れで死亡した記録があることから、それ以前に鬼怒川の掘削が始まっていたと推測され、1634年(寛永11年)ごろ掘削が完成し、現在のように地域内に鬼怒川が流れるようになったと考えられている。1637年(寛永14年)頃は一色忠次郎の知行所であり、「下総国相馬郡板戸井村差出帳」によると、1669年(寛文9年)から1694年(元禄7年)にかけて計4回行われた検地の全てで一色氏の知行所となっており、1699年(元禄12年)の第五回検地においては牧野備前守の所領となっている。江戸末期には代官小笠原甫三郎及び田安領となっており、1706年(宝永3年)の「板戸井村書上帳」によると 民家108軒、人口555人の村となっていた。また、少なくとも幕末には名主が鬼怒川以東と鬼怒川以西に1人ずつ存在した。「旧高旧領取調帳」によると、幕末には田安領(712石8斗3升5合)と幕府領(12石8斗8升9合)となっており、幕末より下総野鎮撫府、下総知事県の管轄となり、1869年(明治2年)には葛飾県、1871年(明治4年)には印旛県の管轄となり、1873年(明治6年)の大区小区制では第十四大区六小区となったが、これは本来は仮定であり、実地不便の向きもあるということを理由に第五大区七小区へと再編されている。また、同年千葉県となる。1875年(明治8年)には千葉県から茨城県に移管され、第九大区二小区となる。1878年(明治11年)の郡区町村制で大区小区の区分けは廃止され、同時に相馬郡が利根川を境に南相馬郡と北相馬郡に分離し、北相馬郡板戸井村となる。1889年(明治22年)3月1日には同じ北相馬郡の大木村、大山新田、立沢村と合併し、板戸井は大井沢村の大字となり、1955年(昭和30年)3月1日には同じく北相馬郡守谷町、大野村、高野村と合併し、守谷町の大字となる。1976年(昭和51年)5月より、地域の北端を日本住宅公団(現:都市再生機構)が「常総ニュータウン北守谷」(開発中の名称は「公団北守谷団地」などで、開発後期より街開き後しばらくまでは「常総ニュータウン守谷」と呼ばれていた)として開発し、1985年(昭和60年)5月には松前台五~七丁目、薬師台二丁目~七丁目として分離した。2002年(平成14年)2月2日の守谷市の市制施行により、守谷市の大字として現在に至る。承平、天慶年間(931 - 946年)に平将門が東国に兵を起こした時、相馬地方に七つの井戸を掘って万一の場合の飲み水に備えたという伝説が残っており、その伝説により「板戸井」(井は井戸の意)という地名が付けられたと伝えられている。首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス・関東鉄道常総線守谷駅と新守谷駅を結ぶ路線バス・守谷駅から北守谷公民館までを結ぶ路線バスと、守谷市コミュニティバス「モコバス」が地域内を走っている。路線バス地域内には「守谷高校入口」・「北守谷公民館」の2つの停留所がある。また、現在は廃止されたが、かつては以下のバス停留所が存在した。モコバス地域内には「守谷高校前」、「守谷高校入口」、「大八洲(おおやしま)農協前」、「前原」、「西三」、「西二」、「いこいの広場前」、「滝下」の8つの停留所がある。また、当地域内は右回り、左回り共に同じルートである。市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。
出典:wikipedia
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