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根津嘉一郎 (初代)

初代根津 嘉一郎(ねづ かいちろう、万延元年6月15日(1860年8月1日) - 昭和15年(1940年)1月4日)は日本の政治家、実業家。東武鉄道や南海鉄道(現・南海電気鉄道)など日本国内の多くの鉄道敷設や再建事業に関わった。「鉄道王」と呼ばれることで有名。現在の武蔵大学および武蔵高等学校・中学校の前身である旧制武蔵高等学校の創立者。甲斐国山梨郡正徳寺村(現山梨県山梨市)に生まれる。根津家は雑穀商や質屋業も営む豪商で、「油屋」の屋号を有していた。『根津翁伝』によれば、明治10年(1877年)に山梨郡役所の書記として働いていたが、民権運動にも携わる。長兄の死により家督を相続し、明治22年(1889年)には村会議員となった後、東京へ進出する。若尾逸平や雨宮敬次郎と知り合い、甲州財閥を形成する。明治24年(1891年)には渡辺信、小田切謙明、佐竹作太郎ら名望家とともに鉄道期成同盟会を結成し、中央線の敷設運動を行う。第一徴兵保険会社や帝国火災保険、富国徴兵保険など保険会社の資金を運用し、東京電灯の買収などに関わる。明治38年(1905年)には東武鉄道の社長に就任し、経営再建に取り組んだ。その他にも経営に行き詰まった企業を多く買収し、再建を図ったことから「火中の栗を拾う男」「ボロ買い一郎」との異名や揶揄を与えられることもあった。資本関係を持った鉄道会社は24社に及び、多くの会社において名誉社長などに就任した。その中の数社には同じ甲州出身の早川徳次を送り込み、経営を任せて再建している。明治37年(1904年)以降、衆議院議員を連続4期務めた他(憲政会)、大正15年(1926年)12月より勅選貴族院議員となった。「社会から得た利益は社会に還元する義務がある」という信念のもと、教育事業も手がけ、大正11年(1922年)に旧制武蔵高等学校(現在の武蔵高等学校・中学校)を創立する。昭和5年(1915年)、死去。墓所は多磨霊園。嘉一郎は茶人としても知られ、「青山」と号して茶道を嗜み、多くの茶道具や古美術を蒐集している。甲州財閥をはじめとする実業家は茶道を嗜む人物が多く、彼らは茶会を古美術の鑑賞目的以外に、情報交換の場として利用した。生前から宮島清次郎(日清紡績会長)の紹介で吉田茂の面識を得ていたが、死後、遺族に課税されるはずだった莫大な相続税を、東京財務局長の池田勇人が特例で美術館への寄贈名目として免除したことから、根津の遺族と池田勇人の関係が深まり、これが後に池田内閣成立に繋がっていく。晩年に経営者となった東武鉄道との関係は、明治38年(1905年)に780株を取得したことから始まる。これは根津が当時所有していた他の鉄道会社の持株数に比べるときわめて少ないものであり、当初経営への参加は当然行っていなかったが、赤字続きだった東武鉄道からの要請もあって経営に参加し、路線延長や東上鉄道との対等合併を推進するなどその手腕を発揮した。しかし、根津は昭和に入る頃までは、まだ東武鉄道の経営が主な仕事となっておらず、なおも投資家として資本参加した南海鉄道、京浜地下鉄道、南朝鮮鉄道をはじめとする全国の鉄道の取締役に就いていた。没後、長男・藤太郎が2代目嘉一郎を名乗り、東武鉄道の経営を引き継いだ。なお2代目嘉一郎の退任後、社外出身社長の時代を経て、現在は2代目嘉一郎の次男である根津嘉澄が社長を務めている。

出典:wikipedia

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