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レミー・ボンヤスキー

レミー・ボンヤスキー(Remy Bonjasky、1976年1月10日 - )は、スリナム共和国パラマリボ出身のオランダ人男性キックボクサー、俳優。バックボーンはムエタイ。チームボンヤスキー所属。元ABNアムロ銀行勤務の銀行員という異色の経歴を持つ。恵まれた体格に巧みな防御技術と高い身体能力を生かしたフライング・ニー(跳び膝蹴り)、フライング・ハイ(ハイキック)などの蹴り技が武器。K-1 WORLD GPで3度の優勝を果たしている。2001年6月24日、日本で初の試合。K-1参戦後2戦目でレイ・セフォーに4RTKO勝ちし、脚光を浴びる。2003年10月11日、K-1 WORLD GP開幕戦でボブ・サップと対戦。ダウンを奪うが、ボンヤスキーがスリップして倒れた際にサップの反則攻撃を受け試合続行不可能となったため、反則勝ちで決勝トーナメントに駒を進める。2003年12月6日、WGP決勝トーナメント準々決勝でピーター・グラハムを跳び膝蹴りで1RKO勝ち。準決勝でシリル・アビディをまたしても膝蹴りで1RKO勝ち。そして決勝で武蔵を判定で破り、初優勝を果たした(WGPにおけるムエタイの選手としても初)。2004年5月30日、一撃キックルールでフランシスコ・フィリォと対戦し、ダウンを奪われて判定負け。フィリォはこの試合の勝利を最後に現役を引退した。2004年9月25日、K-1 WORLD GP 2004 開幕戦では、前年度王者ということで1回戦をシードされたため、スーパーファイトで曙と対戦し、ハイキックで3RKO勝ち。2004年12月4日、アーネスト・ホースト、フランソワ・"ザ・ホワイトバッファロー"・ボタ、武蔵を破り2連覇を果たす。だが、ホースト戦の判定がおかしいと言う意見もあり、この判定については一部の格闘技雑誌でも疑惑の判定として取り上げられた。ボタとそのトレーナーのスティーブ・カラコダはホーストとレミーの試合を控え室で見ていて、レミーが判定で勝った時には驚いていた。そして、次のボタ戦でも不可解な判定でレミーが勝利している。特にジャッジのうちの一人である御座岡正人の採点が「27.5-25.5でレミーを支持」という、明らかにボタへの採点が低すぎるものであった(通常、ダウンを奪えずに全3ラウンドで優勢だったとしても10-9が3回続いて30-27、そこにダウンを一つ奪ったのを追加しても30-26となり、ボタの採点は最大でも4ポイント減までが限界のはずだが、ダウン以外の場面は全てボタが完封していたにも関わらず、4.5ポイント減となっている)。さらに、このトーナメントで決勝戦の相手となった武蔵もレミーと同様に疑惑の判定勝利によって決勝に進出してきたため、ファンや専門家から多くの批判と抗議を浴びた。優勝後、レミーは「昨年のGPではホーストが欠場していた為優勝出来たのではないかと言われたが、今回はホーストを倒して優勝した事で、真の王者だと証明できて嬉しい。」とコメントした。2005年4月30日、K-1ラスベガス大会でマイティ・モーと対戦。試合は全体を通してレミーが支配していたが、3Rに右フックでダウンを奪われたシーンがあったため微妙な判定で敗れた。前年に続いて1回戦をシードされて迎えた11月19日の決勝大会の準々決勝ではチェ・ホンマンを判定で下すも、準決勝でセーム・シュルトに膝蹴りに苦しみ、自らしゃがみこんでダウンをするなどし1RKO負け。試合後、「4週間ぐらい前に怪我をしたところを攻められた。精神面じゃなく肉体面が敗因だ」、「王者のプレッシャーから解放された」とコメントした。2005年12月31日、K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!にてザ・プレデターと対戦、プレデターの圧力に苦戦し劣勢となるも、判定2-1で勝利。しかし、この試合についてはK-1ファンのみならず、関係者の間でも明らかにプレデターが勝っていたという意見が多く、会場では、不可解な判定に対して会場の観客からブーイングが起こった。この試合の判定について、格闘技通信やkamiproなどでも露骨なレミー贔屓の判定だったと指摘されている。K-1競技統括やレフェリーを務めている角田信朗はブログにて「立場上強くは言えないが、あの判定、ブーイングが出ても致し方ない」とこの試合の判定についてコメントした。さらに、大会直後の記者会見にてK-1プロデューサーの谷川貞治も「プレデターの勝ちでも良かったと思います」とコメントしている。数カ月後にチェ・ホンマン戦の直後に行われたインタビューにて当事者であるプレデターは「あの試合は俺が勝っていたんじゃないか?何度試合を見直しても俺の方が手数で上回っているし優勢だ。まあ仲間は俺の勝ちだと言ってくれているのでそれで良いが」と判定への不満こそ述べなかったが、自分が勝っていたとの見解を示している。2006年5月13日、K-1アムステルダム大会のスーパーファイトでジェロム・レ・バンナと対戦。3Rにバンナの蹴りにより試合後には足を引きずるなど、ダメージを受けていたが、2-0の判定勝ちを収めた。しかしその後、バンナ側の抗議により、6月30日付でレミーの0-3の判定負けと記録が変更された。同年7月30日、札幌大会では僅差で敗れたマイティ・モーと再戦を行い、ローキックなどでダメージを与えモーを完封して判定勝ち。リベンジを果たした。開幕戦ではピーター・アーツと対戦予定だったが、アーツが病気で欠場したため、試合の2日前に代役で出場が決まったゲーリー・グッドリッジと対戦し、KOで下し決勝大会への切符を手に入れる。決勝GPではステファン"ブリッツ"レコに2度の金的を受けるアクシデントに苦しみながらも、カウンターでダウンを奪い判定勝ち。だが金的のダメージが残っていたため、準決勝を棄権した。2007年4月28日、K-1 WORLD GP 2007 in HAWAIIのスーパーファイトにてグラウベ・フェイトーザと初対戦し、2-0の判定勝ち。2007年8月、ミルコ・クロコップのチーム・クロコップのトレーニングにスパーリング・パートナーとして参加。2007年9月29日、K-1 WORLD GP 2007 IN SEOUL FINAL16にてステファン"ブリッツ"レコと対戦し、右跳び膝蹴りでKO勝ち。ただし、レコはダウンを喫した後、10カウント以内に立ち上がったにも関わらず、レフェリーが試合を止めた為、このKOには疑問の声もあった。2007年12月8日、K-1 WORLD GP 2007 FINALの準々決勝でバダ・ハリに判定勝ちするも、準決勝でピーター・アーツに判定負け。2008年4月26日、K-1 WORLD GP 2008 IN AMSTERDAMのスーパーファイトにてメルヴィン・マヌーフにKO勝ち。2008年7月13日、K-1 WORLD GP 2008 IN TAIPEIのスーパーファイトでヴォルク・アターエフと対戦し、3RKO勝ち。2008年9月27日、K-1 WORLD GP 2008 IN SEOUL FINAL16でポール・スロウィンスキーと対戦し、3Rにスロウィンスキーのラッシュで完全に動きが止まり、ラッシュをクリンチで逃れるなど、明らかにダメージを受けた素振りを見せ劣勢となるも、判定勝ち。しかし、この不可解な判定について試合後、スロウィンスキーは不服を唱えていた。レミーもこの事に関して「彼が不服を唱えたのにもそれなりの理由があるのだろう。」とコメントしている。しかし、数日後に行われたインタビューでレミーはこの発言を撤回している。2008年12月6日、K-1 WORLD GP 2008 FINALの準々決勝でジェロム・レ・バンナに3RドクターストップTKO勝利、準決勝でグーカン・サキに2RKO勝利を収め、決勝でバダ・ハリと対戦する。1Rにハリからダウンを奪ったものの、2Rに足を掴まれ倒されたところにハリの反則攻撃(倒れた相手の頭部へのパンチと踏みつけ)により、ダメージ回復のため試合が中断され、レミーはダブルビジョン(物が二重に見えること)を訴える。この反則行為によりバダ・ハリは失格負けとなり、レミーが4年ぶり3度目のGP王者となった。対戦相手のハリは反則攻撃後のボンヤスキーの一連の行動に対して「演技」の可能性を指摘した。それに対して当のボンヤスキーは、その翌日のインタビューにおいて、一夜を越して起きてもまだダブルビジョンと頭痛が治まっていなかったという旨のことを述べている。2009年3月28日、K-1 WORLD GP 2009 IN YOKOHAMAでアリスター・オーフレイムと対戦。1R、2Rとプレッシャーをかけ続けるアリスターにペースを握られるも、3Rにフラッシュダウン気味のダウンを奪い判定勝ち。しかし、3R以外のダウン以外は終始アリスターが圧倒しており、この試合の解説者全員が1Rと2Rはアリスターが優勢であると発言する程であったにも関わらず、1Rと2Rにアリスターにポイントが入らないと言う不可解な判定があった為、この試合の判定について批判が起こった。K-1プロデューサーの谷川貞治はこの試合について「ほとんどアリスターの勝ちですね。2Rもアリスターのポイントで良いと思いますし、ダウン以外は全てアリスターが勝っていました」とコメントしている。。試合後の会見で2日前に膝の裏側の筋を痛め歩行も困難な状態になり、試合当日は鎮痛剤を打って試合をしたことを告白した。2009年9月26日、K-1 WORLD GP 2009 IN SEOUL FINAL16でメルヴィン・マヌーフと対戦し、判定勝ち。2009年12月5日、K-1 WORLD GP 2009 FINALの準々決勝でエロール・ジマーマンに判定勝ち。準決勝でセーム・シュルトと対戦し、1R開始直後に左フックでフラッシュダウン気味のダウンを奪うも、シュルトのラッシュにより、2度のダウンを奪い返されてKO負けし、連覇ならず。2010年8月、網膜剥離の手術を受け、成功した。以後は自身が経営するボンヤスキー・アカデミーでダニョ・イルンガら後進の指導をしつつ、欧州のキックボクシング団体であるIT'S SHOWTIMEのリポーターなどを務めながら、あと1試合で現役を引退することを表明し、引退試合をK-1かIT'S SHOWTIMEのどちらかで行うべく、両天秤にかけて契約交渉を行っていたが、IT'S SHOWTIMEのCEOサイモン・ルッツが「誰も彼の要求額は支払えない」と語るほど巨額なファイトマネーを要求したため、結局引退試合を行わないまま一度目の現役引退となった。2012年に入り、IT'S SHOWTIMEを買収したGLORYと契約し、同年10月6日にブリュッセルで開催のGLORY 2にて2年10ヶ月ぶりの現役復帰戦でアンダーソン・ブラドック・シルバと対戦し、延長戦の末に4-1の判定勝ち。なお、試合後の談話にてブラドックは判定に対して不満を述べた。2012年12月31日、DREAM.18 & GLORY 4のGLORY GRAND SLAM ヘビー級世界トーナメント2012にて、1回戦でフィリップ・ヴェルリンデンに2分3R判定143-142の1ポイント差で判定勝ち。準々決勝でジャマール・ベン・サディックに2分2R判定90-100で判定負け。2013年3月23日、GLORY 5 LONDONにてタイロン・スポーンに2RKO負け。2013年12月21日、有明コロシアムで行われたGLORY 13 TOKYOにて、日本で最後となる試合を行いアンダーソン・ブラドック・シルバと再戦。蹴りを有効に使いシルバを攻めるが、物議を醸す判定により判定負け、会場では判定が発表されるとざわつきが起こった。レミーは苦笑いをしながらもファンに日本語で感謝の気持ちを伝えた。2014年3月8日、アレナ・ザグレブで行われたGLORY14 ZAGREBにて、ミルコ・クロコップと再戦。お互いに見せ場を作れず、精彩を欠いた内容となったが、2-0で判定勝ち。2007年の7月の終わり頃、アムステルダムの市中で通り魔事件に巻き込まれたボンヤスキーは、その犯人らの逮捕劇にて大立ち回りを演じることとなる。2名のイギリス人らがアムステルダムの街中で車中から通行人に対して無差別にボウガンの矢を放ったという事件で、その被害者の一人(結果として最後の被害者)となったボンヤスキーは、即座に犯人らの車を追跡し、そのまま犯人らを取り押さえたうえで、警官らが到着するまで待機。犯人らはそのまま逮捕された。著名な格闘家の誉れ高き快挙としてアムステルダム市警はこれを顕彰し、ボンヤスキーは市警から栄誉のメダルを授与された。2009年にはアルメレ市の名誉市民賞を受賞。格闘技における功績を認められてのことであった。このアルメレ市は、その翌2010年に自身のキックボクシング/ムエタイジム“ボンヤスキー・アカデミー”を開業することになる町でもあり、更には防犯対策の講師として大学で講義を行い、新たに発足したその専門プロジェクトの主任を務めるなど、なにかとゆかりの深い町でもある。2010年にはオランダ発の下着ファッションブランド「Sapph」のモデルに抜擢され、このブランドの男性部門のニューフェイス(イメージキャラクターのようなもの)に就任。このブランドの女性部門のモデルを務める元水泳選手のインヘ・デブルーインとともにたびたびメディアに登場している。2011年の初めにはオランダの有名テレビ番組「ステレン・ダンセン・オプ・ヘット・アイス」に登場。イギリスの「ダンシング・オン・アイス」のオランダ版にあたるこのテレビ番組は、著名人同士がカップルを組んでスケートを行うという趣旨のもので、ボンヤスキーはこれの第4回放送に登場し、ともにSapphのモデルを務めるデブルーインの見守るなかで氷上の舞いを披露した。

出典:wikipedia

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