錫良(しゃくりょう、シリャン、満州語:si-liyang)は清末の政治家。総督などの地方官を歴任した人物で、特に西南部と東北部において、政治・軍事・産業の近代化の基盤を築き上げた。姓はバヨト氏(Bayot hala、巴岳特氏)。字は清弼。モンゴル人。蒙古鑲藍旗の人。1874年(光緒元年)、甲戌科進士となる。各地の知県・知州・知府・道員を歴任した後、1898年(光緒24年)、山西按察使となる。翌年、湖南布政使に遷る。同年9月に湖南巡撫、1900年(光緒26年)に山西巡撫、翌年に湖北巡撫(赴任せず)と歴任した。同年5月、東河河道総督に遷り、1902年(光緒28年)2月、河南巡撫となり、同年5月、熱河都統となった。1903年(光緒29年)4月、署四川総督に昇進し、翌年に正式に四川総督に任命された。1907年(光緒33年)2月に雲貴総督に遷った。1909年(宣統元年)2月、欽差大臣に任命され、さらに東三省総督兼管三省将軍事に遷った。1910年(宣統2年)、他省の総督・巡撫らと共に、内閣の組織、国会の開設を清朝中央に電文で要請した。1911年(宣統3年)4月、病により辞任、休養した。同年11月、再び熱河都統に任じられたが、1912年(民国元年)1月、辞任した。総督として任じられていた間に、錫良は各任地で政務に辣腕を振るい、政治・軍事・産業の近代化の基盤を築き上げ、民国以後にも影響を与えた。1917年(民国6年)、病没。享年65。
出典:wikipedia
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