深井 英五(ふかい えいご、明治4年11月20日(1871年12月31日) - 昭和20年(1945年)10月21日)は、日本の銀行家・経済学者・著作家。第13代日本銀行総裁・貴族院議員。群馬県高崎市出身。歴代日銀総裁でもっとも経済理論に精通し、金融恐慌時は副総裁として井上準之助をサポートした。ぎりぎりのところで日本経済を救った立役者として知られている。明治4年(1871年)、高崎市に生まれる。経済的に恵まれず師範学校進学を断念。そんな中、新島襄が外遊中にブラウン夫人から託された奨学金の受給者に選ばれ、明治19年(1886年)に晴れて同志社英学校普通科に入学する。同志社在学中は抜群の成績で特に語学力は群を抜いていたという。明治24年(1891年)卒業。徳富蘇峰が主宰する国民新聞社に入社し、その後『The Far East』(英文版『国民之友』)の編集を任される。日清戦争中は、一時、大本営嘱托を務めた。同誌が廃刊に至るに伴い、国民新聞社を退社。蘇峰の推薦で大蔵大臣・松方正義の秘書官に転じるが、3ヵ月後に松方の大臣辞任により失職する。1年間の浪人生活を経て松方の推薦により明治34年(1901年)、日本銀行に入行する。明治37年(1904年)2月から同40年(1907年)5月まで、数度の帰国を挟み、副総裁・高橋是清の外債募集のための海外出張に同行した。営業局長(深井の前任者が小野英二郎)、理事などを経て昭和3年(1928年)、副総裁に昇格。昭和10(1935年)、第13代総裁に就任。昭和6年(1931年)に金輸出再禁止政策が採られ管理通貨制度に移行したことにより国内でインフレが進行する厳しい経済状勢の中、円滑な金融政策の実行に努める。昭和11年(1936年)に勃発した二・二六事件後の金融界の動揺も巧みな舵取りによって抑えた。しかし、昭和12年(1937年)の軍事費増大による赤字国債増発に抗しきれず辞職。貴族院議員を経て枢密顧問官となり、昭和20年(1945年)8月15日の枢密院の会議には病躯を押して出席して、日本の敗戦を見届けたが2ヵ月後に没した。著書『回顧七十年』は日銀での幹部行員の教材にもなっている。また『通貨調節論』、『金本位制離脱後の通貨政策』といった著作を残し、通貨問題の最高権威となった。ちなみに歴代日銀総裁は、退任に際し肖像画が造られてきたが、深井は洋画の安井曾太郎製作で、安井自身の代表作でもある。20世紀が終わる寸前の速水優総裁の時に(費用が非常に高額で批判が相次いだため)廃止されている。妻はるは北信政財界の第一人者として知られた小坂善之助の次女にあたる。故に善之助の長男で政治家・実業家として活躍した小坂順造は深井の義兄にあたる。また順造の三男ではるの甥にあたる小坂徳三郎は三井十一家の一つである本村町家2代目・三井弁蔵の長女と結婚したので、深井家は小坂家を通じて三井財閥の創業者一族である三井家と姻戚関係で結ばれているといえる。深井英五・はる夫妻の長女・結子は日本を代表する天文学者・萩原雄祐に嫁いだ。萩原雄祐・結子夫妻は3男1女をもうけたが、雄祐の次男・道雄は深井の養嗣子となり、日銀勤務を経て日本長期信用銀行の監査役を務めた。また、日本テレビ放送網社長や日本テレビフットボールクラブ(Jリーグ・東京ヴェルディの運営会社)会長兼社長等を歴任した萩原敏雄は雄祐の三男で深井の孫にあたる。なおよみうりテレビの萩原章嘉と札幌テレビ放送社員(元アナウンサー)の萩原隆雄は深井の曾孫である。
出典:wikipedia
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