


野球日本代表(やきゅうにっぽんだいひょう)は、国際野球連盟(IBAF)主催大会や、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)出場時に編成される、日本の野球代表チーム。本チームの名称は「野球日本代表」だが、2000年のシドニー五輪までは「全日本」と名乗っていた。それ以降はオフィシャルサイト等の公式な発表では、過去に遡って全て「野球日本代表」との表記で統一されている。名称の変更理由、変更事実は説明されていない。近年の「野球日本代表」と過去の「全日本」は同一のものである。2009年のワールド・ベースボール・クラシックでの日本代表の愛称は「SAMURAI JAPAN(サムライ・ジャパン)」であった。しかし2008年3月にホッケー日本代表が発表し商標登録していた愛称の「さむらいJAPAN」に酷似しており、日本ホッケー協会広報委員長の永井東一は「WBC日本代表より前に“さむらい”を名乗っていた。元祖は私たちなのでパクったのではない」「露出の差を考えれば、こちらがマネしたと思われる」と主張し、日本野球機構(NPB)など関係団体に抗議文を提出した。これに対し、NPB側は「商標類似」など、ルール上の問題はないとし「SAMURAI JAPAN(サムライ・ジャパン)」の取り下げをしなかったことで、日本ホッケー協会理事からは「オレたちの方が早かったのだから金を取れ」という意見も出た。これについて、当時のNPBコミッショナーの加藤良三は「双方の代表が親しまれ、さらに活躍できるように協力、応援をお願いしたい」と配慮するコメントを残したが、WBCで日本代表の活躍を見た永井は「“侍ジャパン”の名前がこうして表に出ていることに関しては、複雑な思いもありますね」とも語った。「サムライジャパン」は電通が商標登録している。2012年の代表常設化後はチームの呼称として「侍ジャパン」が正式に使われることとなった。日本の野球界はプロ野球や学生野球(社会人野球・大学野球等)がそれぞれ複雑に絡み合って発展してきた。またそれぞれの団体が独立して運営されてきており、柳川事件でのプロとアマの対立に代表されるように、時に団体毎での対立が問題となってきた歴史がある。国際試合においては、国際野球連盟(IBAF)が主に統括しているが、かつては金属バットの使用を認めており、またプロそのものの参加が認められていなかったため、野球日本代表はアマチュア選手(学生野球・社会人野球)のナショナルチームであり、代表選手選出においてもアマチュア協会側が主導で決定してきた。ところが国際オリンピック委員会(IOC)によるオリンピックへのプロ派遣要望等を受けて、1998年、国際大会へのプロ参加容認等が転機となり、野球日本代表の在り方を巡っては、それぞれの団体の思惑等も絡み、大会毎に対応が異なってきた歴史がある。2013年現在においても各協会の代表事業の統括組織として、「野球日本代表マーケティング委員会(JMBC)」があるものの、サッカーにおける日本サッカー協会のような日本野球界全体を統括する組織ではない。国際野球連盟(IBAF)主催行事であるIBAFワールドカップやIBAFインターコンチネンタルカップについては全日本野球協会が、MLB機構主催であるワールド・ベースボール・クラシックの選手派遣については日本野球機構(NPB)が主導的に対応している等、対応が異なっているのが現状である。1954年、アジア野球選手権開催にあたり、アマチュア球界で代表チーム編成のため、 日本学生野球協会と日本社会人野球協会(現日本野球連盟=JABA)が共同で「日本アマチュア野球協会」を結成する。ここから代表チームが編成される。これが野球日本代表の最初と言える。「日本アマチュア野球協会」からアジア野球選手権に6回代表チームを送りこむ(社会人3回、学生2回、混合1回)。しかし「日本アマチュア野球協会」を、日本バレーボール協会や日本サッカー協会のようなアマチュア野球の統括組織にしようとする動きに日本学生野球協会が反発。1966年学生協会が脱退。アマチュア協会は空中分解し解散した。 学生側と社会人側の対立で日本アマチュア野球協会は解散したが、国際試合に代表を送りこむための組織は必要だった。そのためよりゆるやかなアマチュア球界組織として、両協会の付属機関として1967年、「日本アマチュア野球国際委員会」を設立する。この委員会のもと、1972年世界選手権初出場、1973年インターコンチネンタルカップに出場し優勝、1980年世界選手権日本開催、1987年アジア野球選手権日本開催、公開競技として1984年のロサンゼルスオリンピック、1988年のソウルオリンピックの両五輪に代表チームを送りこみ、それぞれ金メダル・銀メダルを獲得した。1992年のバルセロナオリンピックから正式競技となることに伴い、野球代表組織が改めて問題となった。「日本アマチュア野球国際委員会」は存在したものの、野球の代表組織として日本体育協会(体協)、国際野球連盟に加盟していたのは日本社会人野球協会であったため。バルセロナオリンピックから野球が正式競技になることにより、国際野球連盟にアマチュア球界で統合して加盟する必要が出てきた。このため「日本アマチュア野球国際委員会」を発展的解消し、日本学生野球協会と日本野球連盟(旧日本社会人野球協会)の上部組織でない「屋上屋」の組織として1990年「全日本アマチュア野球連盟」(BFJ)を結成し、この組織が国際野球連盟、アジア野球連盟、日本オリンピック委員会(JOC)に加盟する。以後、野球日本代表チームはこのBFJが編成することになる。厳密に日本代表ではないが、阪神・淡路大震災のあった1995年に、日本人選抜チームと外国人選抜チームとのチャリティマッチが開催されている。国際野球連盟は、1998年から国際大会へのプロの参加を認めた。1998年のバンコクアジア競技大会野球競技にはオールアマで挑み準優勝した。BFJはプロが参加しない限り2000年のシドニーオリンピックは出場できないと言う考えで固まり、1999年のシドニー五輪予選にはBFJがプロ野球側に要請する形でプロ野球選手の初の国際大会出場が実現する(この時プロ側にも五輪参加の方針でセントラル・リーグ、パシフィック・リーグ、各球団で温度差があった)。古田敦也(当時ヤクルト)・松坂大輔(当時西武)等を含むプロアマ混成チームはアジア予選を突破するも、オールプロの韓国に再び敗れた。2000年シドニー五輪本選も、プロアマ混成チームで望み、その結果メダルをかけた3位決定戦でまたしてもオールプロの韓国に敗れ、日本はロサンゼルス五輪以来初めてメダルを逃がすこととなった。 もはや中途半端な編成で挑む限りメダル獲得不能と判断した日本は、2004年アテネオリンピックはオールプロで臨むことを決定。代表の編成権もBFJから全日本野球会議に移行することになり、2001年に台湾でのIBAFワールドカップから、全日本野球会議が日本代表チームを送り出すこととなった。しかし、プロの力を以てしても世界の舞台で勝つのは容易ではなく、台湾ワールドカップに続き2002年インターコンチネンタルカップでも成績は振るわず、アマ出身として監督を務めた後藤寿彦が更迭されるなど日本代表は長く不振が続いた。2003年アテネ五輪アジア予選は、メジャーリーガーを除くオールプロの日本代表チームが結成されることになったが、プロ野球のシーズン終了直後であったことから、国内トップクラスの選手を揃えることに成功した。監督もアマ出身者から選ぶ方針を転換し、プロ監督経験者であり国民的人気も高く、日本シリーズ優勝経験もある長嶋茂雄が監督を務め、優勝で予選を通過した。翌2004年のアテネ五輪本選は、プロ野球がシーズン中であるため12球団から2名ずつが選抜されることとなった。だが、長嶋監督が急病で倒れ、選出当時プロの監督経験がなかった中畑清代表コーチが指揮を代行するなど、予選と違い万全の体制には程遠かった。予選リーグこそオリンピックで初めて1位通過を果たしたものの、準決勝ではオーストラリアの前に敗退した。しかし3位決定戦ではカナダを圧倒し、銅メダルを獲得し辛うじてオールプロの面目を保った。アテネ五輪はオールスター級のプロ選手を揃えてもなお、世界の壁は容易に破れないことを改めて実感させる結果となった。最後のオリンピックとなった北京オリンピックでは、選出当時は日本一の経験こそないが中日・阪神でセントラル・リーグ優勝経験を持つ、プロ出身の星野仙一が監督に就任し2007年のシーズンオフに行われたアジア予選を突破した。しかし、アジア予選主力メンバーを引き続き招集して挑んだ北京五輪本戦は12球団選抜との壮行試合で大敗するなど、当初から士気や選手のコンディションの低さが指摘されていた中、3位決定戦でもアメリカに敗れ、シドニー五輪以来のメダルゼロに終わった。過去の五輪代表チームのような編成上の問題以上に不調や故障中の選手、かつて星野が監督を務めた阪神・中日の選手を重用し、結果としていずれも使い潰してしまうなど、偏った起用法による弊害が見られたことが大きな特徴であった。北京五輪を経験したプロ選手には日本代表に対する不信感を生じさせる結果となるなど、大会後も悪影響を及ぼしている(詳細は北京オリンピック野球日本代表の項を参照)。現状でもWBCこそプロ一線級が出場するが、IBAF主催大会はプロ二軍か社会人・学生主体メンバーで臨んでいる。ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)は、アメリカ・メジャーリーグベースボール(MLB)機構およびメジャーリーグ選手会が主催し、日本側は、「野球日本代表マーケティング委員会(JMBC)」のトップチームを派遣する。2005年5月、アメリカ・メジャーリーグベースボール機構(MLB機構)が野球の国際大会ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の開催を発表する。国際野球連盟(IBAF)のプロ解禁後も、MLB機構は国際大会への参加を認めておらず、オリンピック・ワールドカップに代わる真の意味での世界一を決する大会にしようとの考えであった。IBAFのアンチドーピング規定をMLBが飲むと言う条件で、WBCはIBAF主催ではないが公認の世界大会と位置付けられた。そして16の国・地域招待と言う形で2006年3月に開催されることとなった。日本は当初、MLBの独善的な運営、3月という開催時期への疑問から参加に難色を示したが最終的には参加を決定。当時福岡ソフトバンクホークス監督の王貞治が監督に就任し、代表チームにはMLBからも2名(イチロー、大塚晶則)が参加し、初めてMLB選手も含めた日本代表が結成された(詳細は2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表を参照)。2006年3月に開催された第1回大会は決勝でキューバを破り初代優勝国となった。2009年3月に開催された第2回大会では読売ジャイアンツの監督を務める原辰徳が監督に就任した。前回大会と同じくMLB所属選手を含めた日本代表が結成し、決勝でも韓国を破り優勝した。連覇を達成した一方で、代表監督がNPBの球団監督との兼任であったため負担が大きいこと、第1回大会と同様に代表候補選手の辞退者が相次ぐなど、従来より抱えていた編成上の課題を解決することはできず、今後のWBC日本選抜の在り方に一石を投じる大会ともなった。第2回WBCでの監督選考の難航から、早い段階での監督選考・決定を行うべきとの意見が相次ぎ、2010年7月にも監督決定を行うとの構想が報じられた。だが、2011年5月の段階で「人選は依然として難題のままだ」との江尻良文による指摘、2012年5月の段階での「決め方や決定権がどこにあるのかが不明確な状況である」との論評が示すとおり、その後の動きは鈍かった。NPBでは2013年の第3回WBCに向けた日本代表の強化と収入増による財政の安定化を目的として、2010年には代表の常設化やNPBによる国際大会の開催計画があることを発表、U―26日本代表の併設などを検討した。2011年10月7日に開催したオーナー会議で、日本代表チームを常設化し、「侍ジャパン」と呼称することを決定した。独自の国際試合は翌2012年3月10日に東日本大震災復興支援ベースボールマッチとして初めて実施された。試合を観戦した国際野球連盟会長のリカルド・フラッカリは「(五輪復帰に向け)国際的に有効なメッセージになる」と、代表の常設化について歓迎するコメントを述べた。NPB4球団で構成され、野球日本代表の事業・ビジネスについて話し合う、侍ジャパンプロジェクト委員会が常設化と同時期に発足し、2012年秋と2013年春に2試合ずつ相手未定ながらも国際試合を行うことを発表。侍ジャパンプロジェクト委員会は「(事業展開は)粛々と進めたい」「侍ジャパンという大きなプロジェクトの価値を高めていく」と話し、侍ジャパンが事業であることを仄めかしている。代表常設化の一方で第3回WBCについては、日本代表のスポンサー権とグッズ販売権をめぐる不参加問題があり、NPBが参加を表明する一方でNPB選手会が大会不参加を決定する事態が2012年9月まで続いた。なお、日本代表独自のスポンサー権については日本に帰属することが大会主催者側から認められている日本が13年WBC参加表明へ スポニチアネックス 2011年12月1日。2012年9月3日、NPB12球団は侍ジャパンを利用したビジネス展開を目指す事業部局をNPB内に設置することを決定。4年単位でスポンサーを募り、グッズ販売、春秋の2度国際試合を開催し、そのテレビ放映権などで、WBCへの参加条件の見直しは無いが4年総額40億円を超える収益が見込まれていることをNPB選手会側へ伝えた。選手会は翌4日に「NPBがしっかりとビジネスを構築することを確約してくれた」としてWBCへの参加を表明した。2012年10月10日、監督として有力と見られた秋山幸二(ソフトバンク監督)の固辞により、山本浩二が就任することが正式に決まった。親善試合である11月の侍ジャパンマッチ2012「日本代表 VS キューバ代表」では12球団の監督によるアンケートに基づき代表選手の選考が行われる。2012年11月9日、前回WBCでスポンサーとなっていた、日本マクドナルドとアサヒビールが選手会問題により予算確保ができなかったとしてスポンサーを見送ることとなった(アサヒビールについては後日1年契約でのスポンサー契約を締結している)。2013年の第3回WBCでは準決勝でプエルトリコ代表に敗退し、大会3連覇を逃す。これまで、多くの国際大会に派遣されるアマ主導の代表と、WBCに派遣されるプロ主導の代表が混在する形となっており、それぞれ異なるデザインのユニフォームを着用していたが、2013年5月16日、日本野球機構(NPB)と全日本野球協会(BFJ)は記者会見を開き、「野球日本代表マーケティング委員会(JMBC)」の設立を発表した。ユニフォームはプロ主導の代表で着用されてきた「侍ジャパン」仕様に統一され、プロアマ連携により今後の競技力の向上と市場の拡大を図る。2013年7月に行われる日米大学選手権より始動する。2013年10月9日に代表監督として小久保裕紀が就任し、11月に台湾で行われた2013 BASEBALL CHALLENGE 日本 VS チャイニーズ・タイペイでトップチームが初の試合を行う。10月24日には女子代表の監督に大倉孝一が就任することが発表。2014年2月10日に第1回侍ジャパンサミットが開催。「野球日本代表マネジメント委員会(JBMC)においてのプロ側の窓口」と「トップチーム監督のサポート」を目的とした役職としてテクニカルディレクターが新設され、鹿取義隆が15U代表監督と兼任して就任することが発表。同じく明治大監督の善波達也が大学代表監督に、小島啓民がアマチュア代表監督に就任することが発表される。4月14日には徳島県立鳴門渦潮高校監督の高橋広が18U代表監督に就任。6月24日には仁志敏久が12U代表監督に就任し、インターネット上で12U代表選手選考にエントリーする企画を発表。6月30日には平田勝男が21U代表監督に就任する。2014年7月には大学代表が第27回ハーレムベースボールウィークに出場。7月17日にはオリックス・バファローズの金子千尋と糸井嘉男、読売ジャイアンツの坂本勇人、東北楽天ゴールデンイーグルスの嶋基宏、北海道日本ハムファイターズの中田翔、広島東洋カープの前田健太の6人が2014トップチームの代表選手として選出されたことを発表。8月20日にはMLB選抜オールスターチームとの2014 SUZUKI 日米野球を11月に開催することを公式発表。8月には15U代表が第2回15U野球ワールドカップに出場し、同じく8月に12U代表が第8回BFA 12Uアジア選手権に出場。9月には女子代表が第6回IBAF女子ワールドカップに出場し、同じく9月に18U代表が第10回18Uアジア野球選手権大会に出場。2015年1月19日には強化試合としてGLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表の開催が発表。オリンピックの野球日本代表は、1984年のロサンゼルスオリンピック(公開競技)から1996年のアトランタオリンピックまでは、アマチュア選手のみのチーム編成であった。プロ選手の参加が認められた2000年のシドニーオリンピックでは、アマチュア主体のメンバーに松坂大輔ら、プロ8人を参加させた混成チームで出場したが、初めてメダルを逃した。2004年のアテネオリンピックでは、初めてプロ野球選手だけでチーム編成を行い、銅メダルを獲得した。チームへの選出には日本国籍を有することが条件となっている。なお、2005年7月のIOC総会でロンドン大会では削除されたため、現時点では北京が最後のオリンピックとなるが、2020年の東京大会での競技復活が決定している。ワールド・ベースボール・クラシックでは日本代表入りに関する条件がの5条件の内の何れか一つ以上を満たす事となっている。どの団体球技も、世界選手権や五輪等に送りこむ「最強」の代表チーム以外に、選手資格に年齢制限がある大会に送りこむ年代別代表チームが存在する。しかしながら代表チームの概念が曖昧だった日本の野球界にはそのような年代別代表チームを編成することがほとんどなかった。野球も各年代ごとの国際大会は行われており、日本からも参加している。だがこれらのチームは全日本野球会議や全日本アマチュア野球連盟が編成する正式な代表チームでなく、全日本大学野球連盟や日本高等学校野球連盟が送りこむ選抜チームであるのがほとんどであった。2013年より、「野球日本代表マーケティング委員会(JMBC)」の代表事業として各年代別の代表チームが設立された。招集は各年代を統括する組織・団体が行うが、大会にはJMBCの代表事業として派遣される。大学生による競技大会としてはユニバーシアードがあるが、野球は普及度の低さから含まれなかった。そこで国際野球連盟(IBAF)は2002年から国別対抗の大学生による世界大学野球選手権大会を開催することとなった。この大会にチームを送りこんだのは、全日本大学野球連盟でなく全日本野球会議である。第1回大会当時の代表編成委員会の強化本部長は長嶋茂雄が務めた。ユニフォームも台湾ワールドカップやアテネ五輪でプロが着用したものと同じであり、そう言った意味でこのチームが日本野球界初めての年代別日本代表と言える。ちなみに同大会の参加資格に大学生であるという条件はなく、規約上は同年代のプロ、社会人も選考可能である。2012年大会は台湾で開催予定だったが参加申請国が4カ国にとどまり、開催必須条件の6カ国以上を満たさなかったため中止となった。第1回 - 第2回 - 第3回 - 第4回 - 第5回なお、日米大学野球選手権大会の日本代表は当該ページを参照。AAA世界野球選手権大会は国際野球連盟(IBAF)主催で1981年から行われている18歳以下で競われる国際大会。日本は夏の甲子園大会・全国高等学校野球選手権大会と時期が重なるため近年までチームを送ってこなかった。2004年大会は9月開催となったため初めて甲子園参加者も含めた選抜チームを参加させた。甲子園大会と時期が重ならなくなった2012年以降は継続して参加している。出場資格にプロ・アマ等の制限はないが、これまでの代表チームは全て高校生の選抜チームとなっている。2015年大会は初めて日本で開催される。第18回 - 第21回 - 第25回 - 第26回 - 第27回AAAアジア野球選手権大会は1994年が第1回。こちらは9月開催なので毎回参加している。高校生であることが参加資格でなく、早生まれのプロ、社会人、大学1年目の選手も参加可能である。近年は世界選手権とアジア選手権が隔年開催で、アジア選手権が世界選手権の予選を兼ねている。このチームは全日本野球会議が送りこむ日本代表でなく、日韓親善大会や日米親善大会と同じあくまで高野連が編成する「高校選抜」であった。2007年の第7回AAAアジア野球選手権大会では金属バット使用が禁止されたが、日本へは事後報告という形になったことから高野連は「筋が違う」「大会の趣旨から逸脱している」としてチーム派遣を拒否。このため日本野球連盟は傘下の企業(早生まれの1年目)、クラブ、専門学校の選手から代表を選考し、同大会に送り込むこととなった。このチームは全日本野球会議から代表事業として認定され、同大会に参加する初めての正式なU-18代表となった。2011年の第9回AAAアジア野球選手権大会では高野連による代表が参加し優勝した。第1回 - 第2回 - 第3回 - 第4回 - 第5回 - 第6回 - 第7回 - 第8回 - 第9回 - 第10回AA世界野球選手権大会は国際野球連盟(IBAF)主催の16歳以下で競われる国際大会。2005年、メキシコで第12回大会が開かれ日本は4位に入っている。この大会のチームを送っているのはリトルシニア。中学年代の硬式野球チームは、学校チームは存在せずクラブチームのみ。老舗のリトルシニア、ボーイズリーグほか7つの連盟が混在する。これら7つの連盟が一堂に会し競い合う大会は、毎年8月に東京で開かれるジャイアンツカップ全国少年野球大会(ジャイアンツカップ)のみである。このAA世界選手権参加チームも、オールジャパンの代表チームでなくリトルシニアの選抜チームである。ジャイアンツカップが正式な全日本選手権に承認されたのを期に、7連盟すべてから選出された代表チームが編成され、11月に台湾代表との親善試合が実施された。なお、2007年ベネズエラで開催のAA世界選手権(中止)から、リトルシニア単独の選抜チームながら、全日本野球会議の代表事業に認定され、正式な15歳以下の日本代表チームとなった。2012年から15歳以下の代表による15U野球ワールドカップに大会がリニューアルされた。なお第1回大会は開催地の政情不安を理由に不参加となった。女子硬式野球の全日本チームが初めて結成されたのは1999年、フロリダで行われた春季全米大会参加のためである。この時の派遣元として組織されたのが「全日本女子硬式野球チーム実行委員会」である。まだ法人格を持たない任意団体であった。チームには大塚製薬がスポンサーに付き、「チームエネルゲン」と命名された。以降定期的に選考を行いチームを強化していくが、このチームが公的団体で組織された「代表チーム」でなく、実体としてはクラブチームと同じため、選考に合格した大学野球部所属の選手の参加は二重登録に当たると日本学生野球協会に拒絶される。このため同実行委員会は全日本女子を公的に真の代表チームと認めさせるべく、日本野球連盟加盟を目指し2002年「日本女子野球協会」と改組し、大学野球部からの参加も認められるようになった。2003年に法人格取得、2004年日本野球連盟加盟が承認され全日本野球会議構成団体となり、2006年女子野球日本代表が全日本野球会議の代表派遣事業として承認され、晴れて正式な代表チームとなった。国際的には2001年に国際女子野球連盟が発足、2004年には国際野球連盟(IBAF)主催の IBAF女子野球ワールドカップ(第1回大会)が開催され、女子野球日本代表は準優勝した。2006年には第2回大会が台湾で開催され、女子野球日本代表も初めてアテネ五輪代表と同じユニフォームを着用して参加している。2008年の日本の愛媛で開催された第3回大会では見事優勝を果たしており、その後第4回大会(2010年)、第5回大会(2012年)、第6回大会(2014年)と現在4連覇中である。全日本野球会議以外の組織が編成した代表チームを指す場合と、代表チームが壮行試合を行う際に、代表に選ばれていない選手を集めて構成されるチームのことを指す場合とがある。後者の場合はプロ野球側が編成することが多く、プロ野球選抜・12球団選抜など名称は様々である。選抜された選手や監督の力量によっては、代表チームより実力が上の場合もあり、壮行試合で代表チームが苦戦することも少なくない。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。