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シリギ

シリギ(Širigi, 生没年不詳)は、モンゴル帝国(元)の皇族。『集史』などのペルシア語表記では شيركى (Shīrikī) 、漢字表記は失列吉、昔列吉、習列吉など一定しない。第4代大ハーン、モンケの四男で、母はモンケの側室のひとりバヤウチン。兄弟とともにモンゴル高原にあったモンケの所領と領民(ウルス)を相続した。1260年にモンケが死んだとき、モンケの本拠地カラコルムを中心とする高原中央部・西部の諸勢力は、モンケ兄弟の末弟で末子相続制により父トルイの莫大な遺産の大部分を継承しているアリクブケを後継ハーンに推し、シリギらモンケの遺児もこれに荷担したが、モンケの次弟クビライがアリクブケを屈服させると、シリギも降伏してクビライに仕える諸王となった。アリクブケ病没後の1267年には河平王の爵位を与えられ、モンゴル高原の諸部族の盟主としてクビライから派遣されたクビライの四男の北平王ノムガンの旗下に属す。1275年、ノムガンにクビライ配下の有力貴族である右丞相アントン、クビライの九男で異母弟ココチュが付属され、チャガタイ家の内紛で混乱する中央アジアへと派兵されると、シリギもこれに従軍した。彼らの軍は翌1276年にチャガタイ家領の中心であるイリ川渓谷の都市アルマリクに進駐し、中央アジアで勢力をふるっていたオゴデイ家のカイドゥを圧迫するに至る。しかし同年夏、シリギやアリク・ブケの遺児メリク・テムル兄弟らクビライ家の支配に不満をもっていた高原西部の旧アリクブケ派諸王が軍中で反乱を起こし、ノムガンとココチュの兄弟、アントンらを捕縛してモンゴル高原に戻った。反乱者たちから盟主に推戴され、高原の旧都カラコルムに入ったシリギは、叔父クビライに対抗するためノムガンの身柄をジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)、アントンの身柄をカイドゥに引渡し、彼らの後援を得ようとした。しかし、ジョチ・ウルスは動かず、カイドゥもノムガン軍の圧力が消えて権力の空白地帯となった中央アジアの状況の収拾を優先したため、独力でクビライ家の大軍と戦う羽目に陥る。シリギはカラコルム近郊の戦いで南宋を平定したばかりの左丞相バヤン率いるクビライの北伐軍に散々に破られ、高原中央部を失った。さらに反乱諸王の中には頭抜けた力を持つ者がいなかったために、内紛が続いて反乱軍は自壊し、逃亡したシリギは1282年にバヤンに降った。虜囚として中国に送られたシリギは海島に流され、その地で没した。『元史』宗室世系表では兀鲁思不花(ウルス・ブカ)王と并王晃火帖木児(コンコ・テムル)という息子の名前を、『集史』「モンケ・カーン紀」本文ではاولوس بوقاŪlūs būqāという息子の名前を記している。しかし、『集史』の図表や『五分枝』『高貴系譜』などではシリギの息子としてاولوس بوقاŪlūs būqā、توراتیمورTūlā tīmūr、تومان تیمورTūmān tīmūr、بوزادوBūzādūという4人の名前を挙げている。この内、اولوس بوقاŪlūs būqāは兀鲁思不花王に、تومان تیمورTūmān tīmūrは『元史』に散見する武平王禿満帖木児に相当する。トレ・テムル(توراتیمورTūlā tīmūr)は『元史』に記載がないものの、『集史』ではカイドゥからジョチ・ウルスに派遣された使者の一人として名前が挙げられている。『五分枝』『高貴系譜』ではトレ・テムルは「メリク・テムルの下にいる」と記されており、兄ウルス・ブカの投降後もカイドゥ側に留まっていたが、その後の動向は不明である。Būzādūについては何ら記録がなく詳細は不明であるまた、并王晃火帖木児(コンコ・テムル)はシリギの息子とすると没年があまりに遅すぎるため、実際にはシリギの孫であって、『集史』図表に記されるシリギの孫قونان تیمورQūnān tīmūrに相当するのではないかと推測されている。

出典:wikipedia

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