1956年アメリカ合衆国大統領選挙(1956ねんアメリカがっしゅうこくだいとうりょうせんきょ、英:United States presidential election, 1956)は、人気のある現職大統領ドワイト・D・アイゼンハワー(共和党)が再選を果たした選挙である。この選挙は、アイゼンハワーが4年前1952年の選挙で破った民主党候補者アドレー・スティーブンソンとの再戦となった。アイゼンハワーは人気があったものの、その健康問題が静かな問題になっていた。スティーブンソンは民主党革新派の中核で人気を保っていたが、役職経験がなく、実質的な基盤がなかった。スティーブンソン(およびアイゼンハワー)は公民権問題をほとんど無視した。アイゼンハワーは朝鮮戦争を終わらせ、国は繁栄し、カリスマ的要素でその大勝を疑う者はいなかった。1956年が始まると、アイゼンハワーの健康状態が危ぶまれたために、2期目に出馬しないのではないかという憶測が流れた。1955年、アイゼンハワーは重篤な心筋梗塞を味わい、1956年早々には回腸炎の手術も受けた。しかし、どちらの出来事の後も迅速に快復し、専属医師のお墨付きを得た後に2期目の出馬を決心した。「アイク」は大きな人気があったので、サンフランシスコで開催された1956年の共和党全国大会でも反対無く再指名された。共和党の中で唯一の疑問は、現職副大統領のリチャード・ニクソンが再度アイゼンハワーの副大統領候補になるかということだった。アイゼンハワーは、マサチューセッツ州知事クリスティアン・ハーターのような党派色が少なく論議も少ない者を好む証拠があり、歴史家(例えばスティーヴン・アンブローズ)数人に拠れば、アイゼンハワー自らはニクソンに国防長官のような別の閣僚職を提案したと言われている。しかし、ニクソンの副大統領候補再指名に表立って反対するのはハロルド・スタッセンのみであり、ニクソンは共和党一般有権者の間では高い人気を保っていた。ニクソンはまた、副大統領のあり方を改革しており、共和党が強い州や国中の地方候補者の選挙綱領としてそれを表に出し、これら候補者達がニクソンの防衛に回った。1956年春、アイゼンハワーはニクソンが再度副大統領候補となることを公に宣言し、スタッセンは党大会でニクソンに次ぐ位置に立たされた。1952年の場合とは異なり、共和党保守派(1952年はアイゼンハワーに対抗してロバート・タフトを支持した)はその綱領を作ろうとしなかった。党大会で唯一注目すべき事は、全てが満場一致で可決されることに抗議するために、ある代議員が架空の「ジョー・スミス」に投票したことだった。民主党の大統領指名候補者アドレー・スティーブンソンは1952年の民主党候補者であり、1956年も再指名に向けて、テネシー州選出の上院議員で人民主義者のエステス・キーフォーヴァーと予備選ではしっかりとした戦いを演じた。キーフォーヴァーはニューハンプシャー州予備選で反対無く勝利した(ただし、スティーブンソンは記名投票で15%を取った)。キーフォーヴァーがミネソタ州予備選でスティーブンソンを破ると、スティーブンソンは危機的状況にあることを認識し、フロリダ州でキーフォーバーと討論を行うことに同意した。スティーブンソンとキーフォーバーは、フロリダ州予備選の前の1956年5月21日に、初めてテレビ中継された大統領候補者の討論会を行った。スティーブンソンがフロリダ州予備選を52%対48%で制した。6月のカリフォルニア州予備選までに、キーフォーバーの選挙資金が底を突き、資金力のあるスティーブンソンと広告宣伝力で競うことができなかった。スティーブンソンがカリフォルニア州予備選を63%対37%で制し、その後間もなくキーフォーバーが指名争いから撤退した。スティーブンソンキーフォーヴァーラウシュマコーマックシカゴで開催された1956年の民主党全国大会では、ニューヨーク州知事アヴェレル・ハリマンが元大統領ハリー・S・トルーマンの後ろ盾を得て、スティーブンソンと指名を争った。しかし、スティーブンソン支持の代議員数がハリマン支持を大きく上回っており、スティーブンソンが1回目の投票で指名を得た。投票結果は以下の通りだった。1956年民主党全国大会のハイライトは、スティーブンソンが候補者選びの興奮を生み出そうとして、副大統領候補は代議員達が選ぶと突然の宣言をしたときだった。このことで、指名を得るために数人の候補者による激しい指名獲得競争が始まった。副大統領候補レースの興奮の大部分は、投票が始まるまでに代議員達に訴える時間が慌ただしい1日間しか残されていないという事実によっていた。有力候補は2人いた。1人はキーフォーヴァー上院議員であり、主な代議員の支持を保持していた。もう1人はマサチューセッツ州選出の若き上院議員ジョン・F・ケネディであり、当時は比較的知名度が低かった。スティーブンソンは副大統領候補としてケネディの方を好んだが、投票に影響を与えるようなことは如何なることもしなかった。専門家達を驚かせたことに、ケネディは2回目の投票で首位に立ち、しかも指名まで15票足りないだけだった。しかし、多くの州がその州の「お気に入りの息子」候補から離反し、キーフォーバーに鞍替えしたことから、調整後の集計でキーフォーバーが勝利した。ケネディはこの時潔い敗北演説を行った。この敗北はケネディにとって事実上長きにわたる大統領挑戦の始まりだった。キーフォーヴァーを倒す寸前まで行くことで全国的知名度を得ることができ、さらに最後はキーフォーヴァーに破れることで、11月に予測されるスティーブンソンがアイゼンハワーに破れることに対する非難は回避した。副大統領候補者選びの投票結果は以下の通りだった。スティーブンソンはアイゼンハワーに対抗して激しい選挙戦を行い、両陣営共にテレビ広告が初めて支配的な手段になった。アイゼンハワーが1952年に当選したのは女性票を獲得したのが大きかったので、「主婦」に焦点を当てた広告が多かった。スティーブンソンは社会福祉に宛てる歳出を大きく増やすことや、ソビエト連邦との条約を結んで軍事費を下げ、米ソ共に核実験を停止する提案を行った。また軍隊の徴兵制を止め、「すべて志願兵」に切り替える提案もした。アイゼンハワーは個人的には大気圏内核実験を禁止する提案のために動いていたものの、スティーブンソンのアイディアには公然と反対した。アイゼンハワーは第二次世界大戦の間に獲得した大きな個人的また政治的人気を保持し続けており、選挙運動中の世論調査でもかなりのリードを続けた。アイゼンハワーは投票日前の週末に起こった2つの外交政策に関わる危機に助けられた。ソビエト連邦が占領したハンガリーで、多くの市民がソ連軍に反抗して立ち上がった(ハンガリー動乱)。その反乱は数日の間にソ連軍に潰された。エジプトでは、イスラエル、イギリスおよびフランスの連合軍がスエズ運河を占領した(第二次中東戦争)。アイゼンハワーはこの占領を非難し、連合軍に運河をエジプト支配に戻すよう圧力を掛けた。この2つの出来事は現職大統領の支持に多くのアメリカ人を結集させ、その支持率の差が広がった。アイゼンハワーはまた1954年に出た「ブラウン対教育委員会裁判」の判決を支持していた。この合衆国最高裁判所による判決で、公共教育における合法的人種差別を終わらせていた。その結果、アイゼンハワーは黒人票の40%近くを獲得した。黒人からこのような多くの支持を得たことでは共和党候補者としては最後のことになった。投票日に、アイゼンハワーは一般投票の57%を獲得し、48州のうち41州を制した。スティーブンソンを候補は南部州のうち6州と境界州であるミズーリ州を制したに留まり、過去100年間でミズーリ州を制しながら選挙には敗れた唯一の候補者になった。アイゼンハワーはルイジアナ州を制し、レコンストラクションの1876年以来、同州を制した初の共和党候補になった。 "アラバマ州の造反選挙人W・F・ターナーはアドレー・スティーブンソンとエステス・キーフォーヴァーに投票することになっていたが、実際にはターナーの出身町の巡回裁判所判事であるウォルター・バーグウィン・ジョーンズと、隣接するジョージア州知事ハーマン・トールマッジに投票した。"青字は民主党、赤字は共和党が勝利したことを示す。数字は得票率の差。1959年にアラスカ州とハワイ州が州昇格を果たすので、1956年選挙は48州531人の選挙人で行われた最後のものになった。その他に次のような記録もあった。
出典:wikipedia
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