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三浦淳史

三浦 淳史(みうら あつし、1913年11月1日 - 1997年10月13日)は、日本の音楽評論家。秋田市生まれ。イギリス音楽の第一人者として知られた。父は北海道帝国大学工学部で冶金学の教授を務めていた。札幌第二中学校(現札幌西高等学校)で伊福部昭、佐藤忠良らと知り合う。北大予科在学中の1934年、伊福部らと共に「新音楽連盟」を結成。当時に映画慕情のモデルとなるイアン・モリソン氏(映画ではマーク・エリオット)に英語のてほどきを受ける。�その後“落第”して東北帝国大学に転じる。1940年、同大学法文学部卒業。ここでは村岡典嗣による日本思想史の講義を受講したという。北大予科在学中から音楽誌『月刊楽譜』に「札幌楽信」等を寄稿、戦後音楽誌の復活に伴い、音楽ジャーナリズムで活躍するようになった。イギリスをはじめとする諸外国への取材旅行を重ねるのみならず、タイムズ紙やタイム誌といった新聞雑誌からグローヴ音楽事典に至るまで、洋書を広く渉猟して欧米の音楽事情に精通し、「海外屋」の異名をとった。そのため、出版社やレコード会社からの信頼も厚かった。イギリスの作曲家では、ヴォーン・ウィリアムス、フレデリック・ディーリアスなどを高く評価していた。"「演奏家はその演奏だけ聴けばよいというご意見もあるわけですが、人間的なことに興味のある者としては、やはり演奏家の人間性とか、エピソードとかに関心をいだきたくなるのも人情というものでしょう。ユニークな文芸評論家=小説家の中村光夫氏が「エピソードがすべてだ」といっておられたのを記憶にとどめていますが(出典を明示できないで、引用するのは申しわけないのですが)、エピソードほど、その人の人間性のにじみでているものもありますまい」"三浦の評論スタイルはこの一文に集約されていると言って差し支えないだろう。彼は更に「エピソードを欠いている人間描写とか人物論は、スパイスのない料理にひとしい」とまで述べている。音楽そのものの描写は簡潔な印象を記すにとどめ、専らエピソードの紹介を通じて音楽家の人間像を描くことに努めるが彼のやり方であった。オットー・クレンペラーの奇行の数々に代表されるような、こんにち広く語られるようになった音楽家のエピソードには、三浦によって紹介されたものが多く含まれている。クレンペラーのエピソードもそうだが、三浦の紹介するエピソードには音楽家を神格化する類のものよりも、むしろ偶像破壊的なものが多かった(代表例はフレデリック・ディーリアス、ベンジャミン・ブリテンなど)。この点で、彼が翻訳したヒューエル・タークイの『分析的演奏論』に「人間の光と影」という副題が付いていることは象徴的である。三浦は音楽家の「光」の部分のみを描くようなことはしなかった。なおタークイの著書は、題名とは裏腹に音楽家のエピソードが中心の書物であるので、翻訳の際にも三浦の基本姿勢は貫かれていたと言えよう。自我を前面に押し出すことをせず、エピソードをして語らしめるのが彼の音楽評論であった。略歴でも触れたように、三浦は早くから欧米の音楽事情に通じており、その紹介に努めて「海外屋」の異名をとった。例えば、有名指揮者のほとんどが所属するという音楽事務所「CAMI(コロムビア・アーティスツ・マネージメント・インク)」の存在はノーマン・レブレヒト『巨匠神話』(日本語版は1996年出版)によって認知されるようになったが、三浦は、既に1970年代にはこの組織に言及していた。なお、「海外屋」と命名したのは「某音楽出版社のK部長」であるというが、それ以上のことはつまびらかでない。彼は「評論家十字軍説」という文章の中で「批評家というものは、何かをひじょうに支持するか、あるいは何かにひじょうに反対するかしなくてはならない」というアメリカの音楽評論家の説を引用しているが、三浦が非常に支持したのはイギリスの音楽であった。音楽之友社が編集した『名曲の案内』(1956年)でイギリスとアメリカの作曲家についての項目をほぼすべて執筆していることからも察せられるように、1950年代には既に英米の音楽に強い評論家としての地位を築いていた。アンドレ・プレヴィンやネヴィル・マリナーといった親交のある音楽家の姿を日本に伝え、またジャクリーヌ・デュ・プレの熱烈なファンを以て自認する一方、ジョージ・バターワースを初めとして、ロジャー・キルター、アーネスト・ジョン・モーランといった知られざるイギリスの作曲家を紹介することも忘れなかった。しかし何と言っても、飽きることなく彼が描き続けたのはディーリアスの姿ではなかったか。以下は、三浦が還暦を過ぎてようやく刊行した初めての評論集、『レコードのある部屋』の巻頭に収められた「夏の歌 グレッズのデリアス」からの引用である。"「デリアス(ディーリアスがもっとも原音に近いかと思う。デリウスと呼ぶのはドイツ語読みである)は、後半生を、パリのフォンテンブローから南へ40キロも奥まったグレ=シュール=ロワンという寒村に隠遁して、TV映画のように同地で亡くなった。彼の生涯は、その美しい交響詩のように一篇の詩であったが、晩年の不遇にもめげず、ヨークシァー人らしく、(頑固で知られている)、雄々しく生き抜いたのである。いまだに版を重ねているフェンビーさんの名著を読み、ロンドンでフェンビーさんにお目にかかることができたにもかかわらず、それは伏せられていたのである。デリアスの音楽をひそかに愛してきたわたしは、デリアスの生涯の終末を、崇高な悲愴美にたかまってゆくフィナーレとして見ていたのである。"(中略)"多少とも規模の大きな作品となると、変奏形式以外を使おうとしなかったデリアスの音楽は楽想の展開を失ってしまう。合唱のはいる「アパラチア」なども、チェロ群による動機が名状しがたい期待とサスペンスを、ぞくぞくするほど、呼びさますのだが、(この曲の録音を死の直前に行ったサー・ジョン・バルビローリのリハーサル風景では、必死になってこの動機をリハースさせている)、あとは何もおきないのである。この動機をきくつど、わたしは期待に胸がつまるのだが、もちろん、何も起きはしないのだ。ついに、わたしは、われわれの人生もこのようなものであるのかも知れない、少なくとも自分はそうだと思って聴くようになった」"ここに、三浦の評論世界のほぼすべてがある(唯一欠けているのは、「人の心を暖める」エピソードである)。彼はしばしば、原音に近いカタカナ表記の模索から文章を書き起こした。人物を描く前提として民族性に配慮するのも彼のいつものやり方であるし、洋書を情報源としているのは自他共に認める「海外屋」の真骨頂である。そして何よりも、彼は「何も起きはしない」音楽を好んだ。それ故にイギリス音楽を、中でもディーリアスを愛したのであろう。こうした軽妙な、或いは平穏無事な音楽への愛情は、イギリス音楽にとどまらず他の国の音楽にも及んでいる。例えば、彼はクラウディオ・アバドの「リリカルなマーラー」に共感していた。以下の引用文も、海外の評論を参照し、英単語に込められた意味を丹念に探っているあたりなど、典型的な三浦の文章と言える。また、単に海外での評価に追随するのでなく、それと自らの感覚とを対比させているところにも注意されたい。「海外屋」は、ただヨコに書かれたものをタテに直すような仕事をしていたのではなかった。"「『タイムズ』紙では、『ニュー・グローヴ』の主幹でモーツァルティアンとして知られるスタンリー・サディーが演奏評を書いている。ミダシは<リリカル・マーラー>とある"/"──マーラーの≪第五交響曲≫が、嬰ハ短調の荒々しく厳しいものから、嬰ニ長調の輝かしく明るいものへの経過を表しているとするならば、水曜日の夜のプロムスの公演における唯一の欠点は、その旅がその距離を充分にカヴァーしていなかったということであった。なぜならば、クラウディオ・アバドは、あの冷酷な冒頭の楽章を緩く沈鬱な重い足どりで演奏したとしても、音楽のあの暗い底にまで完全に届いたとはいいがたかった。彼がふったすべてに純粋にリリカルな温かみが浸透していたからである"/"──おそらく、もっと進んで醜さを認めようとする指揮者のみが、マーラーの精神的な旅に、そのマクシマムな叙事詩的性格を与えることができるというものだろう。"(中略、以下三浦の見解)"マーラーの音楽には“醜いもの”が、そこかしこにあるということは、むこうの音楽評論家の書くものの中に、かなりひんぱんに見うけられる。“アグリー”という言葉には、いろんな意味が含まれているらしく、「醜い」の訳語だけで代表させるわけにはいかないらしい。「ぶざまな、ぶかっこうな、いまわしい、たちの悪い、やっかいな」等々の意味がこの一つの単語の中に棲息しているらしいのである。マーラーが子供のころ、しょっちゅう耳にしたという兵営のラッパの音のエコーが、彼の交響曲のなかでもきこえてくるが、むこうの人の感覚によれば「あれもアグリーなんだ」そうだ。われわれ、少なくともぼくは、あのラッパのエコーがそれほどアグリーには感じないんだよな、困ったことに"/(中略)"ぼくはアバドのマーラーを聴くと、当惑しないでマーラーを聴くことができる。アバドが、≪第五交響曲≫で“もっと進んで醜さ(アグリネス)を認めよう”としなかったことに感謝したい気持ちだし、アバドの「リリカルなマーラー」により多くの共感を覚えるのである」"リリカルで軽妙、平穏無事な音楽の対極に位置する重厚長大な音楽として三浦が想定していたのは、恐らくベートーヴェンであったろう。三浦は言う。「わたしにいわせると、年の暮れにベートーヴェンの「第九」を年間行事のように聴きにくる人の気持ちがわからない。あのようにフルフィルされた作品を聴くことは、とりわけ年の暮れには堪えがたいことではあるまいか?」上に挙げた音楽家の他にも三浦は多くの音楽家を愛したが、中でも筆頭に挙げられるのはトマス・ビーチャムとデニス・ブレインであろう。「いかに莫大な名声と巨億の富を手に入れようとも、同時代の作曲家との創造活動に参加しなかった指揮者の生涯は空しいといわねばなるまい」と述べる三浦にとって、ディーリアスの擁護者であったビーチャムはその条件を満たしており、また彼は、三浦の愛するウィットに溢れたエピソードも極めて豊富な人物であって、三浦にとって理想の音楽家であったようにも思われる。そのビーチャムが自ら創設したロイヤル・フィルの首席ホルン奏者に抜擢したのがブレインであった。交通事故で早世してしまったブレインの「豊麗でメロウな音」を三浦は愛し、繰り返し取り上げて文章にしている。三浦の支持した音楽家とその音楽に続いては、彼が「ひじょうに反対」した音楽を求める段となるべきところだが、彼が何かに非常に反対することはほとんどなかったように見うけられる。デュ・プレを熱愛する余り、その悲劇を嘆いて「豆タンクのような男の性急な求婚を退けていたら、彼女のチェロは今なお輝かしく鳴っていただろうに!」と憤慨しているが、これはご愛敬というものであろう。あえて「非常な反対」を求めるなら、スイス・ロマンド管弦楽団(OSR)について書いた「アンセルメは後継者を育成しなかったので、その没後サヴァリッシュ、シュタインらのドイツ系指揮者が、アンセルメが OSR に築いた伝統を壊滅するのに貢献した」という一文が挙げられようか。同様の文章は『レコードを聴くひととき ぱあと2』や『アフター・アワーズ』にも見られ、アンセルメの作り上げた響きが失われたことを三浦は強く惜しんだ。イギリス音楽のみならず、彼がフランスの音楽をも愛したことがここに表れている。札幌二中在学中、三浦は伊福部に「音楽をやるなら作曲以外は意味がない」と作曲を勧め、後に伊福部から(自分を作曲界に陥れたという意味で)「メフィストフェレス」と称された。「優れたアジテイター」と自称するメフィストは盛んに活動した。あるとき三浦は、伊福部と共にスペインのピアニストであるジョージ・コープランドのレコードを聴いて感激、文通を始める。三浦が「友人に作曲家がいる」と書き送ったところ「作品を送るように」との返信があり、三浦は「これで曲を送らなかったら国際問題だな」と伊福部を脅迫(むろん冗談であろう)、伊福部はピアノ曲を書かざるを得ない状況に追い込まれてしまった。こうして生まれたのが伊福部の事実上の処女作「ピアノ組曲」(1933年)である。本作は1990年代になって「日本組曲」の題名で管絃楽曲や箏曲に編曲され、伊福部のライフワーク的作品となった。また、前述の「新音楽連盟」は1934年9月30日に札幌で「第1回国際現代音楽祭」を開催してエリック・サティの作品などを日本初演しているが、このとき三浦は曲目解説を執筆し、そのパンフレットは36ページに及んだ。ここで取り上げられた曲目に独墺系の作品は含まれておらず、主にフランスやスペインの音楽によって構成されていた。こうしたフランス好みは三浦と伊福部に共通しており、その由来について三浦は「わたしがろくにフランス語もできもしないくせに、フランス語やフランス歌曲にひかれるのは、感じやすい若い時代に、フランスのレコードが活躍で、けっしてドイツにひけをとらなかったため、フランス歌曲のレコードが盛んにわが国でプレスされたせいなのである」と述べている。レコードは三浦と伊福部の家にもあったようだが。、彼らはレコードを聴くために連れだってあちこちに出かけた。当時札幌にあった名曲喫茶「ネヴオ」では、夜の10時ごろになって客足が遠ざかると、店主は現代音楽のレコードをかけてくれたという。彼らはここで、ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」などを初めて聴くことになる。彼らはヨーロッパから楽譜や理論書を取り寄せて共に音楽修行に励む仲であった。伊福部の代表作「シンフォニア・タプカーラ」は三浦に献呈されている。作曲者曰く、この交響曲は十勝平野(アイヌ語でシャアンルルー)に暮らすアイヌへの共感とノスタルヂアが動機となって作曲された。そのシャアンルルーの世界を音にして都会人の三浦に伝えたい、というのが献呈の経緯であるという。「アイヌ語でシャアンルルーと呼ぶ高原の一寒村」に音楽的故郷を持つ伊福部とは対照的に、札幌で育った三浦は伊福部の言う通り都会人であることを自認しており、「人は観念的に大都会を嫌ったりしがちだが、田園に自由ありや否や? ぼくなんかも、大都会に自由ありのほうで」などと述べている。このように対照的な資質をも有する二人であったが、後に伊福部は三浦が亡くなったときのことを回想して「その晩は、音楽を書きたいと思うようになって以来のことがすべて思い出されてしまい、今昔の感に堪えないというか、名状しがたい気分に襲われました」と述べており、ここからは伊福部の音楽形成が三浦と共にあったことが窺われる。後に三浦はイギリス音楽の紹介者として知られるようになり、伊福部はロシア音楽へ向けて自らの音楽世界を広げていったのであったが、青年期に音楽遍歴を共にした彼らの音楽嗜好には共通するものがあった。先に触れた新音楽連盟の演目からも察せられるように、彼らは独墺系の音楽よりもフランスやスペインの音楽を愛した。三浦に至ってはお酒もフランスやスペインのものが好きであったらしく、彼の文章には早くから「ボージョレー・ヌーヴォー」の名が頻出し、またシェリーも好んだようである。何度か触れているように、三浦と言えばイギリスだが、意外にもイギリスのエールは苦手だったらしく、文章に出てこないところを見るとスコッチ・ウイスキーもそれほど好まなかったものと考えられる。なお、伊福部も酒豪で知られた。また、彼らは共に愛煙家でもあった。銘柄は、伊福部がダンヒル、三浦がキャメル。曰く、「何もキャメルでなくたっていいのだが、ぼくの場合は、初めて喫った舶来タバコ──戦前は“洋モク”などという品のない言葉はなかった──に回帰すること、久しいので、タバコといえば、キャメルなのである」三浦が死去した時、伊福部は「兄の勲も若い頃の音楽仲間も既に亡く、自分だけが残って寂しい限りです」とその死を嘆いた。

出典:wikipedia

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