島倉 千代子(しまくら ちよこ、1938年(昭和13年)3月30日 - 2013年(平成25年)11月8日)は、日本の演歌・歌謡曲歌手である。出身は東京府東京市(現:東京都)品川区北品川、学歴は日本音楽高等学校卒業。愛称は「お千代さん」。1938年、東京市品川区に警察官の父・島倉、母・ナカの二男四女の四女として生まれる。1945年、7歳、長野松本市へ疎開。井戸から水を運ぶ途中に転倒、水の入ったビンを割り、左手首からひじまでを損傷。母・ナカが「女の子だから(腕を)残して欲しい」と医師に懇願し、切断は免れたが、感覚も無く、動かすこともできなくなる(後に不自由ながらも動かすことができるようになる)。この時の輸血がのちに千代子が患ったC型肝炎の遠因となった。気持ちの沈んだ千代子のために母・ナカは「リンゴの唄」を聞かせるようになる。後に「この世の花」で歌手デビューを遂げた千代子だが、「この世の花」の作曲は「リンゴの唄」の作曲と同じく万城目正によるもの。1947年、9歳、東京に戻る。姉の敏子は歌唱力があったが小児麻痺を患っていたために歌手にはなれなかった。大好きな姉のために自分が歌手になると決意。敏子により声楽を学び、近所の「若旦那楽団」に入学。左手に負担の無いアコーディオンを担当。歌唱力があったためボーカルにも起用されていた。地元の品川神社で催されたのど自慢大会には毎回姉妹で参加していた。1950年、12歳、童謡「お山のお猿」がテイチクレコードから発売される。ただし誤植により「戸倉千代子」名義となってしまったため、「島倉千代子」のデビュー作とはならなかった。1953年、15歳、品川区の日本音楽高等学校へ入学。歌謡コンクールにも積極的に参加するようになる。1954年、コロムビア全国歌謡コンクールで優勝し、同社と専属契約。1955年3月、16歳、本名「島倉千代子」で歌手デビュー。デビュー曲「この世の花」(同名の映画の主題歌)は半年後に200万枚達成、人気歌手になる(後にテレビドラマでカバーされ、1977年に同名の映画の2作目で再度カバーされる)。1955年23曲、1956年34曲、1957年37曲、1958年33曲と驚異的な速さで新曲を発表。1957年、19歳、「東京だョおっ母さん」が150万枚のヒット。映画化もされ、自ら主演する。この年初めてNHK紅白歌合戦に初出場(曲目は「逢いたいなァあの人に」。その後、1976年、1979年にも歌唱)、同じ年で憧れの美空ひばりと競演して生涯にわたり実妹のように可愛がられるようになる。当時大卒サラリーマンの給料が1万円であったが、千代子は常に財布に2千円入っていた。1958年、20歳、港区高輪(北品川の隣町)に一戸建てを購入。同年には「からたち日記」が130万枚のヒットとなった。1960年、22歳、美空ひばりと一緒に「つばなの小径・白い小ゆびの歌」を発表。同年、ひばりを抑えて初めて紅白の紅組トリを務める(1960年から1962年、1973年から1975年の計6回に渡り紅組トリを務める。1975年は唯一の大トリ)。1961年、23歳、ファンの投げたテープが目に当たって失明寸前のダメージを受ける。このとき、東京五反田「守屋眼科」の医師・守屋義人の助けで視力を回復。1963年、25歳、父・壽雄が他界。悲しみにくれる中、支えてくれた元阪神タイガースの藤本勝巳と母親の反対を押し切り結婚。結婚前に妊娠したが中絶、結婚後も二子をもうけたが中絶した。後年、この三人の子を合わせて「忍」と名付け、その名を小さな地蔵に付けて肌身離さず持ち歩いた。忍の名は、島倉の墓碑にも千代子と並んで刻まれている。1968年、30歳、「泣き節」を売り物としていた彼女にとり異色の作品である「愛のさざなみ」が幅広い世代の間でヒット。この曲で第10回日本レコード大賞・特別賞を春日八郎と共に受賞。すれ違いの多い生活により別居を経て離婚。家族の元に戻るも反対を押し切って結婚したために門前払いされ、自分だけの戸籍を作る。1972年、34歳、母・ナカが他界。1975年、37歳、以前かかった眼科医に頼まれ実印を貸してしまう。その知人だけではなく、島倉が知らない間にマネージャーや全く面識のない赤の他人まで多数の人々の保証人にされてしまう。島倉を保証人に借金を重ねた人々はその後行方不明になり、その借金が雪だるま式に膨らんでいき当時総額16億円といわれた莫大な借金を抱える。後に美空ひばりから「実印は貸すな」と注意を受けたという(美空ひばり自身も実印を押してしまった経験を持つため)。1977年、今度は島倉に信頼され手形を裏書されていた守屋義人が事業に失敗して不渡り手形を出し蒸発。借金の連帯保証人にされ、これにより島倉は更に2億4000万円(当時判明分)の債務を負う。20億近くもの莫大な借金返済のため、写真集の発売や全国各地のキャバレー回りや地方興行などをしながら、足掛け7年程で完済した。このような活動をしている最中でも島倉の人気は全く衰えを知らず、NHK紅白歌合戦の連続出場記録は続く。1984年、46歳、歌手生活30周年を迎える。1986年、48歳、「第37回NHK紅白歌合戦」で紅白歌合戦への30年連続30回出場を達成。当時の紅白史上最多記録だった。1987年、49歳、「人生いろいろ」を発表。「30回という区切りを大切にしたい」と“紅白辞退”の記者会見を行い、紅白連続出場記録は30回でストップ。出場辞退表明の記者会見で若手記者から「結局、落選するのが怖かったということですか」と辛辣な質問をされ、「その通りです」と返答した。『紅白50回』のインタビューで本人は「辞退は前年の時点で決めており、前回身に纏った白色の着物はその表れだった」「ここ数年紅白に出られるか出られないかで不安だった。もし落選したらショックで歌えなくなると思った。そのため、余力のあるうちに辞退しようと思った」と語った。島倉は出場辞退をこの年発売の「人生いろいろ」の作曲者・浜口庫之助(当時療養中)に報告したところ、「紅白で『人生いろいろ』が聞けないのか」と返されたことを明かしている。ただし、合田道人は著書で、島倉は実質落選だが番組側の配慮で辞退という形になったと推測している。1988年、50歳、「人生いろいろ」が前1987年からこの年にかけて130万枚の大ヒットを記録。『オレたちひょうきん族』での山田邦子やコロッケによる物真似をきっかけに「人生いろいろ」が若者にも受け、再びブレークする。同年の『第30回日本レコード大賞』で最優秀歌唱賞を受賞。「100万枚記念パーティー」では、山田とコロッケが本人の目の前で、島倉の物真似による「人生いろいろ」を歌唱。これに対し島倉は、「山田邦子さんとコロッケさんのおかげで、『人生いろいろ』が若い方にも親しまれるようになり、光栄です」と二人を賞賛する。同年末の「第39回NHK紅白歌合戦」に2年ぶり31回目の復帰出場となる。この復帰出場に対しては「一度降りたのに」と批判の声も上がった。出演を決めた背景には当時療養中だった浜口に「歌う姿を見て元気になって貰いたい」との思いがあったためである。借金返済の目処がたつ。姉の敏子が自殺。1989年、51歳、美空ひばりが52歳の若さで間質性肺炎による呼吸不全で他界。自身の後援会で愛知県に滞在中に訃報を聞いた島倉はその後のスケジュールを切り上げて目黒区青葉台のひばり邸に駆けつけ、息子の加藤和也に頼み3日間ひばりのそばに張り付いて離れなかったという。1993年、55歳、初期の乳癌であることが判明。芸能人で会見を開き、自ら癌であることを発表したのは島倉が初めてだった。手術は成功する。ライブハウスなど歌謡曲の枠をはみ出して活動。1999年、61歳、歌手生活45周年を迎える。45周年コンサートではタキシードで全国を廻る。ベストジーニスト賞を受賞。同年、紫綬褒章を受章した。2004年、66歳、歌手生活50周年を迎える。「第55回NHK紅白歌合戦」に生涯最後となった35回目の出場を果たす(当時の紅組史上最多記録)。2007年、69歳、事務所のスタッフに資産を奪われ再び多額の借金を抱える。同じ過ちを犯すのは自分のせいと責任を感じ、自らの誕生日に事務所を解散。しかし周りの協力により心機一転スタートすることになり、経理も全部自分でやるために簿記を勉強。同年、映画『ララ、歌は 中山晋平物語』にナレーターとして出演し、中山晋平の世界を表現した。また藤商事からパチンコ機種『CR島倉千代子の千代姫七変化』が発表され、全国のパチンコ店に導入された。2008年、70歳、「人生いろいろ」が出身地である品川区の京浜急行電鉄青物横丁駅の電車接近メロディに採用される。このニュースを聞きつけた島倉自身が2009年1月、青物横丁駅を訪れて実際に流れる駅メロに耳を傾けた。そして京浜急行電鉄に宛てて後日、礼状を改めて送付したという。2009年、71歳、歌手生活55周年を迎える。大分県を本拠地として九州各地で営業するリフォーム会社・野田建工のテレビコマーシャルに着物姿で出演していた。なお、野田建工は求人雑誌に大きなカラー広告を多く掲載しており、島倉の写真を求人情報誌で見ることができた。2010年に肝臓癌であることが判明、手術・入退院を繰り返していた。肝臓癌発症は極少数の関係者にしか打ち明けていなかった。その間、3度の肝動脈塞栓術を受けたが、2013年前半には肝硬変に至っていた。同年3月30日、75歳の誕生日にはコロムビアレコードの100周年を記念し復活したイベント「コロムビア大行進2013」に出演し、「人生いろいろ」などトークを交えながら数千人の聴衆を前に数曲を歌った。同年5月から仕事をセーブするようになり、同年6月21日、宮崎県延岡市で開催したコンサートが生涯最後のステージとなった。同年6月、日本テレビ『1番ソングSHOW』の取材を受けた(生涯最後のテレビ取材となった)。同年9月14日にブログを更新した(最後の更新)。同年10月中旬に一時退院したが、同年11月6日、「体調が悪いので来てほしい」と自宅からスタッフに電話して東京共済病院(東京都目黒区)に再入院。同年11月8日朝に容体が急変、午後、東京共済病院の病室にて所属事務所の女性スタッフに看取られ、眠るように息を引き取った。満75歳没(享年76)。周囲の関係者には予め、通夜は密葬とし、香典は断るよう伝えていた。島倉の訃報を受けて内閣官房長官・菅義偉を始め、北島三郎、五木ひろし、細川たかし、氷川きよし、水前寺清子、大月みやこ、都はるみ、八代亜紀、小林幸子、森昌子など島倉を敬愛していた後輩の演歌歌手達、またコロッケ、山田邦子らものまねタレントも追悼のコメントをそれぞれ発表した。2014年のデビュー60周年に向け、復帰への意欲は衰えずに持ち、同年10月中旬に一時退院した後、死去3日前の11月5日に自宅で記念曲「からたちの小径」を録音南こうせつ「奇跡の歌声」 島倉千代子さん死去3日前に録音。同曲は遺作となったが、「来年発売の記念CDボックスに入れたい」と関係者は語っていた。なお、同曲は同年12月18日にシングル発売された。レコーディングは当初、11月15日に行う予定だったが、島倉自身から「その日まで待てない」と関係者に連絡を入れて11月5日に急遽吹き込みが行われた。同曲の作曲を担当し、レコーディングにも立ち会った南こうせつは「(島倉さんの具合から)1回位しか歌えないかと思ったが、3回も歌われた。奇跡の歌声だった」と語っている。翌6日には入院先の島倉本人が南へ電話をかけ、感謝の意を伝えたという。島倉の死去から6日後の11月14日、葬儀が東京・青山葬儀所で営まれ、「からたちの小径」を録音後涙声で「私の部屋の中にスタジオができて、そこで私はできる限りの声で歌いました。自分の人生の最後に、二度と見られない風景を見せて頂きながら歌を入れられるって、こんな幸せはありませんでした。人生の最後に素晴らしい時間をありがとうございました」と、島倉の生涯最後となる肉声テープが流れていた。また告別式では、島倉に憧れて演歌歌手となった石川さゆりが代表として「寂しいです。もっとお元気で歌って欲しかった。優しく時に厳しく叱ってくれる人がいなくなってしまいました」「これからも私達後輩を空高くから見守って下さい」と、涙で時折言葉を詰まらせながら弔辞を読んだ。同年12月31日の『第64回NHK紅白歌合戦』では石川の「津軽海峡・冬景色」の歌唱前に島倉の追悼コーナーが設けられた。当初、番組側は石川に島倉の持ち歌である「東京だョおっ母さん」や「人生いろいろ」の歌唱を要請していたが、石川が「島倉さんとは親しいですが、都はるみさんや五木ひろしさんなど、自分よりも仲の良かった先輩歌手がいるのに、そんな出しゃばった真似はできない」とその打診を断ったとされる。戒名は寳婕院千代歌愛大姉。故郷・北品川の臨済宗東海寺大山墓地に生前に建てていた墓に眠る。島倉さんは、地方小唄や音頭と言った、新民謡を数多くレコードに吹き込んでいる。中には、「松井田小唄」「祇園まつり音頭」「七夕おどり」など地元の人以外にも広く親しまれ、全国的によく知られた歌もある。地元では、大スターである島倉がレコードに吹き込んだこともあって、大変親しまれている場合が多い。当時の音源が祭りの際に使用し続けているところもある。また、仙台市の「ミス仙台」(二葉あき子のカバー)や、大阪市の「小鳥が来る街」などといった、地方の愛唱歌の類もレコードに吹き込んでいる。また、民謡で「祖谷の粉ひき節」「島原の子守唄」「五木の子守唄」などをレコードに吹き込み、ヒットさせている。上記のような歌の数々が、島倉と地方との結びつきを強めている。7歳の時の怪我で左手が不自由になって以来、引きこもりがちとなった島倉には友達が一人もいなかった。そんな彼女が夢中になったのが1歳年長の美空ひばりである。アルバイトをしてはひばりのコンサートに行く、追っかけとなった。1953年の落選を経て、1954年憧れのひばりが所属するコロムビアレコードのコンクールに合格。しかし既に大スターだったひばりにはなかなか会えなかった。1961年、それまではひばりが不動の1位だった雑誌『明星』のファン投票で島倉が1位となってからは、ますますひばりに会う機会が失われていく。「ひばりさんが出る番組には島倉は出られない。という空気が築かれていた」と島倉自身が語っている。周囲の仲間たちがひばりと交友関係を築いた後も島倉はプライベートで交流することはなかった。両者とも親しかった和田アキ子は島倉に「今度、一緒にひばりさんに会おう」と誘ったが「恐れ多くて…」と遠慮していたという。1984年2月2日、長年憧れながらもひばりとの距離が縮められずにいた島倉に思わぬ出来事が起こる。今まで一度も飛び入り出演をしたことがなかったひばりが島倉の30周年パーティーに島倉やコロムビアレコードの関係者などに一切連絡もなく一人でパーティー会場へ突如やってきたのである。驚きと嬉しさで涙が止まらない島倉にひばりは「これからは人に騙されない人生を送って欲しい。私は実印は絶対離しません」と述べ会場の笑いをとっていた。その頃、ひばりは自身を深く理解してくれる家族を相次いで亡くしており、今一番に自身を理解できるのは島倉かもしれないと考えていたという。2人には共通点が多々あったからである。同学年で若くしてスターになり、ファンに塩酸をかけられ負傷したひばりとファンが投げたテープがあたり失明の危機に陥った島倉。離婚経験、金銭トラブル、家族の死、そして歌への熱意。翌年の3月3日毎年極親しい女友達だけを集め美空ひばり邸で行われる「ひな祭り」に島倉は初めて参加する。その時ひばりに頼んで書いて貰ったサイン色紙には「舞う鳥も私と同じこの世にも生きてこそあれ歌ひとすじ一筋の道」という短歌が書かれており島倉の宝物となった。1987年夏、ひばりが病気で福岡の病院に入院した直後に島倉が「面会謝絶は重々承知の上で、ひばり姉さんに逢えなくても病室の前を一目見るだけでいいから直ぐにでも駆けつけたい。」とひばり本人やコロムビアレコード役員などの関係者に直訴したところ直ぐ様「お千代なら来てもいいわよ」とひばりが了解して即見舞いに訪れた。島倉本人は大変緊張しながら「ひばり姉さんを励ますつもり」で病室に入ったら、病室のひばりが「お千代、良く来たわね」と生来の明るさで島倉を迎え、「お千代が来てくれたから鍋焼きうどん(島倉の好物)の出前でも取って食べよう」と食欲がなかったのにも関わらず完食したそうで病人とは思えない元気さを島倉の前に見せた。そのひばりの姿に「私が励ますつもりで行ったのに、逆に私の方がひばり姉さんに励まされちゃって…… こっちの方が恐縮でした」と後にテレビのインタビューで語っていた。島倉が紅白出場辞退をした際、ひばりから「お千代、(辞退したことに)後悔はない? ここからが見せどころよ」とアドバイスを受けたという。晩年、闘病生活を送っていたひばりはどんなに親交の深い芸能界の友人、親友などが見舞いに訪れても、プライベートでも実妹のように大変可愛がっていた島倉ととんねるず以外の面会は拒否していたとされる。2003年6月29日、フジテレビ『FNS27時間テレビ』内アニメ『ちびまる子ちゃん』(「歌は心・人生いろいろ」の巻)において、本人役で自身初の声優に挑戦。この回のストーリーはまる子の祖母・こたけからの「病に倒れた友人に一目会ってあげてほしい」という手紙を受け取り、変装をして清水にやってくるという設定だった。挿入歌として「からたち日記」(1番をアカペラ(無伴奏)で歌うシーンもある)、エンディングテーマには「人生いろいろ」が起用された。2011年、DVDとして発売されている。59年間の歌手生活において、ステージで一度も口パクはしなかった。人を疑わない性格のため多くの人に「騙された」「裏切られた」と言われる島倉に対し作詞家なかにし礼は「その分、騙した人の数の何倍もの音楽関係者、芸能関係者が彼女を助けてきた」と語った。なかにしは彼女の代表曲のひとつである「愛のさざなみ」を作詞している。結婚後ミリオンから遠のき、離婚により暗いイメージがつきかけた島倉のために作ったこの異色の曲は久々のミリオンとなった。横文字が苦手で『クイズ$ミリオネア』に出演した際、正解発表前の言葉「ファイナルアンサー」が言えず、代わりに「おしまいアンサー」と言っていた。1957年(第8回)の初出場以来、1986年(第37回)まで紅白史上初の30回連続出場を達成。1987年(第38回)は一旦出場辞退したが、「人生いろいろ」で久々のヒットを記録したことを背景に、1988年(第39回)へ2年ぶりに復帰出場。1994年(第45回)には「紅白歌合戦45回の歴史を象徴する歌手」として6年ぶりのカムバックを果たし、1996年(第47回)まで3年連続して出場した。2004年(第55回)に「紅白歌合戦に出場してほしい歌手」アンケートで上位歌手15組の中に入ったことから、8年ぶり通算35回目の出場で66歳の紅組最年長出場となったが、これが生涯最後の出場となった。通算出場回数では、1973年(第24回)に17回目の出場を果たして以降、白組歌手・北島三郎が1998年(第49回)で通算35回目の出場を果たし、島倉の記録を追い越すまで20年以上もの間歴代第1位の記録を保持していた。さらに女性歌手では、同じく1973年(第24回)以降、2012年(第62回)に和田アキ子が36回目の出場を果たすまで、39年もの間島倉が史上最多出場記録を保持していた。1960年(第11回)では、それまで3年連続で大トリを務めていた美空ひばりを抑えて初めて紅組トリを務め、1962年(第13回)まで3年連続で紅組トリを担当した。その後はひばりが10年連続でトリを務めたが(島倉は中盤に固定されていた)、1973年(第24回)にひばりが落選すると再び紅組トリに返り咲き、1975年(第26回)まで3年連続で紅組トリを務めた(1975年は唯一の大トリ)。紅組において通算トリ回数6回という記録は、美空ひばり(13回)、和田アキ子(7回)に次ぎ、石川さゆりと並んで歴代3位である。また、3年連続トリという記録も、上述したひばりの10年連続に次ぐ記録である。多くの楽曲を発表しており(およそ2,000曲)、また当時のアルバムにしか入っていない曲もあるため、持ち歌の数を正確に数えるのは困難である。ほか多数ほか多数
出典:wikipedia
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